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【試し読み】憂国のモリアーティ 虹を視る少女

10月2日に『憂国のモリアーティ 虹を視る少女』が発売となります。
こちらに先駆けて収録エピソードの中から「虹を視る少女」の冒頭を無料公開いたします。

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あらすじ

ルイスやアルバートたちに、日頃の感謝の気持ちをこめてプレゼントを贈ろうとしていたウィリアムは、ロンドンにあるデパートを訪れていた。しかし、そこで謎の武装集団による襲撃事件が発生! デパートは瞬く間に占拠されてしまう。ウィアリムはデパートで出会った不思議な少女と協力して、襲撃犯を制圧しようとするが...他にも、モリアーティ家主催で行われる「サバイバルゲーム」大会で、モランたちが真剣勝負をしたり、シャーロックがグレッグソンの助手になって密室事件を調査する!?


それでは、物語をお楽しみください。


虹を視る少女

 ロンドン市内のとある百貨店(デパート)の中に、その男の姿はあった。
 男はその怜悧(れいり)な眼差しで商品棚に置かれた茶器を見つめながら、思案深げに顎(あご)に手を添える。まるで真理を探求する哲学者のような理知的な佇まいだ。
 彼の名はウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。
 今や人々の間で純粋な恐怖と敵意をもって語られる存在となった〝犯罪卿(はんざいきょう)〟の中心人物である。そんな彼が今、ごく普通の茶器を興味深げに凝視していた。
 仮にウィリアムをよく知る者がこの状況を見れば、彼がこの何の変哲も無い日用品をどんな巧妙な企みに利用するのだろうかとあれこれ推測するかもしれない。しかし今のウィリアムの頭には平時とは異なり、懊悩(おうのう)にも似た迷いが生まれていた。
「…………」
 熟考。もしかすると犯罪計画を立案する時以上の思考を費やしているかもしれない。
 彼はそのまま一分程、茶器を前に立ち尽くす。その持ち前の美顔に、周囲の客たちが惚(ほう)けたように魅入っていた。ウィリアムはその視線に気付くと、苦笑と共にそそくさとその場を後にする。少し名残惜しそうに茶器を一瞥(いちべつ)しながら、別の売り場へと向かった。
 悩ましげな顔で店内を練り歩く彼を誘惑するように、魅力的な商品の数々が行く先々に現れる。綺麗に陳列されたそれらへ細かく視線を配りながら、ウィリアムはより一層考え込んでしまうのだった。

 デパートはヴィクトリア朝の人々に大きな衝撃を与えた商業施設である。
 多様な商品を一つ屋根の下に並べるというアイデアは一八五一年にロンドンで開催された万国博覧会の展示方法から着想を得たとされ、一般的に世界で最初のデパートとして知られる『ボン・マルシェ』が一八五二年にパリでオープンして以降、英国でもハロッズやホワイトリーズといった複数の部門(デパートメント)を持つ大型小売店が数多く誕生した。
 それでも伝統を重んじる上流階級の者はデパートを敬遠する傾向があり、そもそも基本的な買い物は使用人の仕事である為、こうしてウィリアムのような屋敷の主に等しい立場にある人間が一人で出向くというのは滅多に無いのだが、それにはある特別な事情があった。
 ルイスにプレゼントするには丁度良いと思ったんだけど、出来れば僕や兄さんとも統一したいしな……。
 ウィリアムはそんな呟きを心中で漏らす。
 今日ウィリアムが一人でデパートを訪れたのは、ルイスやアルバート、そして屋敷で働く使用人たちへの日頃の感謝を込めて、彼らに一人一つずつささやかなプレゼントを購入する為だった。
