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【試し読み】ジャックジャンヌ ユニヴェール歌劇学校と月の道しるべ

『ジャックジャンヌ ユニヴェール歌劇学校と月の道しるべ』発売を記念して、本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。


あらすじ

石田スイ×十和田シンが描くSLGが小説に!!
演劇の世界に魅せられる少女・立花希佐。希佐の兄・継希は彼女の憧れだ。演劇の道を志す者なら誰しもユニヴェール歌劇学校の門を叩くことを夢見ている。
継希はユニヴェールの至宝と謳われたジャックエース。いつか彼と同じ舞台に立つことができたら......夢見る希佐だったが、継希がある日、忽然と姿を消した。
やがて自身の夢へ手をかけるため、希佐はユニヴェール歌劇学校へ入学することになる。
しかし、ユニヴェールは男子だけが入学できる学校......少女は少女であることを隠し、少年を演じることになる......。
本編新人公演までを大ボリュームでおくる!!
小説・十和田シン 福岡県出身。ノベライズ作家、シナリオライター。別名義である十和田眞の名前で『恋愛台風』を執筆、小説デビュー。 『NARUTO』『東京喰種』シリーズの小説を担当、SLG『ジャックジャンヌ』シナリオを実弟・石田スイ氏と執筆。 また、奥十の名前で漫画家として活動する。コミックス『マツ係長は女オタ』発売中。
原作・イラスト 石田スイ 福岡県出身。2010年、第113回MANGAグランプリにて「東京喰種」が準優秀賞を受賞。 2011年9月より、同作を週刊ヤングジャンプにて連載開始。同作品はTVアニメ、ゲーム、 舞台、実写映画など、さまざまなメディア展開をみせる。2014年10月より新章「東京喰種:re」 の連載を開始。2018年7月に連載終了。


