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富岡製糸場に学ぶテクノロジーの社会実装

どうも、エンジニアのgamiです。

先日、富岡製糸場に一人旅に行ってきました。

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別に歴史も工場も特別好きではない僕が富岡製糸場に行ったのは、最近未来を実装するという本を読んだからでした。

『未来を実装する』では、「新しいテクノロジーが広く価値を生むために社会を変える方法」について書かれています。その中で、「電気モーターが工場のレイアウトをどう変えたか」という事例が紹介されていて、古い工場に興味を持ちました。

今回は、富岡製糸場から見る日本の製糸業を事例にしつつ、『未来を実装する』で書かれた「社会の変えることの重要性と難しさ」について考えます。(こう言うと歴史のお勉強っぽいですが、なるべくDXとか現代の話につながるようにわかりやすく書きますね。)


テクノロジーをただ導入しようとしても社会は変わらない

さて、現在われわれの社会は、多くのテクノロジーの受容を迫られています。キャッシュレス決済、自動運転、ドローン配達、脱はんこと電子署名、などなど挙げればキリがありません。それらの多くは「デジタルテクノロジー」と総称されます。

新しい魅力的なテクノロジーが登場したとき、多くの人は「そのテクノロジーを導入すればすぐ社会が良くなる」と思い込みがちです。テクノロジーとは、服を着替えるように簡単に装着可能であり、新しい機能を持ったテクノロジーを着ると即座に今までできなかったことができる。そんなイメージを漠然と持っている人も多いと思います。現に僕も「全部の自動車が自動運転車に変われば運転しなくても移動できて便利なのになあ」などと安直に思っている節があります。こうしたテクノロジー観が広がると、「新しいテクノロジーを受容できない者は古い考えに囚われた馬鹿である」といった先鋭化した考えが生まれてきたりもします。

しかしほとんどのテクノロジーは、即座に装着して価値を引き出せるような代物ではありません。それを受け入れる社会の方を変えなければ、新しい技術が社会に受容されることはありません。

本書の母体となったワーキンググループでの調査では、「日本の社会実装に足りなかったのは、テクノロジーのイノベーションではなく、社会の変え方のイノベーションだった」という結論に辿り着きました。(中略)「テクノロジーの社会実装」というとき、私たちはついテクノロジーのほうに視点を向けてしまいがちです。(中略)しかし(中略)社会の仕組みを変えなければ、新しい技術が社会に受容されることはありません

(『未来を実装する』 - 社会の変え方のイノベーション)

『未来を実装する』ではこの「テクノロジーをただ導入するだけでは足りない」ことの一例として、電気モーターによる工場の変化が紹介されています。

蒸気エンジンの位置も問題でした。蒸気エンジンの場所を工場の中央にしなければならないという制約があったのです。(中略)
電気モーターの場合、蒸気機関と違ってエネルギー消費量の多い機械を動力源の近くに置く必要もなくなりました。その結果、従来の蒸気エンジンを中心に考える工場と比べて、全く異なる配置の工場設計ができるようになりました。これによって「流れ作業方式」と呼ばれる大量生産のやり方が確立したのです。ヘンリー・フォードは「機械を作業順に置くことができるようになり、作業の効率が2倍になった」と述べています。

(『未来を実装する』 - 電気の社会実装)

電気というテクノロジーを従来型の工場にただ導入するだけでは、その価値を最大限発揮させることはできません。重要なのは、「新しいテクノロジーの活用に最適な仕組み」を考えてそれを実現することです。まさにここにおいて、(テクノロジーのイノベーションではなく)社会の変え方のイノベーションが必要になるというわけです。

この事例を読んで、僕はなんとなく「工場見たいなあ」と思い至り、富岡製糸場に向かいました。

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(繭置所)

製糸業の歴史を見続けた富岡製糸場

テクノロジーそれ自体とは異なり、社会については歴史から学べることが多いはずです。特に平成以降の問題は複雑すぎて理解が難しいので、近現代史のシンプルな事例の方がわかりやすく学びを得られたりします。

ここで、富岡製糸場のユニークさについて軽く触れておきます。

まず、富岡製糸場が設立された明治初期には、日本の輸出の大半を生糸に関する商品が占めていました。不平等条約に苦しむ当時の日本では軍備を増強することは急務であり、品質の良い生糸を大量に生産し輸出することはまさに国策でした。

当時の貿易年鑑をみると、驚いたことに、その輸出の大半が生糸関係(生糸、絹織物、蚕種)で占められている。(中略)特に明治初年の貿易はこれが極端で、六十パーセント以上が生糸関係で占められていた年さえあった

(『あゝ野麦峠』 - 文明開化と野麦峠)