 しかしいざ実際に商品の数々を目の当たりにすると、あれもこれもという考えが生じて、予想以上に迷ってしまう。大切な仲間への贈り物だから慎重に吟味しなくてはならないとはいえ、普段から素早い判断を下す彼だけに、この長考は貴重な光景ですらある。実は現時点までに幾つもの商店をはしごしていて、ここで五軒目となる。
 皆にはサプライズで贈るつもりなので、当然この買い物もルイスたちには内緒だ。時刻はもう夕暮れ時を迎えており、これ以上は自分の不在に関して無用な心配を与えてしまう。そろそろ決断しておきたいところだ。特にこの店は品質の良さと品揃えの豊富さで人気らしく、期待値もそれなりに高い。
 先程気になった茶器は一旦保留にして、次は衣料品のコーナーを訪れる。服選びに悩んでいる婦人と語らう店員を横目に、ウィリアムは紳士用の帽子を眺(なが)めた。
 すると、てててと楽しげな足音が陳列される商品の間を縫ってその婦人の傍へ近付いてきた。
「おかーさーん。後でおもちゃ買ってー」
「はいはい、後でね。ごめんなさい。うちの子、落ち着きが無くて」
 小さな玩具(おもちゃ)を掲げながら満面の笑みを浮かべる我が子を宥(なだ)めると、婦人は心苦しそうな笑みを店員に向ける。そして店員もまた穏やかな笑顔を返した。
 母子の微笑ましい姿にウィリアムも穏やかな気持ちになっていると、彼女らの後ろを一人の少女が横切った。
 背丈から、年齢は恐らく一〇歳前後。裕福な家庭環境を思わせる少し華美な服を着て、長い金髪を後ろで一つに束ねている。個々のパーツの均整が取れた顔立ちだが、そこに形作られる表情は退屈と不満が半々といった苦々しいものだった。
 迷子と思ったのだろう、店員の一人が優しく声をかけるが、少女は一顧(いっこ)だにせず通り過ぎる。鮮やかなまでの無視にもめげず店員は再度接近を試みるが、折悪しく別の客に話しかけられて追いかけるのを諦めざるを得なかった。
「…………」
 ご機嫌斜めな少女と店員とのやり取りを見ていたウィリアムは少し気になって、手に持っていた帽子を置き、彼女の小さな背を追う。
 少女は上階へ向かい迷い無い足取りで玩具のコーナーを訪れると、何やら難しそうな顔で商品を見回す。可愛らしい人形やドールハウスを一瞥した後、棚の高い位置に置いてある小さな船の模型に注目すると、ぐいと手を伸ばした。爪先立ちで背伸びをして、ようやく模型の先に指先が触れる程度。それでも少女が懸命に腕を伸ばしていると、横からそっと模型を取る手が現れる。
「これが見たいのかな?」
 ウィリアムは模型を差し出しながらそう尋ねる。
 対する少女はポカンとした表情を浮かべたが、すぐにムスッとした不満顔に戻る。
「余計なお世話よ」
 刺々(とげとげ)しい台詞を返すと、少女はウィリアムの手から模型をパッと奪い取る。だがお目当ての品を手にしても喜ぶ素振りは無く、やはり眉間に皺を寄せて船を眺めていた。
「弟さんが喜ぶといいね」
 ウィリアムの言葉に、ピタリと少女の動きが止まる。そして驚愕と不審を露わに彼を見上げた。
「……何で弟がいるって分かるの?」
「明白さ。君はこの売り場に来ると女の子向けの玩具は気に留めずに、どちらかと言えば男の子向けと言える船の模型を見ようとした。でも実際に手にした後も喜ぶ様子は無い。つまりその模型は自分の為じゃなく、誰か別の男の子の為に買うつもりなんじゃないかと思ったんだ」
 少女は説明を黙って聞くと、疑問を呈した。
「でも、それだと単なる男友達かもしれないじゃない。どうして弟と分かるの?」