それでは物語をお楽しみください。

ジャックジャンヌ ユニヴェール歌劇学校と月の道しるべ

『自分』という舞台の幕を下ろすように、幼子おさなごはひっそりまぶたを閉じた。
 どうしてこうなったのか、砂粒ほども考えたくない。
 だから閉じたまぶたの中、境目のない黒で、自分という人間の形を溶かしぽつねんとたゆたっている。
 いずれ、なにもかも消えるだろう。
 その日がいち早く訪れることを祈らずにはいられない。
「夜の砂漠に一人、どうしたの、ぼうや」
 突然だった。
 境目のない黒の中、なめらかな白が浮かび上がる。どこか懐かしい女性の形だ。
 おかしい。
 驚いて、目を開いた。
 そして改めて思う。
 おかしい。
 だってここは、どこを切りとっても同じ顔をしているレプリカみたいな街。更に言えば、ハリボテのような薄ら寒い家の中。
 今まで目を閉じていた幼子は〝砂漠のぼうや〟ではなく、まだ小学校に上がる前の立花たちばな希佐きさという少女だ。
 おかしなことは他にもある。
 閉じた目の中、おぼろげだった真白い輪郭が、今、希佐の目の前、はっきりと形をもっているのだが。
「こんばんは」
 にこりと笑ったその人は美しい女性――ではない。
 希佐が生まれたときから知っている四つ年上の兄、立花たちばな継希つきだった。
 その兄が、初めましての顔をして、希佐を見ている。
 そしてなぜか、窓から入り込む月の光を背に浴びて浮かび上がる彼の輪郭は優しいまろみを持っていた。
 この人は誰なのだろう。
 希佐は同時に思った。
 私は誰なのだろう。
 もしかしたら。
 私は立花希佐ではなく、彼は立花継希ではない?
 だったら誰だ。いや、初めから答えは提示されていた。
 希佐は砂漠に一人たたずむ〝ぼうや〟で、継希は、今初めて出会った、なのにどこか懐かしさを感じる〝女性〟。
 そう思った途端、自分の目をゼリーのように覆っていた膜が落ち、世界が鮮明に広がっていった。
 砂漠じゃないか。
 砕けた希望の砂礫が草木を覆って、家を喰らい、街をも潰す万年砂漠。
 そこに一人、ぽつねんと佇んでいたぼうやに、突然現れた女性が言ったのだ。「どうしたの」と。
 どうしてそんなに淋しそうなのと。
「お母さんがいなくなった」
 言葉が出た。
「お母さんが死んじゃったんだ」
 ここからずっと遠く無機質な街の中、母のぬくもりが消えた家で一人目を閉じ、大嫌いな現実の終わりを祈っていた少女が言えなかったこと。
 それを、ぼうやは吐き出した。
 母が死んだ。
 そして、いるはずのない母を探して迷い込んだ。この砂漠に。
「……そうだったのね」
 女性がそっと膝をつき、ぼうやの目をのぞき込む。
「お母さんは月に召されたのね」
 この世界の誰もが知っている常識を語るように彼女が言った。何も知らないぼうやは「月?」と訊き返す。
「そうよ。ほら、来て」
「え? わっ!」
 彼女がぼうやの手をとって、急に走り出した。
「ちょ、ちょっと!」
「ほら、こっちよ、こっち」
 びいどろ細工の椅子に座って日がな飛ぶ鳥でも眺めていそうな彼女が、はしゃぐ子どものよう。
 振り返った笑顔があまりにも無邪気で、ぼうやは何も言えなくなる。
 手を引かれるまま、二人、砂山を上っていった。
「見て」
 てっぺんに辿り着いたところで、彼女が高く天を指さす。
 そこには煌々と輝く月。彼女が「知ってる?」と視線は月に向けたまま、言った。
「死んだ人はみんな、お月様でパーティしているの」
 ぼうやは驚き月を見た。彼女は明るく続ける。
「光るお月様の床で踊ったり、流れ星に合わせて歌ったり、毎日楽しく暮らしているの」
 母の居場所はまぶたの奥、暗闇の中だけだった。でも実際は、あの大きく輝く丸の中、楽しく暮らしているというのか?
「だからあなたも歌って踊らなきゃ」
「えっ、わぁ」
 彼女がぼうやの手を高く持ち上げ、くるりと回した。
 砂山の上はあまりにも狭いから、バランスを崩し、転げそうになる。その体を彼女が引っ張って、今度は二人でくるり。くるり、くるりと月の下。
 そんな気分じゃないのに。母親を失って、こらえようのない哀しみに深く沈み、そのまま消えてしまいたいのに。
「ほぉら!」
 彼女が明るく笑う。楽しげに歌う。手を取り合ってダンスする。
 その姿にぼうやは過去を見た。
 似ている。
(お母さん)
 彼女は似ているのだ。声も、仕草も、何もかも。
 ぼうやの母に――希佐の母に。
 いや、似せているのだ。
 母が死んでから希佐の心は閉じた。
 ろくにしゃべらず、まともに食わず、膝を抱えて朝も夜もずっと。
 母を失った立花希佐という人間が嫌いで嫌いで永遠に否定し続けた。
 それを、ずっと側で見ていたのだ、継希は。
「毎日一緒に歌って踊りましょ。私が一緒にいてあげるから」
 彼女が笑う。継希が笑う。
 継希だって、同じくらい辛くて、哀しくて、淋しいのに。
「月に行ったお母さんの代わりに、私がお母さんになってあげる」
 母にさらわれてしまいそうな妹をつなぎ止めるため、希佐が憎む立花希佐とは別の体と心を用意して、継希は母を演じているのだ。
 繫いでいた手が突然、熱を持った。
 希佐はその熱を強く握りしめ、女性がぼうやにそうしたように、継希の手を引いて、くるりと回す。
「わっ」
 漏れた声は、聞き馴染んだ兄の声。
「あなたは〝僕〟のお母さんじゃない」
 言いながら希佐は笑っていた。
「あなたは立花継希。私のお兄ちゃん」
 兄の名前を口にしたのはいつぶりだろう。
「継希にぃまでいなくなっちゃ、やだよ」
 希佐は兄の手を固く握りしめた。
 希佐よりも大きいけれど、大人にはほど遠い小さな手のひら。
 ぎゅっと、強く。消えてしまわないように。
 その熱に溶かされ、ぼうやの手を引いて美しく踊っていた女性の姿が消えていく。
「希佐……」
 いるのはたった四つしか違わない、兄の姿。
 ここは夜遅く、誰もいない神社に設置された砂場のすべり台。
 そのてっぺん、月に近い場所に、二人立っている。
「希佐……!」
 継希の手が希佐の体を抱きしめた。継希の体が小さく震えている。
 希佐も兄の体を抱きしめ返した。
「でも、歌ったり、踊ったりはしたいな! 私じゃない誰かになって、知らない場所を歩いて、たくさんの初めましてに会ってみたい」
 砂漠の山の上、月を見ながら女性と二人、ダンスしたように。
 それが希佐の心を救ってくれたから。
「うん……うん……」
 継希が頷き、希佐の頭を撫でる。
「一緒にやろう……演劇ごっこ」

 ――演劇ごっこ。

 その言葉が、キラキラと輝いた。

 それからというもの、希佐と継希は二人で演劇ごっこをするようになった。
 立花希佐という女の子一人の人生では到底できない多くの経験が、母を失った哀しみを癒してくれた。
 次第に哀しい紐付けはほどけ、ただただ楽しく面白く、演劇ごっこをするようになった。