富岡製糸場はそんな生糸生産の模範となるべく官製工場として設立されました。富岡製糸場で学んだ人たちの手によって、機械製糸工場は日本全国に広がりました。

また、富岡製糸場は歴史が長く、1872年(明治5年)から1987年(昭和62年)まで100年以上も一貫して生糸生産に使われてきました。その100年の間に機械設備や労働環境は大きく変化しており、それをたどるだけでも日本の近現代の産業史を垣間見ることができます。

今回は、特に明治期の日本が「工場制手工業」をどのように社会実装していったかという視点で見ていきます。工場制手工業とは、規模の大きな工場に大量の労働者を集めて分業による効率化を図るような近代的な生産形態です。考えてみれば、国民の多くが農家だったような時代に、大規模な工場を建てて数百人の工女を雇い高品質な生糸を大量生産できるようにするというのは、DXに勝るとも劣らない大きな変革だったはずです。そこにはきっと現代のわれわれにとっても重要な学びがあります。

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(初期の蒸気エンジン)

プロトタイプを作る

製糸業における「工場制手工業」の社会実装について、考えたいポイントは3つあります。

1つ目は、プロトタイプを作ってみせたことです。富岡製糸場は、まさに「工場制手工業」を実現するための工場のプロトタイプとして明治政府によって作られました。

『未来を実装する』でも、ステークホルダーの合意を取り付けるにはプロトタイプが有効であると書かれています。

社会実装に取り組んだ人たちにインタビューをする中で、関係各所の合意を取り付けるのに効果的だったという声が多かったのが、プロトタイプの作成です。(中略)アプリでもサービスでもプロトタイプがあることで、説得力がぐんと増すことに加え、他の人たちをより容易に巻き込むことができるようになります。プロトタイプを作って見せることは、「これは確かにできるかもしれない」という手がかりになるでしょう。

(『未来を実装する』 - 社会実装におけるセンスメイキングの手法)

たとえば「西欧式の最新の蒸気エンジンを使って大規模工場を作ろう!」と言うのは簡単です。しかし考えてみれば、そこで働く労働者をどのように集め、原材料をどのように調達し、品質をどう担保するのか、やってみないとわからないことは山程あります。そこで、明治政府は自ら富岡製糸場というプロトタイプの立ち上げに関わり、「これは確かにできるかもしれない」と思えるだけの材料を揃えました。その後、富岡製糸場というプロトタイプに感化された経営者が全国で製糸工場を立ち上げていきます

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(初期のフランス式繰糸機)

実際、富岡製糸場の立ち上げには様々な苦労があったようです。たとえば「フランス人に生き血を吸われる」というデマが広がるなどして工女募集に難航したことで、開業が延期されたりしています。テクノロジーのことだけ考えていても社会実装は進まないということがわかる面白い例ですね。

当初、工女募集の通達を出しても、なかなか人が集まりませんでした。それは、人々がフランス人の飲むワインを血と思い込み「富岡製糸場へ入場すると外国人に生き血をとられる」というデマが流れたためでした。政府はこれを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告諭書」を何度も出しました。また、初代製糸場長の尾高惇忠は娘「勇」(14歳)を工女第1号として入場させて範を示しました。こうして、当初予定であった7月より遅れて10月4日から操業が開始されました。

(「富岡製糸場配布パンフレット」より)

昨今話題のDXも、「最新のデジタルテクノロジーを導入して売れるプロダクトを作ろう!」と経営層が声高に宣言することは簡単です。しかしそれだけでは社内や取引先は付いてきません。たとえば社長直轄のプロジェクトを立ち上げ、プロダクトや組織のプロトタイプを作って見せて、関係者に「これは確かにできるかもしれない」という感覚を持たせることが重要そうです。

インパクトを共有する

2つ目は、インパクトを関係者に示したことです。

『未来を実装する』では、「最も重要なもの」として「インパクト」という概念が挙げられています。ここでいうインパクトとは、ざっくり言えば「活動によって長期的に達成したいゴール」のことです。

インパクトは影響力や効果と訳されます。政府組織やNPOなどでは社会に対して与える影響のことを社会的インパクトと言います。昨今は社会的インパクト投資などの広がりとともに、徐々にその概念がビジネスの領域でも普及し始めています。(中略)本書でのインパクトとは、事業活動による長期的な変化や最終的に目指すべきゴールのことと捉えてください。

(『未来を実装する』 - なぜインパクトが重要なのか)

またインパクトが重要である理由としては、次の4つが挙げられています。

1. 納得感のあるインパクトが変化への抵抗を上回ることで変革を起こせるから
2. 長期的な成果に目を向けることで短期的な便益の小ささを補えるから
3. 目的を説明して関係者を巻き込みやすくなるから
4. 課題解決の欲求を醸成できるから

大きな変革には多くの人を巻き込む必要がありますが、概して人間は変化を嫌います。そんな人間の行動を変えるためには、インパクトを共有し、徐々に意識を変えていく必要があるわけです。