「そこからは更に推測が強まるけど……君が脇目も振らず歩いていた点と、終始不機嫌そうにしてた点が主な理由かな。君くらいの歳の子が男の子にプレゼントをあげるとしたら、何となく照れ臭くて周りをもっと気にしていそうなものだしね。簡単に言うと、恐らくその子とは喧嘩をしてしまい、親に仲直りするよう言われ、その為のプレゼントを渋々買いに来たって流れかな? 命じられた買い物だから余り楽しめないのも当然だ」
「…………」
 朗々と語られる回答に、少女は口を半開きにして聞き入っていたが、やがて「ふーん」と素っ気ない態度ながらも肯定する。
「まあ、当たってなくもないわ。お兄さん、結構鋭いのね」
「お褒めに与(あずか)り光栄だね。でも、よく知ってる店だからといって子供一人で出歩くのは感心しないな。誰か一緒じゃないのかい?」
「……私がこの店を知ってるのも分かるの?」
「ここまで迷い無く来れたなら、常連か何かだという結論に至るのはそう難しくないよ」
 即答したウィリアムだったが、少女はやや勝ち誇ったように胸を張った。
「私を常連だと思ったの? 残念。何を隠そう、私はこのデパートの経営者の娘なのよ。だから親の同伴なんか必要ないの」
「なるほど。じゃあ自分の庭も同然なんだね」
 少女にとってはとっておきの情報らしかったが、ウィリアムからすれば少女がここの関係者である可能性は予(あらかじ)め想定していた。勿論(もちろん)、その予想を子供相手にひけらかすような真似はしないが。
 すると、ウィリアムは何かを思い出して店内を見回す。
「でも、ここの経営者というと……もしかしてケヴィン・カーティスさん?」
 彼が口にした名前に、少女が反応する。
「あら、ケヴィンさんをご存じ?」
「社交界でよくその名を聞くよ。優れた経営手腕の持ち主で、一食料雑貨店を巨大なデパートにまで発展させた、と。ここが彼の店だったんだね」
 すると少女が感慨深げに頷(うなず)いた。
「そんな評価を頂いてるなんて身内として鼻が高いわ。でも社交界で耳にしたと言うからには、お兄さんもそれなりに立派な紳士のようね」
「立派であるかは分からないけど、家の品格を落とさぬよう紳士的な立ち居振る舞いは心掛けているよ」
「偉ぶらないのは素敵よ。どうも貴族の方ってケヴィンさんみたいに自力でお金持ちになった人が嫌いみたいなの。だからケヴィンさんてば、いつも貴族の人たちに会うとへこへこしてるのよ。やんなっちゃう」
 少女は嘆かわしそうに溜息を吐いてから、陰気な考えを振り払うように頭(かぶり)を振った。
「ま、そんな話はどうでもいいわ。とにかくお兄さんが言ったように、私はこのお店に詳しいって事」
「それは頼もしい」
 ウィリアムは彼女に話を合わせるが、勝手知ったる店だとしてもやはりここは見知らぬ者が行き来する空間。なのでウィリアムは少女を説得して店員に引き取って貰うつもりだったのだが、そこで少女が興味をそそられたように彼の服の袖を引く。
「ねえ、少し私の買い物に付き合ってよ。お兄さん、何だか話してて面白いし、イケメンを連れてたら周りのお客さんにも自慢できるわ」
 今し方の不機嫌はどこへやら、一転してウキウキした声音。子供らしからぬ俗な理由に、ウィリアムは苦笑する。
「中々抜け目ない考え方だけど……そもそも、君は僕に警戒心を抱かないのかな? 自分で言うのも何だけど、いきなり話しかけて素性を暴いてくる男というのは相当の不審者だと思うよ」
 不用心への注意も込めた意見だが、少女は平気な顔でこう答える。
「大丈夫よ。お兄さんは温かい色だもの」
「……色?」
 妙な言い回しにウィリアムが自分の肌や衣服を確認していると、少女は首を横に振る。
「見た目の話じゃないわ。とにかく、良い人は大体温かい色で、怪しい人や嫌な人は暗い色なの。私、人を見る目は確かなのよ」
「…………」
 謎めいた発言に脳裏でピンときたウィリアムだったが、少女はそれ以上の説明はせずにその小さな手を差し出した。
