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気仙沼との10年の話

宮城県の気仙沼とご縁をいただいてから約10年。iphoneを見るとぼくは気仙沼で1335枚の写真を撮影していた。意外と少ないなぁと思ったけれど、1年間でだいたい133枚かと単純計算をしたら、結構撮っていたことにやっと気がついておったまげた。

ぼくがはじめて気仙沼に行ったのは2012年の3月。前職のほぼ日にアルバイトで勤めさせていただいてすぐのことだった。街のあちこちにすこしだけ雪が積もっていて、もう、寒くて、寒くて。そんな景色と感情をぼんやり覚えている。

その後もほぼ日に勤めている2年間は気仙沼出張に同行させてもらえる機会をたくさんいただけて、なんだかんだで年10回ぐらいのペースで行っていた。「被災地に行っている」という実感はそれほどなかったような気がしていて、とにかく気仙沼に行くのが楽しくて、いろんな人に会えるのが楽しくて、おいしいものが食べられるのがうれしくて、片道約5時間の道中を毎回新鮮な気持ちで向かっていた。

ほぼ日を卒業したあと、もうご縁がなくなっちゃうような気がしていたときに、「気仙沼漁師カレンダー」のお仕事をいただけて、なにか自分でも力になれるかもしれないと思えたことと、これで気仙沼に行く理由ができたとうれしくなった気持ちを今でも覚えている。けれど、そんな気持ちをいだかなきゃよかったと思うぐらい、自分の無力さを毎度毎度感じた。帰りの大船渡線と東北新幹線がそれを感じるピークで、その時間が大嫌いだった。

そんなこんなで気がつけば、年に5回ほど気仙沼に訪れるという生活を7年。その時間を気仙沼漁師カレンダーの話をくださった女将さんの集まり「気仙沼つばき会」さんと過ごさせてもらった。女性ならではの柔らかさと頭の良さ、力強くて素晴らしい心意気をもった女将さんたちの生きる姿は、本当にかっこよかった。

そんな思い出のなかで印象に残って、今でも脳みそに焼き付いていることがある。

あれはたしか2016年の3月の上旬。いつも元気ハツラツで太陽みたいな気仙沼つばき会のお1人が、まったくと言っていいほど元気がなく、理由をたずねると、

「5年も経ったけど、やっぱり3月11日が近づくと体調が悪くなってくるの。それに、震災のあと5年後を想像して全力で駆け抜けてきたけど、想像してた5年後には到底およばない復興で、今からさらに5年後もこのペースでしか復興が進んでないと思ったら、もう疲れちゃってね」

言っている言葉はものすごく理解できた。けれど、気持ちが追いつかない。どれだけ想像しても、この苦しさと虚しさはぼくの未熟な心ではわかることができなかった。こればっかりは仕方ない。そう悟って、ぼくはこのとき、よそものである自分を再度認識し、よそものであり続けようと思った。そして、理解しようとか、寄り添おうとかよりも、自分にできることを考え続けたいと思った。

だからこそ、自分の無力さを毎度毎度感じ、やっぱり帰りの時間が大嫌いだった。

結果、なにが自分にできるのか、できているのかは、今でもまったくわからない。力になれているのかなんてわからない。ただ、そうこうしているうちに昨年末、気仙沼の人がぼくのお嫁さんになってくれた。とても不思議なご縁を感じられて本当にうれしかった。そして、よそものだったぼくが、ある意味気仙沼に近づいた大きな一歩だった。

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昨日、そのお嫁さんから

「順平は気仙沼を10年見てきて、変わったと思うところある?」

と突然聞かれた。

その一言であらためて10年を振り返ると、大きく変わったと思えたものは街の景色で、人の雰囲気も徐々に変わってきたようにも感じられたけど、肝心なところは結局のところ何も変わっていないような気もした。地元の人のあの日の傷が癒えているかといえば、決してそんなことはないと思う。復興を願う心は10年経った今でも変わっていない。

気仙沼の人も、漁師さんも、もともと海と付き合って行く覚悟を持っている人たちだから、悲しみや憎しみをもっているのも感じる一方、この街で生きていくってこういうことだという強い気持ちを感じることもたくさんあった。

10年を振り返ってみて一番感じたことは、じつは過去のことではなくて、「気仙沼の楽しみはこれから先の10年」なのではないかと思ったことだ。

あの日からの気仙沼の10年は、とんでもない数の人と関わり、とんでもないクリエイティブを見て、とんでもないアイディアと触れ合うような、とんでもない10年だったと思う。このインプットたちがアウトプットされるのこそ、これからの10年なのではないかと思うのだ。

復興予算も次年度で終わると聞くし、間違いなく「被災地」としての見方もいい意味でも、悪い意味でも変わる。だからこそ、ここからがさらに変化していくスタート地点なような気がして、今日からの気仙沼が、被災地が、さらに楽しみな街であると思っている。


そんな希望をいだくことは、震災から5年目と同じようにがっかりする結果を招くことになるかもしれない。それでもぼくは、これから10年の気仙沼の進化を楽しみに、できればその楽しみに関わらせてもらえたらなんて、ちゃっかり考えております。

未来の気仙沼が、ますます希望にあるふれますように。

これからもよろしくおねがいします。

竹内順平

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