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宮本真生の恋愛小説『僕は彼女の養分』

三本矢まうい名義で恋愛小説賞の受賞を経て、テレビ朝日新人シナリオ大賞を受賞した宮本真生さんから、新作の読み切り短編を頂きました。甘い儲け話からはじまる恋のお話――。不穏な気配漂う一編です。


 僕は彼女の養分

 FOVAは、投資家にとって最高の情報商材です。

 何せFOVAを使えばAIが為替の値動きを判断してくれるので、契約者は指示通りかか、どちらかのポジションを持ち利益を確定させればいいのですから。言わばFXにおけるナビゲーターのような役割がFOVAには備わっています。

 勿論それだけではありません! FOVAには先の実践的な機能の他、契約者がよりFXを理解するための学習ツールがあります。高梨さんみたいにこれから始めようみたいな方には正にぴったりな機能かと思いますね。

 さて、こんな素晴らしい商材なのできっと大勢に知って欲しいなとお考えになるかと思いますがそこはご安心下さい! FOVAの最高かつ唯一無二の特徴は、契約者自身が直接この商材を他の誰かに紹介できるという点です。

 例えば、これは一例なんですが、AさんがBさんにFOVAを紹介し契約を締結するとします。するとその際契約金の一部が、Aさんにバックとして入ります。更にBさんがCさんに紹介し契約を結んだ際にも、何とAさんは規定に則った額をバックとして受け取る事ができるんです。

 どうですか? 凄いでしょう! え、『それってマルチですか?』ですか?とんでもない。これはあくまでネットワークビジネスで、マルチなどと一緒にされるのはナンセンスですよ、ははは。

 とにかく、このようにとしても稼げるスキームがそろい踏みしているので、契約金の50万も決して高くなく寧ろ良心的ともいえます。

その気になれば1年、いや半年で投資分を回収する事も容易でしょう。

 一歩を踏み出したい人に、比類の無い自由と時間を与える。

 それが私共が紹介するFOVAです。

 

「とまあ、FOVA自身の内容はこんな感じですね」

 ようやく僕は独演を終えて、固まった笑顔を前に座る彼女――高梨さんに向けた。

 正面では高梨さんが「はあ」と呆けた声を出す。

 興味がないというよりは、一体自分は何の話をされているのか分からないといった所だろう。先程から手に持ったコーヒーのカップを、動揺も露わに触れては離している。

 無理もない。何せ僕たちはほんの少し前に出会ったばかりだし、出会い方もマッチングアプリを通してなのだから。彼女からしてみればこんな話など寝耳に水だろう。気持ちはよく分かる。

 だが、こんなことなど僕にとっては日常茶飯事だ。寧ろここまで一方的に話しても僕を拒絶しない辺り、かえって籠絡しやすかったりする。

 「これはチャンスですよ、さ、高梨さん」あぶない、一瞬彼女の名字が記憶から飛んでしまっていた。「FOVAは基本招待制なので、加入しようと思っても入れない人が殆どなんです。こうして僕が今日紹介したという事は、高梨さんがFOVAの契約者に相応しいと思っての事なんですよ」

 実際には契約さえしてくれれば誰でもいいのだが、勧誘なんかに引っかかる相手は限られるので、そういう意味では人を選んでいるとはいえる。

 「えっと、あれ、何でこんな話、してるんでしたっけ?」

 前のめりな僕とは対照的に、高梨さんは困惑したままだ。はは、と彼女は弱々しく愛想笑いをするが、明らかに場の空気から逃げるためだった。

 しかし生憎だが、僕はそれに付き合うつもりは毛頭ない。

 「高梨さん、お会いする前からお仕事が辛い、働きたくないと仰っていたじゃないですか。FOVAであれば働かなくても充分稼げます」

 「そ、それは言葉の綾と言いますか」

 「とにかく、契約するなら今ですよ。これ使えば絶対に稼げますから。毎月海外行って、平日昼間からお酒を飲んで。そんな生活、憧れませんか?」

 「え、あ、い、一度家に帰って考えてみます」

 最終的に高梨さんは、それこそ欠伸が出るほど聞いた台詞を言った。ちなみに経験から言うと家に帰って考えた結果、契約をすると決めて戻った人は一人も居ない。ていの良い断り文句だ。