「はい、今日はここまで」
 神社の外れ、子ども用の遊具が置かれた広場の中。
「えー! もう演劇ごっこおしまいなの、継希にぃ?」
 不満げな希佐に継希が「見てごらん」と西の空を指す。もうお帰りなさいと言わんばかりの夕暮れ色だ。
 希佐はもう小学生。継希はもうすぐ中学生。相変わらずに見える二人だが、変化もあった。
「もっとやりたかったなぁ。ねぇそうちゃん?」
 希佐は反対隣を見る。黒髪の少年が「うん」と同意するように頷いた。二人きりだった演劇ごっこに新しく仲間が加わった。創ちゃんは希佐と同じ年齢で、出会った当初は口数が少ないどこか影を背負った少年だった。彼もまた、希佐や継希に近い経験をしたようだ。
 しかし今ではこうやって表情明るく、次の演劇ごっこを想像して、膨らむ期待を抱きしめている。
 それを見ていると希佐はますます名残惜しくなって「あーあ」とため息。
 足りない、足りない、物足りない。
 これっぽっちじゃ全然足りない。
 だから希佐はぼやくのだ。
「一日中ず~っと、演劇ごっこができたらいいのに」
 最初は願望という名の小さな芽だったが、今では雲を突き破って月まで届きそうだ。
「学校の授業も国語や算数とかじゃなくて、ぜんぶ歌やお芝居なの!」
 朝起きて、夜寝るまで、全部演劇ごっこ。それくらいしなきゃ満足できない。それだけしても満足できないかもしれない。
 創ちゃんが「それって、すごく楽しそう!」と目を輝かせる。だから希佐は調子に乗る。
「学校には大きな舞台もあって、私たちの演劇ごっこを見てもらえるんだよ」
 希佐は両手を目一杯広げて、学校の舞台に立つ自分を想像しながらクルクル踊ってみせた。
 創ちゃんが「いいな、いいな!」と手を叩く。きっと彼の心も、希佐と同じ夢の舞台の上。夢はどんどん膨らんでいく。
「そんな学校があったら行ってみたいなぁ。継希にぃも、創ちゃんも、三人一緒に!」
 継希だって同じ気持ちでいてくれるはずだ。
「ねぇ、継希にぃ」
 そう言って、継希を見た。彼の優しい肯定を求めて。
「……継希にぃ?」
 記憶はそこで途切れている。
 特別何かあったわけではない。その後も、当たり前のように時間が流れ、極々普通に日々は過ぎていった。
 しかし、このとき継希がどんな顔をしていたのか、何度振り返っても思い出せないのだ。
 希佐は知らなかった。
 希佐の夢をそのまま形にした学校が存在することを。
 継希はたぶん、知っていた。
 その学校が希佐の夢を奪うことになると。
 いや、もしかしたら。
 継希自身が希佐の夢を壊してしまう可能性を、彼は想像していたのかもしれない。
 継希はあの時どんな顔をしていたのだろう。
 目を閉じて彼の姿を追っても広がるのは暗闇ばかり。浮かび上がる白もない。
 だから仕方なく、目を開く。

「……みなさま、本日はユニヴェール歌劇学校、ユニヴェール劇場にようこそお越しくださいました」
 そこは劇場だった。
 夢の中ではない。高い天井、赤い緞帳どんちょう、本物の劇場だ。
 舞台と対面する座席に座る希佐も夢ばかり見ていた幼子ではない。
 愛らしく柔らかだった子どもという衣服を脱ぎ始めた中学生だ。
(この声……)
 場内アナウンスに希佐は自然と顔を上げる。
 静寂に優しく溶け込みながらも、決して消えることのない存在感。
 知っているのに、知らない人の声みたい。
「継希さまだわ!」
「ユニヴェールの至宝、立花継希!」
 しかしここにいる観客は全員、彼のことを知っている。立花継希を知っている。
 劇場が一気に波だった。期待の波だ。それはすぐさまぶつかり合って渦となり、劇場内を暴れ回る。
 しかし重厚な幕が揺れることはない。
 あの幕の向こうには、人々の想い全てを正面から受けとめ、飲み込むほどの熱量がある。
 継希が高らかに宣言した。
「クォーツ公演……これより開演いたします!」
 幕が上がった。
 観客の呼吸が消えた。
 舞台の真ん中に、まばゆい宝玉。
 強い光彩を放つ、少年と青年を合い混ぜにした、優麗な人。
 継希だけれど、継希ではない。
 あなたは、誰?
 そんな人々の視線を心地よさそうに浴びて、彼は歌い始めた。初めましての物語を。
 宝玉はひとつだけではない。
 彼の歌声に招かれ華やかに舞うもう一人の主役。その美しさはさながら赤珊瑚さんご
 二人は手を取り、踊り出す。
『歌劇』だ。
(……すごい)
 祈る形に指を組み、希佐は舞台を見つめる。
 兄の姿が、兄の立つ舞台が、ひとつたりとも欠けることなく希佐の中に刻まれていく。
 この、ユニヴェール歌劇学校の舞台が。
 ――ユニヴェール歌劇学校。
 芝居、歌、ダンス、他にも『歌劇』にまつわる様々な事柄を学ぶことができる私立学校だ。
 著名な舞台人を多く輩出しており、映画やドラマ、芸能関係で活躍する人も少なくない。ユニヴェールを卒業してしまえば、その後の活躍は保証されたも同然と言われるほどだ。
 ただ、ユニヴェールの門は限りなく狭く、その上、本当の苦難は門をくぐった先にある。
 言葉どおり朝から晩まで専門の講師から歌劇を学び、自分たちの力で舞台を作っていかなければいけないのだ。
 多くの才能が集まるからこそ競争は苛烈かれつで、役を取れる生徒はごく一部。
 その中でも、主役である継希の輝きは別格だった。歌も芝居もダンスも全てが一級品で、何より彼には華がある。
 観客席の至るところから「継希様、すてき……」と感嘆の吐息が漏れた。
 希佐もそうだ。
 一緒に演劇ごっこをしていた継希が美しい衣装で身を包み歌劇の舞台を披露する姿にこれ以上なく刺激されてしまう。
 しかもユニヴェールは希佐の夢をそのまま形にしたかのような学校ではないか。
 だから思ってしまう。
(私も……)