「私、ヘレナ。ヘレナ・カーティスよ」
 対するウィリアムはその手を優しく握り返し、丁寧な挨拶を返した。
「僕はウィリアム・ジェームズ・モリアーティ。……どうやら君は何があろうと僕を買い物に付き合わせる気みたいだね」
「ええ。さもなくばここで大騒ぎして、あなたを本物の不審者として捕まえて貰うわ。私に目を付けられたのが運の尽きよ」
「……それは恐ろしいな。分かった。暫(しばら)くヘレナさんの意に従おう」
「交渉成立ね。それでは、エスコートよろしくお願いするわ、ウィリアムさん。あと私の事は呼び捨てでいいわよ」
「了解、ヘレナ」
 こうして、ウィリアムは少女ヘレナと行動を共にする事となった。

「丁度、ケヴィンさんにも何か差し上げようかと思ってたのよ」
 モデル代わりにウィリアムに次々と帽子を試着させながら、ヘレナはそう語る。
「あなたはここでお兄さんや弟さんへの贈り物を買い、私は弟とケヴィンさんへの贈り物を買いに来た。だったらこうして一緒に買い物するのは相互利益だと思わない?」
「相互利益か……」
 この年頃の子供には不釣り合いな合理的発想に、ウィリアムも苦々しい笑みを返す。
 二人は今、先程ウィリアムが訪れた紳士服売り場に戻って来ていた。ウィリアムは包装紙に包まれた箱を脇に抱えている。中身は今し方購入した船の模型だ。
 帽子を被るウィリアムをまじまじと見て、少女は困り果てたように唸(うな)る。
「どうにも駄目ね。ウィリアムさんて何でも似合っちゃうから、逆に参考にならないわ。ケヴィンさんのルックスは六〇点くらいだから、ウィリアムさんもそれくらいの顔に変われない?」
 ウィリアムの微笑に微量の困惑が混じる。
「力になれなくて悪いけど、そんな荒技は僕には難しいかな」
 完全無欠の『犯罪相談役(クライムコンサルタント)』にも無理難題が存在する事が判明した。
 それはともかく、親を一向に名前で呼び続けるヘレナの口振りからウィリアムは彼女の家庭の事情を察した。必要以上に踏み込むまいと話を逸らそうとしたが、彼女の方から話し出した。
「実はケヴィンさんは義理のお父さんなの。元々このお店は彼と私のお父さんの二人で開いたらしいんだけど、お父さんがいなくなってからは一人で経営してるのよ」
「凄い人なんだね。さっきヘレナから六〇点と評価されたのには同情してしまうけど」
 ウィリアムは当たり障りの無いレベルで相槌を打つと、少女はまた独特の感性を用いて両者を比較する。
「ケヴィンさんも私の好きな色だけど、やっぱりお父さんには及ばないわ。お父さんは日没前に夕日を浴びながら浮かぶ雲みたいに温かくて少し寂しそうな色。私、あの色大好き。それでケヴィンさんは雨上がりに雲の間から差し込む日の光を反射してる木の葉の上の水滴みたいな感じ。瑞々(みずみず)しくて新鮮だけど、葉っぱの上から滑り落ちないよう踏ん張っているように見えて、少し不安な気分になるの」
 ウィリアムはくすりと微笑んだ。この時点で、彼はヘレナが持つ特異な才に気付いていた。彼女の能力は恐らく『音』に関係している。
「これまた詩的な表現だね。ちなみに、僕はどんな色なのかな?」
 ふーむ、とヘレナは小首を傾げた。
「そうね。ウィリアムさんは喩えるなら、暖炉の中で燻(くすぶ)ってる火みたいに落ち着いた色で好みなんだけど……よくよく見ると激しく燃え盛る炎みたいに危なくて情熱的な色にも見える。あなた、もしかして二重人格?」
「同じ火の色なら、気分次第で変わるんじゃないかな?」
 ウィリアムは微笑み混じりに返すが、表と裏の二面性という意味では彼女の指摘は的を射ている。幼い少女の鋭敏な観察眼に、ウィリアムは敬意すら覚えた。
 だがヘレナは納得しかねるように口を尖らせる。