 まあ、だから、だからこそ、こういう時の為に彼女が居る。

 「高梨さん」

 僕の声よりずっと高く透き通った声が、静かな建物内に響いた。

 息を呑むほどの美貌とは、きっとこの事なのだろう。

 新雪のような柔らかくも透き通った肌に、まるで西洋の絵画から飛び出してきたかと見紛う精緻に整った顔。白目に対し黒目の割合が大きい二重の瞳は星を孕んだかのように煌めいて、目が合った者を釘付けにする魅力がある。

 彼女こそ篠宮さん。僕のFOVAでの上司に当たる女性だ。

 「今日、こうしてお会いするのは初めてですけど、高梨さんの事は前から知ってました。佐藤くんが言ってたんです。面白い人がいる、と」

 篠宮さんは、その整った顔を器用に曲げながら語りかける。

 ちなみに、僕がこの台詞を聞くのは十数回目だ。名前の部分を変えただけでこうも瑞々しく聞こえるのだから、ほんとう大した名優だと思う。

 「普通の人は現状に満足していないとしても、それを無意識に押し込めて、変わらない日常を過ごしてしまうものです。でも高梨さんは違う。きちんと不満を言葉に表して、今日もこうして行動しようとしている。そんな高梨さんであればきっとFOVAでも上手くいくと思います」

 朗々と語る彼女の横で、僕は高梨さんと出会ってからどのようなやり取りをしていたかを反芻していた。しかしどうも記憶が文字化けをしているように思い出せず、思い出した所でチームの勧誘マニュアルに書かれているテンプレートと相違がない事に気付いて止めた。

 それに何より、篠宮さんの声をこれほどの近くから聞けるのだ。それが相手をハメてバックを得るためのものであろうが、僕にとっては聖書の朗読に近しい神聖な時間には違いない。他の事を考えるのは野暮だろう。

 「で、でも、いきなりそんな大金、払うのはちょっと……」

 「勿論分割でも大丈夫ですよ。それにクーリングオフ制度もありますので、後でやっぱり止めておこうという事も可能です」

 耳が喜んでいるのを実感しつつ、この時点で高梨さんは落ちるなと確信を持った。既に思考が拒絶から、前向きな不安へと変わっている。こうなれば篠宮さんの思いのまま緩やかに誘導され、籠絡される。以前の僕のように。

 「一緒に進んでいきましょう。私たちであれば絶対に上手くいきます」

 そうしてこの茶番の最後。半年前の僕にかけた言葉そのままに、篠宮さんは高梨さんへと手を差し出す。

 これで高梨さんも、僕と同じ彼女の養分だ。

 ただ唯一違うとすれば、僕は今は正気だし、今も望んで彼女の横にいる。

 

               ***

 

 彼女と出会ったのは、桜が神田川の水面を覆った暖かな春だった。

 電車の窓からその光景を夢うつつで見ていたのを、僕は今でも覚えている。

 まだ何も知らなかった。生まれてから大学を卒業するまでを地元で過ごし、家の半径数キロメートルこそが世界だと疑わなかった僕にとって、東京で目にする全ては煌めいて見えた。

 空を覆うようなビル群に、洗練された店の数々。そしてひっきりなしに歩道を埋め尽くす人々。今となってはただ鬱陶しいだけの満員電車でさえ気持ちが弾んだ。この場所でこれから暮らすという事を考えただけで、自分が何か特別な人間になれたような気がした。

 そんな狂騒の中で、きっと浮かれていたのだろう。僕が駅構内で財布を落としてひどく狼狽していた所に彼女は突如現れた。

 『あの、すみません、もしかして、これ?』

 構内の騒音の中でも、彼女の声は僕の鼓膜を心地よく震わせた。

 何だろう、と振り返ってからも劇的だった。まるでフォーカスが合うように僕の瞳は彼女に吸い寄せられた。雑多な駅の喧騒も右から左に通り抜け、体にかかる重力が半分になったような心地の後にああ、これが目が釘付けになるという事かぁと、僕は身をもって思い知らされた。