 ――あの舞台に立ってみたい。

 ユニヴェール歌劇学校の舞台に。
(でも……)
 夢は即座に潰される。
「男子だけであれだけきらびやかな舞台が見られるのは、ユニヴェールならではよね」
 興奮した観客の言葉が希佐の胸を刺した。
「ユニヴェール歌劇学校は男子校だもの。あんなに綺麗なのに、男役も女役もみんな男子だなんて信じられない!」
 そう、ユニヴェールでは男女役ともに男子が演じる。
 継希はもちろん、継希の手をとり踊る美しい赤珊瑚も、フレアのスカートを揺らして歌うコーラス隊も、全員男子なのだ。
 希佐の祈る形に組み合わせていた手から力が抜けていく。
 ――一日中ず~っと、演劇ごっこができたらいいのに。
 小さい頃、思い描いた夢。
 はかない夢。
 希佐はあの時ほど幼くない。
 一緒に演劇ごっこをしていた創ちゃんは中学に入る前に引っ越してしまったし、ずっと一緒にいた継希は地元を離れユニヴェールに入学したし、一人残されてしまった希佐は――もう演劇ごっこをしなくなっていた。
 希佐の手が、力なく膝の上に落ちる。
(仕方ないじゃない)
 諦めなければいけない夢もある。
 希佐は夢に幕を閉じるため、目を閉じた。
 今ならこの暗闇に全て溶かせる気がする。
 しかし、ユニヴェールの舞台はまだ続いているのだ。
「たとえ、叶わなくてもかまわない……」
 トゲついたありとあらゆる苦しみを手の中で固く握りしめ、それでも真っ直ぐ祈るような声だった。
 その声に、なぜか希佐の目が開く。希佐はハッとした。
 継希が希佐を見ていた。
 真っ直ぐ、自分だけを。
 ぞわりと肌が粟立った瞬間、全ての景色が消え失せて、継希だけが希佐の目の中にいた。
 継希だけしか見えなかった。
 しかし、それは今、劇場にいる全ての人間が共有した感覚だった。
 みんな、思ったのだ。
 立花継希が、私を、俺を、僕を見ていると。
 もう、彼しか見えないと。
 深くつながり合う中、継希が叫ぶ。
「それでも僕は夢を選ぶ!」
 美しかった。
 心に根づく患いごとを全て消し去るような純然たる輝きが、劇場を飲み込んでいく。
 誰もが幼子のように清く透明になっていく。
「ゆめ……」
 希佐は小さく呟いていた。
 夢を見た。
 ユニヴェール歌劇学校の舞台に立つ自分。
 その舞台を、観客として継希が見ている。
 伝えたい。継希の歌劇がどれだけ素晴らしかったか。希佐をどれほど感動させたか。
 舞台を通してあますことなく全て継希に伝えたい。
 全て夢だ。
 まばたきひとつで終わってしまう、夢。
 それから程なく。
 ユニヴェールの至宝と呼ばれ将来を嘱望しょくぼうされていた立花継希が、忽然こつぜんと姿を消した。