「気分で変わったのなら分かるわ。私、そういうの間違えないもの。……その所為(せい)で周りの子は気味悪がって近付かないけど」
 言葉の後半、少女の語気に確かな陰りが生じた。
 異質な感性は、正しい理解が得られなければ偏見の目で見られてしまう。彼女もそれなりに辛い目に遭ってきたのだろう。やや世間ずれしたような大人びた性格なのも、自己防衛の意味があるのかもしれない。
 慰めるべきか、それとも流すべきか。ヘレナの人柄を踏まえてウィリアムが最適な応対をしようとした時、ヘレナは突然ハッとした表情になって売り場から遠く離れた場所に目を向けた。
 そして同じタイミングでウィリアムもそちらを見遣(や)る。ヘレナは天性の異才で、ウィリアムは常人離れした観察力で、店内に現れた異質なものを感じ取ったのだ。
 二人の視線の先には、十数名で構成された男の集団がいた。
 他の上品な装いの客たちと違って、表面の剝げた革の鞄をそれぞれ持った男たちの身なりはお世辞にも清潔とは言い難く、豪華な内装の店内で悪目立ちしてしまっていた。加えてその人相も剣吞(けんのん)に彩られ、ギラついた眼差しでフロアを隅々まで見渡していた。中でも集団の先頭に立つ男は、周囲が咄嗟(とっさ)に目を逸らす程のドス黒い殺気をまとっていた。
 彼らはフロアの中央で顔を合わせると散会し、数名を残して店内のあちこちへ消えていく。
「ヘレナ」
 不穏な集団の登場が引き起こす展開を瞬時に予測したウィリアムは、ヘレナの手を引いて素早く試着室の中に避難する。
 シャッとカーテンを引いて身を隠すと、ヘレナが不安げに問うた。
「何、あの人たち」
「危険な人たちだ」
 即答しながら、ウィリアムは既に次なる手を考え始める。構成員の数と質。店内の構造。そして警察の初動。
 結末までの流れが見えた瞬間、店内に数発の銃声が轟(とどろ)いた。
 突然の出来事に店のあちこちで悲鳴が上がるが、それも男の怒号で搔き消される。
「ここは俺たちが占拠した! 殺されたくなければ妙な動きはするな!」
 男たちの宣告にヘレナは身を竦(すく)ませる。不安に駆られながら自分を抱き込むウィリアムの顔を見上げると、その表情は寒気がするくらいに沈着なままだった。冷徹なまでの雰囲気の中、彼の瞳だけが赤々と輝いている。
 やはり、この人の中には炎が宿っている。
 非常事態の中、少女はそう確信した。

「パターソン。大変だ」
 ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)。犯罪捜査部(CID)の主任用の執務室で事務処理をしていたパターソンの下に、ジョージ・レストレード警部が慌ただしい足取りでやってきた。
 パターソンは目を通していた書類を置くと、眼鏡の位置を直してレストレードに向き直る。
「緊急の案件のようだな」
「ああ、三〇分程前に市内にあるデパートが武装集団に占拠されたようだ」
 立場上はパターソンの方が上司にあたるが、彼と同期で気の置けない仲であるレストレードは気兼ねない調子で現場の状況について説明を始める。
 犯人グループは拳銃や猟銃で武装して客や店員を人質に取っており、現在は店の窓をカーテンや障害物で塞いでいて店の中の様子は外からは一切窺(うかが)えない。
 ざっと報告を聞き終えたパターソンは質問を投げかける。
「事件が発覚した経緯は?」
「占拠される寸前に店から脱出した客がいて、巡回中の警官に助けを求めたそうだ。今は現場付近の警官も加わって店の周囲を取り囲んでいて、上からの指示を待っている状態だ」
「対応が迅速で何よりだ。犯人から要求はあるか?」
「人質解放の条件として一万ポンドを要求しているらしい。それと『いけ好かない金持ち共への天罰だ』などと口にしているようだ」