 『これ、さっき落とされませんでしたか?』

 今にして思うと、この時点では篠宮さんには悪意などは無かっただろう。珍しく彼女が見せた善意に、偶然僕が引っかかっただけだ。

 寧ろ最初は僕の方がこの幸運を利用して、彼女に近づこうとしていた。

 

 『この春から上京しまして。困ってたんで本当助かりました!』

 『私はずっと東京です。いいなあ、子供の頃は地方で過ごしたかったです』

 『いやいや、地方なんて何もないですよ。東京の方がずっと便利です』

 『何もない、も案外いいものですよ。選べすぎるのも違う地獄があります』

 

 少しふわふわしていて独特な言葉遣いも好きだった。

 会った直後にこれほど滑らかに会話を交わせる人がいる事を僕はこの時に初めて知った。同時に人を好きになる事に、それほど時間がかからない事も。

 『篠宮といいます。よければLINEでも』

 互いに連絡先を交換して別れるまで、僕にとってそれはそれは甘美で僥倖の一時であったが、彼女の方も僥倖とは思っていたようだった。

 『それではまた。すぐその内に、佐藤さん』

 別れの直前に篠宮さんが見せた笑みは、最初に僕に見せていたものとは様相が違っていた事に、その時の僕はまだ気付けなかった。

 

 それからの1週間は、今でも僕の記憶の中で強い輝きを放ち続けている。

 彼女からの通知を常に心待ちにし、スマートフォンが震える度に反射的に端末を見る。まるで思春期の中学生のようだが、僕はそれほど浮かれていた。

 『へえ、佐藤さんも小説読まれるんですね』

 他愛もないやり取りの中、お互いの合わさった部分に一喜一憂したり。

 『私は変身が好きですね。ほら、カフカの』

 時には意外な一面を覗き見て、より彼女の虜になっていったり。

 僕は忘れかけていた青春の匂いを、彼女を通して思い出していたのだった。

 食事の約束を取り付けた時なんてこの世に僕以上の幸せ者はいないと本気で思っていたし、カフカの変身は紙がすり切れるまで繰り返し読んだ。

 僕にとって篠宮さんとはそういう存在だ。連絡が返ってくるだけでも満足で、会って直接話せるなんてものはもう嗜好品に近い。これ以上無い贅沢だ。

 『そういえば佐藤さんは、FOVAというものを知ってますか?』

 だから食事の場で、僕が彼女の中ではただの養分である事を理解した時も、僕は大して落胆しなかった。

 『グレゴールが皆から拒絶されたのは、害虫に変身しちゃったからですよ。綺麗な蝶に変身していれば、きっと慕われた。幸せになれた』

 篠宮さんが変身を好んでいたのは、実はカモへの謳い文句としてうってつけだったからという事実でさえ、僕を止める理由にはなり得なかった。

 『さあ、一緒に変身しましょう。佐藤さん』

 だって彼女の傍にいられるのならば、そこは既に楽園なのだから。

 妖艶に微笑む彼女を前に、僕は微塵も迷う事無く彼女の手を取った。

 

***

 

 「佐藤くん。今日はお疲れ様でした」

 僕が事務所の休憩室でこれまでを振り返っていると、2階から篠宮さんが降りてきた。

 僕はほぼ脊髄反射で椅子から立ち上がり、深々と一礼する。

 「篠宮さん、お疲れ様です!」

 「高梨さん、無事契約終えましたよ。今月も目標達成ですね。本当にお疲れ様でした。達成祝いでどこか行きたい所ありますか?」

 「いえ、篠宮さんのお陰です!」

 これで高梨さんはめでたく50万という返す当てのない借金を負う事になるのだが、同情よりも篠宮さんに褒められた喜びがそれを凌駕していた。

 ちなみに達成祝いとは、篠宮さんチームのメンバーが決められた予算を達成すると行われる、篠宮さんと1対1の食事会だ。メンバーは僕含めて篠宮さんに引っかかった人間つまりは男性が殆どなので、チーム内では密かにこの事を達成デートと呼んでいる。