前述のように、富岡製糸場は開業時の工女募集に難航しました。そこで、明治政府は富岡製糸場を作ることの意義を「告諭書」と呼ばれる文書で何度も発信しています。まさに、インパクトを示して関係者を納得させようとしているわけです。実際の告諭書を見ると、「上質な生糸を生産することでみんなで貧困を脱して国を豊かにしよう!」みたいなことがしきりに書かれています。

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(水槽と鉄製タンク)

なお、特に明治から昭和の高度経済成長期くらいまではこのような「国際的な発言権を強めるために経済力を上げていこう」といった物語を共有しやすい時代でした。現在の日本ではそうもいかないわけで、説得力のあるインパクトを示すことがより難しくなっています。たとえば「DX」という標語もインパクトを示すための言葉といえますが、個人的には、不安を煽る側面が強く、多くの人が納得する理想状態=ゴールを十分に示せていないように思います。

ルールをつくる

3つ目は、新しいルールを考えるきっかけとなったことです。変革を正しい方向に安定して進めるには、一定のルールが必要です。富岡製糸場が見た工場制手工業の歴史は、ルールメイキングの歴史としても読むことができます。

『未来を実装する』でも、適切な制度を作ることでリスクを社会に分散できるなど、ルールづくりに関わることの重要性が様々な観点で語られています。

事業者は、政府と一緒に市場の制度を適切に構築することで、事業のリスクを社会に分散させることができます。社会にリスクを分散させることで新しいリスクを取れるようになり、ひいては市民もより良いサービスを手に入れることができます。

(『未来を実装する』 - 民間企業がパブリックガバナンスに関わっていくための方法)

たとえば製糸業の歴史を見ると、輸出検査時の基準を引き上げることで国産生糸の品質が底上げされたことがわかります。

当時世界市場を風靡した花形生糸「信州上一番格」といわれた(中略)糸格も、大正半ばになるともう下級糸に格下げされているのをみても、いかに当時の生糸の品質が急上昇していたかがよくわかる。つまりそれだけ検査が厳しくなったのである。このため横浜の検査で失格したものがどんどん送りかえされる事態も当然あらわれていた。これは輸出を禁じられ、国内向けの「地遣糸」に回された。

(『あゝ野麦峠』 - 諏訪湖の哀歌)

また、当時は労働時間の規制なども無く、労働者への扱いも酷い有様でした。先ほどから引用している『あゝ野麦峠』という本では、富岡から派生した岡谷の製糸業で働く女工の労働環境についてありありと書かれています。おすすめ。

量産一本槍時代である。したがってそれは必然的に労働時間延長ということになる。(中略)朝四時半ごろから夜の十時ごろまで、あの神経をぴりぴり張った仕事を毎日したらどういうことになるか想像にかたくない。労働基準法もない当時は、これが普通の工場風景だったらしい。大正、昭和に入っても、糸値がよかったり、注文をせかれると、当然こういう工場も現れ始めた。

(『あゝ野麦峠』 - 工女の残した唯一の記録)

朝4時半から夜10時まで毎日働かされるというのは、要は約17時間労働であり、今の感覚からすればとんでもないブラック企業です。昭和初期になると、やっと労働運動が盛り上がってきます。製糸業の女工たちも、労働環境の改善を求めてストライキをしたそうです。

最後に立った十七歳の女工山本きみが「この最低限の嘆願を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引さがりません!!」と涙を浮かべて絶叫した時、千数百の男工女工はみんな泣いて、つもりつもった怒りを爆発させたのである。満場まさに騒然として岡谷クラブをゆるがせた。熱狂した群衆はそのまま指導者の合図で一糸乱れず町にくり出し、労働歌が岡谷の町々に響き渡った

(『あゝ野麦峠』 - 女工惨敗せり)

労働基準法ができたのはここから約20年後、第二次世界大戦を経た1947年(昭和22年)になってからでした。

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(女工の寄宿舎)

現在われわれは高品質な製品に囲まれ、それなりにまともな労働環境で働いています。そのため、こうした規制のありがたみを実感することは少なくなっています。しかし、規制が無かった時代を今と比較すると、こうしたルールが品質や労働者を守ってきたことがわかります。今では規制が目の敵にされがちですが、成立の目的に遡って考えると違って見えますね。

テクノロジーと社会の両輪

以上が、富岡製糸場で社会実装について考えたことでした。

もちろん、テクノロジーの社会実装においては関係者がそのテクノロジーについて正しく理解することも重要です。テクノロジーへの理解がベースにあればこそ、価値の引き出し方や考えられるリスクについて説明できるようになるからです。

一方で、これまで述べたようにそれだけでは足りません。多くの人を巻き込んで一緒に前に進むためには、テクノロジーを扱う人間や組織や社会の方を変えていく必要があります。ちなみに僕は文系の学部出身なのですが、こうした分野にこそ人文知が活かされるべきだなあと思います。ただテクノロジーの専門家を連れてきても、組織も社会も変わらない。そのことが広く知れ渡るといいなと思いました。

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