 パターソンは静かに頷いた。
「断定は出来ないが、今の所は単純な金目当てと富裕層への怨恨(えんこん)を動機にした犯行と考えられるな。交渉はどのように行っている?」
「相手は店の入り口に一人交渉役を立たせていて、そこから警官とやり取りをしている。店を警官隊に囲まれていても特に切羽詰まった様子はないそうだ」
「すると籠城はデパートから逃げ遅れた結果として仕方無く行った訳ではなく、計画の内という事か。だとすると店の構造も調べているだろうから、きっと別の出入り口も抑えられているだろう。突入が容易でない以上、暫くは膠着(こうちゃく)状態が続くかもしれない」
 パターソンは現状を頭の中でまとめ、今後の動きについて思考を巡らせる。
 デパートという巨大な商業施設を占拠するというのは余り前例の無い事件だが、話を聞く限り目的はありがちな強盗と同じだ。自分の身を顧(かえり)みない危険思想などを持ち合わせていない分、動きは読みやすい。下手に刺激せず、慎重に説得を続けていけば最悪の事態は回避できるだろう。
 これが普通の立て籠もり事件ならば、だが。
「取りあえずは現場に増員を送って相手の出方を見よう。レストレードも向かってくれ。お前の分の仕事は俺がある程度片付けておく」
 レストレードは苦笑と共に感謝を告げる。
「悪いな。残りは報告書をまとめるだけだが、手間をかけさせる」
「何、同期のよしみだ。現場に着いたら状況を逐一報告してくれ。いざとなれば俺も現場に行くつもりだ」
 それにもう一度微笑んでから部屋から出て行くレストレードの背中を、パターソンは理知的な眼差しで見つめていた。

 デパート三階(セカンドフロア)の中央には、人質となった紳士淑女やその子供たちが集められていた。為す術も無く座り込む彼らの周囲を、顔を布で隠して銃で武装した犯人たちが取り囲んでいる。
 犯人は皆、不穏な空気をまとっているが、その中でも図抜けて危険な気配を放つ男が一人いる。先程ウィリアムたちの目に留まった男だ。その風格には他の犯人たちも一目置いているようで、彼が集団のリーダー格である事は明白だった。
 男は感情の読めない双眸(そうぼう)で人質たちの顔を眺めていたかと思うと、ある一人の婦人の前に屈み込んで顔を近付けた。当然、婦人は男の行動に小さく叫び声を上げた。
「お、お金ならいくらでも差し上げますから、どうか、命だけは……」
 婦人の涙声での訴えに、周りの犯人らから下卑(げび)た笑いが漏れる。
「だとさ、ジェイク。こいつらから巻き上げた上に警察が要求に応じりゃ、かなりの金が入ってくるぜ」
 仲間の一人が屈み込む男にそう語りかける。
 やはり金が目的らしい犯人たちは計画が順調に進んでいる事に満足げだが、ジェイクと呼ばれた男はまるで無関心のようで全く反応を見せない。
 彼は眼前の女性の慄然(りつぜん)とした様を凝視しながら、徐に口を開いた。
「お前、新聞は読むか?」
「……え?」
 いきなりの問いかけに婦人は素っ頓狂(とんきょう)ですらある声を発した。
 この状況下で全く意図が読めない質問だが、婦人は呼吸を整えてから返答する。
「新聞は毎日読んでますけど……でも、それが一体何なんですか?」
 チッ。
 ジェイクは一つ舌打ちをして言った。
「この街でも毎日のように殺人事件のニュースが取り上げられる。それを見て何も思わないのか」
 それにも婦人は途切れ途切れに答える。
「何もって……酷い事件に巻き込まれて気の毒だと思いました。もっと治安が良くなってこんな悲劇は無くなればいいって――きゃあ!」
 いきなりジェイクが婦人の頰を張った。唐突な暴力に周囲の人質たちが一斉に息を吞み、やり取りを眺めていた犯人たちからは苦笑が零れた。痛みより驚きが勝って啞然とする彼女に対して、ジェイクは静かな怒気を秘めた声音で言う。