 「そうですね……」

 僕は一応考える素振りを見せる。

 僕としては篠宮さんと居られるのであれば、駅前の中華屋だろうがチェーンの牛丼だろうがコンビニだろうがどこでだっていいのだが、篠宮さんはそれを認めない。星の付く料亭や窓一面夜景が広がるホテルのダイニングなど、以前の僕では選択肢にすらならないような場所を僕に勧めてくる。

 「じゃあ、『けんしろう』とかどうですか。西麻布の」

 始めは、単純に親切心や彼女の度量によるものかと思っていた。

 しかしこうして彼女と過ごすようになり、なるほどこれはある種の参勤交代みたいなものだという事を知った。

 要は僕たちが貯金しすぎてチームを抜けないよう、贅沢を味わわせて常にお金が無いようにさせておくのだ。金が無いので僕たちは勧誘を続けるしか無い。我ながら参勤交代というのは言い得て妙である。

 「いいですね! 佐藤くんとは味の好みが合うので嬉しいです。あ、ついでに表参道に最近できたカフェもどうですか?」

 彼女は無意味な事はしない。その行動全てに悲しいほどに理由がある。

 こうして僕に好意紛いの感情を向けてきているのも、僕がチーム内で一定の契約を取ってきているからだ。

 「ぜひぜひ! 車、僕の方で借りておきますね」

 成績が下がれば、きっと僕は容赦なく見放される。しかし裏を返すと成績さえ出せていれば、僕は彼女の好意を一身に浴び続ける事ができる。

 「ありがとうございます! あ、最近あれ乗りたかったんですよ」

 参勤交代、上等だ。僕はたとえ篠宮さんがマルチ紛いのビジネスに手を染め大勢の人を色恋営業で騙し、メンバーに一般企業の方が遙かに楽と言わせるほどの地獄のノルマを課そうとも彼女の事が好きなので、彼女に江戸に来いと言われれば何度だって大名行列を作って馳せ参じる。

 「あれですあれ。マクラーレンの570S」

 「あー、はいはい。あれですね。了解です!」

 ひとまず、今回は車種を検索する所から始まりそうだ。

 

***

 

 パーティー会場に向かう途中、同窓会のチャットからいつの間にか追い出されていた事を知った。

 どうやらメンバーの誰かが僕の噂を聞きつけたようだ。普通なら悲しむ所なのだろうが、別にこんな事は一度や二度に限った話ではない。僕は特に気にする事無くスマートフォンの画面を消した。

 養分になってから、最初に彼女に命じられたのは身内の勧誘だった。

 その実に戦略的な営業により、僕の悪名は山陽新幹線に乗って地元まで流布してしまったようだ。東京に来て世界を広げようとしたつもりが今はFOVAでの繋がりこそが社会であり、世界の全てとなっている。

 だからこんな煩わしいパーティーも、幹部の誕生日会とあれば参加せざるを得なかった。ガンガン頭に響くアンプの音に眉をひそめつつ、僕はワイン入りのグラスを持って会場の隅へ移動する。

 篠宮さん以外には興味の無いと違い、他の養分たちは幹部に顔を売ろうと必死に媚びを売っていた。皮肉にもその光景は彼らが見下す社会人の縮図によく似ていたが、それを彼らが自覚する事は無さそうだ。