「おばさん、今日はこのお弁当を配達したらいいんですね」
 商店街の外れにある年季の入った小さな弁当屋。
 実家を思わせるような温かみのある味付けで、店頭の販売はもちろん、配達にも力をいれている。
 そんな店の入り口正面に止めた自転車の荷台を確認しながら、希佐が店の中に声をかけた。
「せっかく中学校が休みなのに手伝ってもらって悪いわねぇ」
 希佐ちゃんのぶんのお弁当も入れてあるから、と朗らかに言うおかみさんに、希佐はありがとうございますとお礼を言って、自転車に乗り走り出した。
 弁当が崩れることのないように、細心の注意を払って進む道。最初は重かった荷台が、少しずつ軽くなっていく。
「よーし、配達終わり」
 最後の弁当を配り終えたところで、希佐はぐっと背を伸ばした。
「お~い、希佐ちゃ~~ん!」
 そこで、おっとりとした優しい声が響いた。
 パッと視線を向けると、希佐を見つけ嬉しそうに駆け寄ってくる少女。
「あお」
 あかねあお。希佐が通う中学校の同級生で、親友だ。共に三年生で、受験シーズン真っ只中。そこに隔たりがある。
「今日もお弁当屋さんのお手伝い?」
「うん。今終わったところ」
「毎日大変だね」
「ううん、けっこう楽しいよ。お弁当ももらえるしね」
 希佐はひとつだけ残った弁当を見た。プラスチックの蓋にわかりやすく『希佐ちゃん』と書かれている。優しい気遣いだが、プラスチックにぼんやりと映った希佐の表情は晴れない。
「おばさん、あまったおそうざいや野菜までくれるんだ。家のことで気をつかわせちゃって悪いなぁ」
 優しさが胸に痛い。何もできない自分が浮かび上がるから。
「おばさんは希佐ちゃんにおいしいものいっぱい食べさせてあげたいだけだよ~」
 なんてことないように、あおが言った。きっとそれが正解だ。希佐は人の厚意を無下にするような思考に陥ってしまった自分をすぐに反省した。「そうだね」とあおの言葉に同意すると、彼女は穏やかに笑ってくれる。
「そっちはどう? 高校受験の準備で忙しいんでしょ? クラスのみんなも追い込み大変そう」
「今度、泊まりがけで学校の下見に行ってくるよ~」
「あおの志望校って、ユニヴェール歌劇学校がある玉阪たまさか市の隣だったよね」
 あおが「そうなの!」と力強く頷く。
「電車一本で玉阪市まで行けるの~。合格したら遊びに行きまくるんだ~!」
「あおはユニヴェールの歌劇が好きだもんね」
 自然とそんな言葉が口をついて出た。
「うん、大好き! 舞台を見てるとイヤなことぜ~んぶ忘れて元気になれるもん!」
 あおが目をキラキラと輝かせる。
 今、彼女の頭の中では、ユニヴェールの華麗な舞台が繰り広げられているのかもしれない。そんな彼女を優しく見つめる。
 しかしあおの表情が、すぐしょんぼりとしおれた。
「でも、受かったら希佐ちゃんになかなか会えなくなっちゃうね……」
 ユニヴェールも、あおの志望校も、この町からずっと遠い場所にある。
 希佐は「たまには帰ってくるんでしょ?」とわざと明るく言った。
「あおはユニヴェールに近い学校に進学するって夢叶えないと」
 あおには夢を叶えてほしい。心からそう思う。あおがじっと希佐を見た。
「……やっぱり進学しないの?」
 希佐の表情が、一瞬強張こわばった。
 あおに訊かれた驚きもある。
 高校に進学せず就職することを決めたとき、学校の先生や同級生達がザワつく中、あおだけは深く追及せずにいてくれたから。
「希佐ちゃんもあるんじゃないの? ……夢」
 ――夢。
「……ううん、私はないよ」
 声を押し出すように言う。
「お父さんが大変そうだから、ちょっとでも力になりたいんだ。そろそろお弁当屋さんに戻らなきゃ。それじゃあね!」
 早口でまくし立てるように言って話を切り上げた。そのまま自転車を押し、あおの隣を通り過ぎる。「あ、うん。またね」と背中にあおの声。希佐は頷いてから自転車にまたがりペダルを踏んだ。なるべく早く、あおの視界から消えるために。
 しかし、あおは希佐が遠く見えなくなってもその場から動けずにいた。
「お兄さんがいなくなってから、おうち……大変そう」
 あおがぎゅっと胸元を摑む。
「心配だよ、希佐ちゃん」

