見出し画像

26. ブラジルの魂はバイアに

 さて、この旅行最後の訪問地へ参りましょう。リオデジャネイロから飛行機で3時間北上すると、バイアに着きます。Bahia《バイア》というのは州の名前です。到着地はサルバドール市で、ここがバイア州の州都。
 ここで改めて、地理のおさらいをしておきましょう。ブラジルの概略図を見ると、南アメリカ大陸の中央西側を占めており、その北方にはアマゾンがありますね。ジャングルに覆われ、黄土を溶かしたような大河が蛇のように身をくねらせて延びている湿地帯です。
 そこから南に行くにつれて大陸は大西洋に張り出し、さらに下ると先細りになっていく。ある地点で急に細くなり始めるその部分にリオデジャネイロ市がありました。

サルバドール市は、アマゾンとリオの中間辺りに位置する港街です。ここがブラジル最初の首都でした(1549~1763)。
 西暦1500年にポルトガル人がはじめてブラジルを発見して以来、16世紀当時、最も栄えていた港町です。ここから材木やサトウキビ、香料などの農産物を本国へ向けて積み出していました。材木の名前をブラジルウッドといいます。ブラジルという国の名前は、この木を由来としているわけです。切ってみると赤い色をしており、染料として重宝されていたものです。当時は広く繁茂していたブラジルウッドも、現在では奥地に行かない限り、ほぼその姿を見かけることはありません。
 ある時、どこからかネクタイを下げた人間がやってきて、その都合に合わせて無節操な企図のもとで開発をした結果、その土地には荒廃ばかりが残り、地球のどこか別の土地で少しばかりの繁栄の祝杯が上げられる。よく聞く話ですね。

 サルバドールから農産品を運んだ、その同じポルトガル船がブラジルへ戻る時にアフリカから輸送していたのが、奴隷です。
 当時スペインやポルトガルは、新航路・新大陸の発見によってもたらされた富により、国力は大きく飛躍し、第二次産業も発展していました。植民地を拡大し、原住民社会を治め、その地に自国文化を持ち込む一方で、農産品や貴金属などを本国へ送り込んでいたわけです。植民地としてのブラジルに対しては、支配を確実なものにするために、現地社会の発展は阻止するという政策が施されました。農業・鉱業の収穫品だけを求めたのですが、その労働力としてアフリカの黒人が運ばれてきました。その時に奴隷を収容していた港の倉庫が、現在は観光客向けのレストランとなっており、そこでは黒人の踊りが披露されます。


 当然のこと、アフリカの宗教や文化もそのまま持ち込まれました。ポルトガル人はこれを禁じようとします。レストランで披露された踊りは、まるで格闘技のように激しいものです。カポエイラという踊り、実はアフリカの格闘技であったものが、当局にとって危険であるという理由で禁じられたので、黒人たちはこれをカモフラージュとして踊りのように見せて、音楽に合わせた動きに変えたのでした。

 しかしこうした懸命の抑圧にもかかわらず、結局は、自分たちが連れてきた奴隷の数に圧倒され、これを押さえることができず、融和策を取ることになります。この融和策のために、バイア州サルバドルでは原住民、ポルトガル人、アフリカ黒人の血と文化が混じりあった、独特の社会が形成されることになりました。ブラジルの音楽の熱狂、サンバのリズム、この発祥はバイア、こんにち「ブラジルの魂は、バイアにある」と言われています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?