 「よ、佐藤」

 僕が退屈そうに会場を見渡していると、突如見知った顔が僕の横に並ぶ。

 「お前、昨日篠宮さんと出かけたのか?」

 僕に乱暴に声をかけたのは、僕と同じ篠宮さんのチームにいる同僚だ。

 僕より先に篠宮さんに勧誘されたが、最近は成績を落としており、篠宮さんからは距離を置かれている。ちなみに名前は覚えていない。

 「達成デートの事ですか? 今月ノルマ超えてたので、しましたね」

 聞かれたから答えただけなのに、彼はひどく耐え難い挑発を受けたとばかりに顔を醜く歪めた。

 「勘違いしてねえとは思うけど、あれ別に俺等が勝手に付けただけだから。篠宮さん別にお前の事どうも思ってないから自惚れんなよ?」

 「どうも思っていない事はないと思いますよ」

 彼は更に「ああ?」と顔を歪めるが、僕は嘘は言ってない。

 僕は間違いなく篠宮さんから好意を向けられている。例えばこの場で篠宮さんに「僕の事が好きですか?」と聞いたなら、きっと彼女は迷いなく「勿論」と返すだろう。

 ただしそれはあくまで機能的な意味であって、恋愛的な感情ではない。使い勝手の良い電化製品に向けるものと、本質はきっと一緒だ。

 しかしそれを理解していない目の前の同僚は、変わらず顔を赤らめたまま、僕の胸元を掴んだ。

 「お前、チームに遅れて入ってきてんのにあんま調子に」

 そんな同僚の怒気が最高潮になろうとしたその時だった。

 「どうしましたか?」

 とたんに僕の中のざらついた気持ちが研磨され、自ずと背筋が伸びる。

 僕らの篠宮さんが、こちらに整った顔を向けて微笑みかけていたのだ。

 秋らしく清潔感のある白一色のセーターに、アイコニックな黒を基調としたミディスカート。細身の足に合ったパンプスは、自ずと彼女の視線を上に押し上げて、彼女の小さく愛くるしい顔をより近くに感じさせている。

 比較的小洒落た服を着こなす会場の人の中でも、彼女の姿は際立っていた。こうして何人かの男性が遠巻きに彼女を見ているのが何よりもの証拠だろう。本来であれば僕もあちら側の人間のはずだが、彼女のチームに居る事でこうして彼女の輪の中に居られる。チームって最高だ。篠宮チーム万歳!

 「あ……」

 本人を前にして、僕に絡んできた同僚も毒気を抜かれたのだろう。僕の胸元から手を離し「篠宮さん」と弱弱しい声を出す。

 「お、お久しぶりです。いま、今後のチームのあり方を話してまして」

 別人かと笑ってしまうほどの声色に対し、しかし篠宮さんが耳を傾ける事は無い。あくまで彼女が見ているのは僕だ。

 「昨日は楽しかったですね。あのお店のユッケは本当絶品だと思います」

 「あ、ああ、そういや佐藤と達成祝いに行かれたんですね。俺も篠宮さんとまたご一緒できるように頑張ります!」

 「この会の主催の門脇さん、佐藤くんはご存じですか? 中部支部ではかなり知られた人なので後で一緒にご挨拶にいきましょうか」

 まさか、ここまで露骨だとは。

 篠宮さんの目には、もう彼は映っていなかった。

 最初はぎこちなく笑っていた同僚も、時を重ねる毎に無駄だと気付いたのだろう。僕に絡んできた雄々しさは見る影も無く、俯いて何も話さなくなる。

 不憫だとは思いつつも、しかし同情まではいかなかった。

 僕らみたいな養分が篠宮さんと肩を並べたいならば、少なくとも月に4、5人は勧誘しないと対等とは言えないだろう。それを怠った彼の責任だ。

 半ば誇らしささえ覚えつつ、僕は篠宮さんの横に並び会場を歩く。自分の肩辺りに彼女の頭がぴょこっと出ていて、鼻孔に仄かに香水の香りが漂ってくる。願わくはこのまま延々と会場を歩いていたいとさえ思えた。