 配達終了の報告をすませ自宅に戻った希佐は、靴を脱ぎながら家の奥に向かって「ただいまー」と声をかけた。返事はない。
 希佐はしばらく黙って、息を吐く。
 世の中には、どんなに考えたって解決しないことがある。
 希佐は自分だけしかいない静かな部屋の中、弁当を食べようとした。
 そこで聞こえたのだ。ガリガリガリと奇妙な音。
 驚いて、ビクッと跳ねる。
 しかしすぐに自分の体を抱くように押さえ、物音を立てぬよう息を殺した。
 希佐は音がしたほうを見る。
 玄関だ。
(取り立ての人?)
 中学生である希佐が、進学せず父の助けになりたい理由のひとつ。
 希佐は注意深く様子をうかがう。
「人の気配はしない……」
 ただ、カツカツ、カリカリとドアをひっかくような小さい音が途切れることなく続いている。
 希佐は静かに立ち上がり、ドアノブを回してそっと押し開いた。
「キュイッ!」
 やたらと元気のいい、動物の鳴き声。
 驚いて足元を見ると、白くつやつやした毛並みの見慣れぬ生き物がいた。
 胴は長くスマートで、反面尻尾はふんわりふわふわ、お腹には元々あったのか怪我でもしたのか、三日月模様がある。
「イタチ?」
 確証は持てないが、恐らくそう。
 しかし、どうしてイタチがこんな街中、しかも希佐の家にいるのだ。
 イタチは、人を怖がる素振りもなく、つぶらな瞳で希佐を見上げている。それがますます希佐を混乱させる。
 しかし、イタチは希佐が落ち着くのを待ってくれなかった。
「キュイ!!」
「えっ、うわっ!」
 開いたドアの隙間から、イタチが家の中に侵入したのだ。
 イタチは鳴き声をあげながら部屋の中を駆け回る。
「ちょっと待って!」
 伸ばした手を容易たやすくすり抜けて、イタチがキョロキョロと部屋の中を見回した。
 そして何かを見つけたのか一目散。
 行き先に気づいた希佐は青ざめた。
 押し入れの隙間がわずかにあいている。
「そこはダメ……ッ」
 希佐は叫んだ。イタチのために。
 だが、遅かった。
 イタチは隙間に鼻先を突っ込み、そのまま顔を、体を押し込んだのだ。
 わずかに空いた数センチ。その数センチが、押し入れに亀裂を生んだ。
 中にびっしり詰め込んでいた荷物が、雪崩のように落ちてきた。
「キュイ~~~~~」
 憐れ、イタチは荷物の下。悲痛な鳴き声を上げている。
 希佐は慌てて荷物をどかした。
「大丈夫かな……。ん?」
 下敷きになっていたイタチが、何かにしがみついている。
 アルバムだ。
 なんでそんなものをと手を伸ばしたところで、イタチが息を吹き返す。
「キュイ、キュイ、キュイ!」
 イタチは何か訴えかけるように力強く鳴いた後、開いたままになっていた玄関から飛び出した。
 希佐は呆然と見送る。まるでおとぎ話のような出来事だった。本当に起きたのかさえ疑わしくなってくる。
 しかし、振り返れば押し入れにしまっていた荷物――継希の私物が落ちていて、希佐の手にはイタチが引っ張り出したアルバムがある。
「懐かしいな」
 希佐はぱらりとページをめくった。
「私と継希にぃの写真ばっかり。あ、これ……」
 希佐の目が、一枚の写真に釘付けとなる。
「ユニヴェールにいたときの継希にぃだ」
 ユニヴェールの舞台。華やかで美しい場所。夢のような世界。
 振り返らないようにしていた記憶のページまでパラパラとめくれていく。
「夢、か……」
 呟きが、あおの言葉に重なった。
『希佐ちゃんもあるんじゃないの? ……夢』
 希佐は否定するように首を横に振る。
 自分の夢は、どうあがいても叶わないのだ。
 希佐はアルバムを閉じた。
「あれ?」
 その反動だろうか。中から写真が一枚、滑り落ちてくる。
「……神社? 私と継希にぃと創ちゃんがいる」
 ハッと気づいた。
 演劇ごっこだ。
 三人で演劇ごっこをしている。
「……あ」
 急に、風が吹いた。
 家の中なのに? と不思議に思って顔を上げる。
 玄関が開いたままだった。
 風が頰を撫でた。
 希佐はそのまま外に出る。
 部屋にいたときほどは風を感じない。
 イタチの姿を探してみる。どこにもいない。
 自嘲するように小さく笑って、部屋に戻ろうとした。
 足が止まる。
 ドアの向こう、部屋の中が牢獄のように暗かった。この暗さ、知っている。何かを失ったとき、いつもこの色をしている。
 希佐は手元にあった写真を見た。明るく笑う自分たち。
 希佐はドアをトン、と閉めて歩き出した。