「被害者の大半は自分に降りかかる災いを予期していた訳じゃない。今、お前も俺に引っぱたかれる事すら予想できなかっただろう。だが、本来それは自然な事だ。悲劇は唐突に訪れる」
 チッチッチッ。
 ジェイクは数度舌打ちをした。
「お前らは平穏な生活の中で、自分たちが無慈悲な野生の世界から切り離されたと勘違いするようになった。しかしそれはただの思い込み。いつ、どこで、誰に、何をされても不思議じゃない。それがこの世における唯一絶対の真理だ」
 チッチッチッチッチッ……。
 どこか独りごつように言うと、ジェイクは更に舌打ちを重ねた。静まり返ったフロアで、その耳障りな音は昆虫の鳴き声にも似た無機質な響きがある。
「……真理、ですって?」
 周囲が静寂を保つ中、婦人は信じ難いという風に眉をひそめる。
 彼の見解をまとめれば、油断した彼女たちが悪いという事らしい。短絡的で歪んだ理屈だが、ジェイク自身の並々ならぬ迫力やこの緊迫感に満ちた状況も手伝って、その主張には妙な説得力があった。
 しかし婦人は納得がいかないらしい。内なる良識が相対する悪人への恐怖を上回ったのか、彼女は頰を押さえながら気丈に反論する。
「そんなの、自分の犯罪を正当化してるだけだわ。何でもすぐ暴力に頼るからそんな考え方になるのよ」
「安い言い回しだな。俺は世の人間は自分の命に関して不真面目だと言っているんだ。野犬ですら縄張りを守る為に牙を剝くのに、お前らは身を守る術すら身に付けていない」
「そう言うあなたは真面目な生き方をしていると言うの?」
 皮肉っぽく言い返す婦人に、ジェイクは更に顔を近付けた。濃厚な狂気を宿した瞳に彼女の顔が映る。
「真面目で、真剣そのものだ。俺はガキの頃から幾度となく死と直面した。そうして世界の残酷さを学んだんだ。お前らとは生物としての格が違う」
 ジェイクはどこか誇らしげに言い切ると、口の端を不気味に歪ませる。どうやら笑みを作っているらしい。奇怪な面持ちとなった凶悪犯と向き合う婦人の顔からまた血の気が引いていく。
 そこで、人質たちの中から一人の少年が立ち上がった。
「わ、悪者め! お前なんか、ぼぼ、僕がやっつけてやる!」
 在りきたりな文句を吐く少年の声は震えていて、彼がなけなしの勇気を振り絞っているのは明白だった。
 すると立ち上がった少年を傍らにいた女性が抱きしめる。彼の母親だった。
「止めて! 大人しくしていなさい! 殺されてしまうわ!」
 だがその制止も既に手遅れだった。ジェイクは立ち尽くす少年を一睨みすると、仲間に目配せをする。彼らは示し合わせたように女性の腕から子供を引き剝がした。
「うわあ! 嫌だ! 止めろ、離せよ!」
 少年は必死に抵抗するも大人との力の差は覆せない。悪漢二人に両腕を摑まれながら、彼はジェイクの前に座らされる。恐怖の余り少年の歯がカチカチと鳴った。
「止めて下さい! その子には手を出さないで!」
 男に押さえ付けられながら母親が訴えるが、ジェイクの耳には届かない。彼は仲間から一本のナイフを受け取ると、少年の手を取った。母親の悲鳴がこだまする中、ジェイクは少年の手の平にナイフの刃先を当て、躊躇無く一気に切り裂く。
 痛みの余り、少年はわんわんと泣き喚いた。その手の平からは止め処無く鮮血が溢れ出る。少年の母親が言葉にもならない叫び声を発するが、すぐに固い床に倒され、その口を閉ざした。
 ジェイクは這いつくばる母親を一瞥すると、子供に威圧的な口調で話しかける。
「次はお前の母親の番だ。今度は手の平じゃ済まない。喉元を裂いて即死させる。致死量まで血が流れ出る光景を見た経験があるか?」
 少年は涙目で首を横に振った。