 「篠宮さん、お久しぶりですーっ!」

 しかしこうして篠宮さんの隣にいると、彼女がいかにFOVAにおいて緻密に人脈を築き上げているか実感できる。

 「篠宮さん、次はうちのセミナーにも顔出して下さーい」

 篠宮さんが会場を歩き回る度に、男女問わず様々な場所から声をかけられている。その都度篠宮さんは朗らかに距離を作る事無く応対していた。

 「お久しぶりです! 最近はそちらのチームはどうですか?」

 「ぜひぜひっ。基本的には平日の夕方以降が有り難いですね」

 誰にも壁を作る事無く、見事にFOVAという社会で地位を確立していく篠宮さんを見て、素直に感心すると共に一つの疑問が浮かぶ。

 篠宮さんは、どうしてなのだろうか。

 篠宮さんくらいに器量があり世渡り上手な人間ならば、別にこんなでなくとも、普通の会社で充分やっていけるのではないだろうか。

 篠宮さんは何故FOVAに入り、そして何故今の地位に居るのか。

 彼女を今に至らしめたのは一体何で、誰なのか。

 「あ、そうだ佐藤くん」

 そういう意味では僕は彼女の人間性こそ知れど、過去は何一つ知らない。

 「今更なんですが、さっき佐藤くんに話しかけてた人、名前何でしたっけ?」

 「えーと」

 ただ一つ言える事は、今日も篠宮チームは和気藹々として最高だ。

 

***

 

 「佐藤くん、そろそろ自分のチームを持ちませんか?」

 篠宮さんに呼び出されたので鼻歌混じりに事務所に行くと、待っていたのは微塵も食指が動かないほど味気ない話だった。

 「……チーム、ですか」

 落胆も露わに僕は尋ね返す。一方で篠宮さんは綺麗な顔を少し曲げただけで僕の不満を退けようとした。

 「佐藤くんのこれまでの成績を考えるとそろそろかな、と。FOVAでの発言権も強くなりますし、幹部会にも優先的に呼ばれるようになりますよ?」

 彼女はチームを持つ事のメリットをこれでもかと語るが、僕にとっては他人が見たどうでもいい夢の内容を聞かされているような心地だった。

 さて、どう断ろうものか。僕は一瞬思案する。

 「評価して頂ける事はありがたいですが、まだまだ僕はチームを持つ器でもないですし、篠宮さんの下で学ぶ事の方が多いかと思います。というより篠宮さんとまだ一緒にいたいです……」

 最後には思わず本音が零れてしまった。

 そもそも、篠宮さんの元を離れてまでここにいる意味はない。FOVAはあくまで僕にとっては手段であり、目的ではないのだ。

 僕としてはこの組織での進退窮まった上での懇願だったが、篠宮さんは「それなら大丈夫ですよー」とにこにこしたまま手を合わせた。

 「佐藤くんがチームを持ったとしても、私のグループにいる事は変わりありませんから。寧ろ今後は組織の運営の事で話す機会が増えると思います」

 やはり彼女は賢くて、狡い。

 こちらが望んでいる事を全て理解した上で、僕が聞きたい言葉をそのままかけてくる。こうなっては僕は断る道理が無くなってくる。

 「納得して頂けたようで嬉しいです」

 僕の無言を肯定と受け取ったのか、篠宮さんは満足したように微笑んで手元の荷物を纏め始めた。

 「これからは佐藤くんがチームで結果を出す度に達成祝いしましょう。楽しみにしてますね、佐藤リーダー」

 「はは、何ですかそれ」

 正直下の名前で呼ばれる方が何倍にも嬉しいものではあったが、その他大勢の養分から形式的にも脱したと思えば些か気も晴れる。

 「それでは、またすぐそのうち会いましょう」

 篠宮さんは用件だけを伝えると、いつもの営業スマイルと共に姿を消した。次の養分を探しに行ったのか、はたまた手持ちの養分に今日の僕のような指示を出しに行ったのか。願わくはせめて前者である事を願う。