「……ここだ」
 神社の石鳥居。境内に入ってすぐの場所には、神域にいささか不釣り合いな子ども用の遊具。
 久しぶりなのに、そのまんま。
 希佐たちが演劇ごっこをしていた神社だ。
 懐かしくなって、砂場に併設されたすべり台に近づく。
 しかし、すぐに違和感。
(こんなに小さかったっけ?)
 昔、月にだって届きそうに見えたすべり台が、今は希佐の視線と同じ。
 思い出が、ほろほろと崩れ落ちていく。
 中学に上がる前、引っ越してしまった「創ちゃん」。
 中学を卒業して、全寮制のユニヴェールに入学した「継希にぃ」
 その上、継希はユニヴェール卒業後、誰にも何も言わず、いなくなってしまった。
 ――ユニヴェール歌劇学校。
 男子生徒だけで歌劇の舞台を作る場所。学校に入れるのも、舞台に立てるのも男子だけ。
 主役として、輝いていた継希。
 ユニヴェールを夢見て入学し、ユニヴェールで夢を果たして去っていったのだろうか。
「……いいなぁ、継希にぃ」
 希佐の手がすべり台に伸びる。希佐と継希が初めて踏んだ舞台。
 あの時は、ずっと一緒だと思っていた。
「私もユニヴェール歌劇学校に入りたかったよ……」
 恨み言のひとつくらい言わせてくれ。
 この世界には、ままならないことが多すぎる。
「ほほう、そいつはちょうどいい」
 誰もいないはずの神社に、男の低く、それでいて軽やかな声が響いた。
 驚いた希佐が反射的に振り返る。
 目がチカチカした。
 和ものの装飾で飾られた、着物姿の男が立っていたのだ。
「よっ」
 年は、三十半ばだろうか。
 涼しげな笑みを浮かべる口元には若さを感じるのだが、佇まいには風格がある。
「だ、誰ですか……」
 希佐は思わず後ずさった。
「俺ぁ、中座秋吏ちゅうざしゅうりっつーもんだ。んで、お前は立花希佐。立花継希の妹」
 名前を言い当てられ、希佐は驚き目を開く。
 その上、継希の名前まで。
「なんで知ってるんですか?」
 警戒する希佐に、男――中座秋吏はもったいぶることなく言った。
「そいつは俺がユニヴェール歌劇学校の校長だからだな」
 聞き間違いかと思ったが、彼の言葉はなぜか脳に突き刺さる。
 今まさに思いふけっていたユニヴェール歌劇学校の、校長?
「ユニヴェールの校長先生が何か御用ですか……?」
 中座が「ああ」と今度は一呼吸置いて、希佐を見た。

