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デンマーク人と喋る時の感覚🇩🇰

デンマークのエグモントホイスコーレにしばらく滞在することになった。

そこはデンマークでも少し特殊な場所で、全校250人のうち4割が障害を持っている。ダウン症などの精神的障害や半身麻痺、前身麻痺など身体的障害を持った人々がいる。日本との違いがわからなくなってしまう前に、ここで感じた違いをたくさん書き留めたい。

私はひねくれていて素直に物事を見れない悪い癖がある。ここに来る前、障害者を助ける人を見ると、この人たちは障害を持った人を助けているとても偉い人で、本人もそれを自覚しており、他人が肩代わりできないことを自分の意思でやっていることに誇りを持っているんだと勝手に思っていた。もっとぶっちゃけて言えば、障害者を助ける自分を愛し、それができない人々を自分よりも劣っていると考える俗物だと考えていた。

この考えをいざ言語化してみると自分がいかに曲がった考えを持ち、偏見の海に溺れているかが見て取れる。しかし、今回言いたいことはそんなことではなく、デンマーク人が障害を持つ人とどう接しているかということだ。

デンマークのことについて少しだけ知っていた時の印象は、「デンマーク人は穏やかで、誰に対しても優しく接し(地球にも優しい)、お互いを認め合う平等を最も大切にする国民だ」である。だから障害者のいる学校があるんだと思うのは普通である。

しかし、実際に生活して思うことは、部分的には正しいが思っていたほど穏やかでも、優しくも、お互いを認め合ってもない。酒の飲み方が尋常じゃないほど激しいし、常に手を差し伸べたり、慈悲深い認め合いを実感したことは今の所ない。ちなみにご飯を残す量も半端じゃないしゴミの管理も悪くコペンハーゲンの土曜の朝はビール缶のゴミで溢れかえっている。

しかし、そんな飲んべえのデンマーク人話す時日本人と明らかに違う感覚を覚える。

この感覚を言葉にすると、「彼ら一人一人それぞれの頭の中にオリジナルの私がいる」といったところだ。日本の社会では年齢が一つでも上ならば自動的に立場が上だが、デンマークではそうではない。日本の先生は無条件で生徒よりも権限が上だがここでは、先生の立場など全く感じない。

つまり、社会や慣習などによって人物像は出来上がらず、彼らがその人のことをどう思っているかによって出来上がる。確かに日本でも人によって同じ人物の印象は違うが、それとはまた少し違う。社会的地位や年齢、生まれなど外部によって決まる特性を抜きにした、内側にある「ありのままの姿」によって人物像を作り上げているような印象を持つ。

少し長くなってしまったので明日のページでデンマーク人がどのように人と接し、障害のある人と暮らしているかを書くことにします。

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