「嫌だよ。そんなの嫌だ。お母さんを傷付けないで」
 消え入るような声音だった。最初に立ち上がった時の威勢はとっくに消え失せている。相手の心を完全に屈服させたジェイクは、少年に提案を持ちかける。
「なら、お前に捜して貰いたい奴がいる」
 ジェイクは懐から一枚の写真を取り出した。そこには一人の人物の姿が写っている。
 写真を見ながら少年は嗚咽(おえつ)混じりに聞いた。
「……誰?」
「俺の知人の……何だったか。まあいずれにせよお前にとっちゃ他人だ。出入り口を抑えた奴らから報告が無いから、今もこのデパートのどこかにいるはずだ。今日はこいつの誕生日でな。盛大に祝ってやるつもりなんだ」
 言って、ジェイクが少年に『ある物』を手渡すのを見て、周囲の人々はまた心の底から戦慄する。これにはジェイクの仲間たちですら苦虫を嚙み潰したような顔になる。
 リーダーの残忍さに耐えかねて、仲間の一人である瘦(や)せぎすな男が恐る恐る声をかける。
「ジェイク。人質を見張ってるだけなのも暇だし、俺もそいつを捜してくるよ」
「俺も」
 男の申し出にもう一人、小太りな男が加わった。二人の意見を聞きながら、ジェイクは手をさっと振る。どうやら「行け」という合図らしい。
 二人の男は半ば安堵したようにそのフロアから出て、取りあえず階段を降りた。
「……何なんだよあいつ。完全にイカれてるぞ」
 二階(ファーストフロア)に降りた後、瘦せぎすの方が愚痴っぽく呟くと、小太りの方が声を潜めて言う。
「知らねえのか。ジェイク・ボーヒーズっていやあ、裏の世界じゃちょっとした有名人だぜ。普段は殺しを生業にしてるらしくてな。人間性はともかく腕は一級品で、特に暗闇であいつから逃げられた奴はいないんだと」
「はあ? コウモリや梟(ふくろう)の霊でも取り憑いてんのか」
「あながち間違っちゃいねえかもな。噂によりゃあ、どっかの炭坑事故に巻き込まれて真っ暗闇の中を丸一月生き抜いたとか、月の無い夜は森で獣を狩ってるとか……とにかく良い話は聞かねえよ」
 小太りの説明に、瘦せぎすが床に唾を吐いた。
「気味悪ィ。今更だが、そんな野郎がどうして強盗なんか考えたんだ?」
 この強盗チームは、ジェイクが直々に貧民街に屯(たむろ)しているゴロツキに声をかけて結成されたものだった。男たちも大金を期待して計画に参加したが、どうもジェイクには強盗以外の目的があるらしい。
「俺にも分からねえよ。だが上手くいきゃあ金が期待出来んのは間違いねえんだ。ここは大人しくあいつに従っとこうぜ」
「子供にあんな真似させる野郎にかよ……」
 瘦せぎすが忌ま忌ましげに呟くと、二人はある光景を視界に収める。
 彼らが通っていたのは、紳士用の衣料品コーナーだ。その壁際に並ぶ試着室のカーテンが一カ所だけ閉まったままになっている。そしてその前には男性用の靴が一組、脱ぎっぱなしで置いてある。
 集めた人質たちは全員、ちゃんと靴は履いていたはずだ。
 瘦せぎすが小太りに小声で問う。
「なあ、ああいう場所はちゃんと確認したのか?」
「さあな。そもそもこの人数で店全体は把握できねえ。取りこぼしは十分有り得る」
 二人は顔を見合わせると、カーテンが閉ざされた試着室へと歩を進めた。
「油断すんなよ。もしかしたら武器を持ってるかもしれねえ」
 小太りの警告に瘦せぎすがゴクリと生唾を飲む。そのまま小太りは試着室のカーテンに手をかけると、一息で引いた。
 その中には。
「……何だ、誰もいねえぞ」
「拍子抜けだな。大方、慌てて靴も履かずに逃げたんだろう」
 二人はふう、と安堵の息を吐く。
 試着室の中は無人だった。



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