「お前、ユニヴェールに入れ」

 息が止まった。
 聞き間違いか、勘違いか?
 だけどやっぱり、彼の言葉は希佐の中に刻み込まれるのだ。
「何を言ってるんですか!? ユニヴェール歌劇は男子だけでつくられるものって……」
 反発するように、声を荒らげた。しかし途中でハッと我に返る。
 まともに対話していい相手なのか、この人は。
 言動のみならず、頭のてっぺんから足の先まで不審な人物じゃないか。
 取り立て屋と繫がっている可能性だってある。そっちのほうが希佐と継希の名前を知っていたっておかしくない。
「……すみません私、用事があるので……」
 希佐は相手を刺激しないようにやんわりと頭を下げてこの場から去ろうとした。
「おっ、さては俺を派手めなサギ師と認定したな?」
 そうは思っていないが、それに近いのかもしれない。
 中座は羽織の内側から携帯をとりだして、操作する。
「学校のサイトを見ろぃ、ホレ」
 見せられた画面にはユニヴェール歌劇学校のホームページ。
 そこには「中座秋吏」という名前と一緒に、目の前にいる彼の写真が校長として紹介されていた。
「本物のユニヴェールの校長先生なんですか……?」
 怖々尋ねると、彼は「おう」と大きく頷く。
「こんなオシャレでイケてるサギ師がいてたまるか」
 怪しすぎて逆に怪しくなくなってきた。
 それに、彼のざっくばらんな振る舞いの中には、決して崩れぬ品がある。
 パッと魅入ってしまう立ち居振る舞いをするのだ、この人は。芸事の世界で生きる人間だと説明されたほうが、納得しやすい。
 だったら今は、彼をユニヴェールの校長として自分の中に落とし込もうと希佐は決める。
「一体どういう意味ですか? ユニヴェールに入れって……」
 ユニヴェール歌劇学校は全寮制の男子校。少女である希佐は入学できない。
「お前、知ってっか? ユニヴェールには前身の『玉阪歌劇学校』時代を含めりゃ、二百年以上の歴史があんだ」
 すると、中座が質問とはずれた話を始めた。
「原型の旅一座『玉阪座』までさかのぼれば三百年以上か。その間、ずっと、男だけで舞台作ってきたのよ」
 長い絵巻物を広げるように、中座は語る。この歴史と伝統が、これからの未来に繫がっていくのだろう。
 素晴らしいユニヴェールの舞台を生み続けるのだろう。
「……お前、どう思う?」
 どう、とは?
 永遠のようにさえ思えるユニヴェールへの羨望を語ればいいのか?
「つまらんだろう?」
 切り捨てるように中座が言った。
 希佐は「え」と声にならない声を出す。
 彼は古くからの伝統を守り繫げていく役目を背負った、ユニヴェールの校長ではないのか?
「こんだけ長い間ずーっと同じことしてんだぜ? 才能がある奴に男も女もあるかってんだ」
 中座は嘆く。希佐の常識を打ち砕くように。
「水だって流れなきゃ腐っちまう。俺はユニヴェールに、新しい水流をつくりたい!」
 中座が真っ直ぐ希佐を見た。
「お前がその水になれ」
 ギギ、と音を立てて、歯車が動き出す感覚を覚えた。
 水の流れと一緒に回る歯車。くるくる、くるくると。びついて動かなくなっていた感情さえも動き出す。
「立花継希は天才だった。お前はどうだ? 立花希佐」
 鮮明に、蘇る。
 兄が希佐に魅せ続けた美しい世界の数々を。
「ユニヴェール歌劇学校に入って、自分の力を試してみたくねぇか」
 ぶわりと肌が粟立った。
 夢のない現実が、夢と入れ替わるというのか。
「それだけ長い歴史があるなら、なおさら女子の入学は認められないんじゃ……」
 しかし、素直に受け入れられるほど希佐の心はまっさらではなかった。
 今まで幾度となく自分の夢に傷つけられたのだ。それこそ、砂の数ほど。
「そりゃあな。校長の俺がよくても、関係者連中が黙っちゃいない」
 さも当然と言わんばかりに中座が言った。
「だからお前には、男子として振る舞ってもらう」
「……!!」
 衝撃に体が震える。なのに頭の回転は早い。
「性別を偽って入学しろってことですか?」
「そういうことだ」
 罪を犯せと彼は言っている。
 何度も自分を傷つけた希佐の夢と同じように、中座が目指す未来もただただ明るいものではないのかもしれない。
 だからだろうか。
 中座の言葉が、真実味を持って染み込んできた。
 この人は隠しごとをすることはあっても、噓はつかないような気がする。
「その前に、他の入学希望者と一緒に受験だがな。願書はこっちで用意する。お前は入試当日に学校に来て、試験を受けるだけでいい。言っとくけど、特別扱いはしねーぞ。自分の実力で勝負すんだ」
 中座が欲しいのは〝天才〟だ。
「合格すりゃ、晴れてユニヴェール生よ。男子生徒としてな」
「……男子を、演じ続けなきゃいけないんですね」
「校内はもちろん、プライベートも気は抜けねぇ。うちは全寮制だからな。声かけといてなんだが、バレる可能性は高いと思うぜ」
 大人が子どもに提示するには、無責任で理不尽な面も、多々ある。
「女だってことがバレたときは……?」
「退学だ」
 中座が「……ただ」と続ける。
「合格しちまえば学費も寮費も免除。それどころか舞台出演料が出る。勉強しながら稼げるってわけだ。お前の父親の迷惑にはならない」
 希佐は笑ってしまった。
 中座は思いつきで希佐を誘っているわけではない。彼は希佐の状況を全て把握したうえで言っているのだ。
 それだけ本気なのだ。
「それに……」
 もう充分ですよと言いそうになった。それでも彼は言う。
「夢を諦める必要もない」
 この人はずるい。
「お前の兄貴と同じ、ユニヴェールの舞台に立てるぞ」
 ユニヴェール歌劇学校。舞台の上で輝く兄。それをただただ見つめていた希佐。
「あとは自分で考えな」
 中座は着物の裾を翻し、颯爽と去っていく。一度たりとも振り返らずに。どうせまた会うとでも言うように。
 神社に再び一人。
 しかし、鳥居を一人くぐったときとは違う感覚。
 希佐は自分の胸に手を当てる。
「自分で考える……」
 それは、自らの意志で選択するということ。
 全ての責任を自分で背負うということ。
「私は……」
 希佐は目を閉じた。境目のない永遠が続く場所。昔ここで沈もうとした。
 でも、光を見たのだ。
 それこそ舞台を照らすスポットライトのように。
「私は……!」
 兄が照らした道。
 希佐は固く閉じた目を、開いた。


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