 「佐藤、さん」

 はてこれからどうしたものかと途方に暮れていた所で、事務所の通路側からおずおずとこちらを見てくる人影が見えた。

 僕が最近引っかけた養分、名前は確か、高梨さんだ。瞳が遠くからでも分かるくらい不安げに揺らいでいる。

 「あー」

 基本的に僕は、自分が引っかけた後の人間にはあまり興味が無い。彼女の名前も存在も彼女の顔を見るまで忘れていた。

 これからもそうだろうと割り切っていたが、先程の篠宮さんとのやり取りで少し話が変わってきている。僕は浅く息を吐いた後に彼女に向き直った。

 「高梨さんお疲れ様。FOVAには慣れた?」

 そう、篠宮さんの説明が正しければ、高梨さんを僕が引き入れた以上、彼女は僕のだ。僕は篠宮さんのように、上手く彼女たちを誘導して成長させる水の役割を果たさないといけない。

 「あ、はい。一応は、佐藤さん……だけじゃなくて、皆さん、優しいので」

 「それは良かった。何か分からない事があれば何でも言ってね」

 自分で言いながら、恐ろしいほど言葉に感情が入っていない事に驚く。しかし高梨さんは安心したように口元を緩めた。

 「は、はい。最近はFOVAの学習プログラムで勉強しているので、そろそろ本物の為替にもトライしてみようかな、と」

 「ああ、なるほど」

 彼女はまるで真っ当な会員のような事を言っていたが、僕にとっては遠い異国の言語のように聞こえるほど新鮮だった。

 何せ熱心なFOVA会員になればなるほど、FXがどうだなど一切気にせずただ契約を何本獲れたかだけが目的になるからだ。むしろFOVAの雑なAIなど何の意味も為さないと気付いてからが本番かもしれない。

 「確かに実践も大事かと思うけどね」

 だから僕はチームの責任者として、彼女が正しい会員になるように指導する必要がある。

 「勝負するにはそれなりに元手が必要になるし、高梨さん契約金払ったばかりだからちょっと不安でしょ? それなら今はノーリスクでかつお金も稼げる営業活動からしていくのはどうかな?」

 「で、でも、私まだFOVAの事何も知らないし。そんな状態で営業なんかしても上手くいかないと思うんですが」

 本当にしっかりした子だ。彼女のような子が幹部になればこの組織も希望はあるが、悲しい事にうちの幹部に求められるのは人当たりの良さと人脈の広さだけだ。

 「大丈夫、僕もしっかりサポートして高梨さんが結果を出せるように頑張るから。気負わずゆっくりやっていこう」

 「ありがとうございます! 佐藤さんがいてくれて心強いです……」

 目を輝かせる高梨さんを見て、彼女はハメた張本人である僕をそこまで恨んでない事を知る。それどころかこれまでの対話から、彼女が僕に多少なりとも好意に近いものを向けている事を察した。

 「いえいえ、僕たちはチームだからね」

 マッチングアプリで知り合ったからというのもあるだろうが、言葉と裏腹に僕はまるで感情を切り離し、彼女と平淡な気持ちのままで話していた。

 「色々困る事あると思うけど、一緒に乗り越えていこう」

 

 そうして次に、僕は呼吸をするように自然と絶望していた。

 

 うすうす気付きかけていた決定的な事実に、胃液がせり上がりそうになる。

 「高梨さんなら、できると、思うから……」

 それは人の好い彼女を騙している事による罪悪感でもなければ、彼女の生活を背負うという責任感によるものでもない。そんな良心は篠宮さんチームで過ごして1週間で消滅した。

 「はい。できる限り頑張りますので、ご指導宜しくお願いいたします!」

 何よりも痛烈なのが、僕は高梨さんというかつての僕を通して、間接的にでも篠宮さんの真意に触れてしまった事だ。

 そう、僕と高梨さんの関係は、そのまま以前の篠宮さんと僕の関係なのだ。

 僕は視点を変え、篠宮さんの立場でそれを追体験している。そして僕は今、高梨さんから向けられている好意にまるで関心が無い。

 この先どれだけ慕われようとも、微塵も揺るがない事も自覚している。

寧ろこの好意を利用して、いかに彼女のやる気を引き出そうか画策してしまっている始末だった。

 「……」

 「佐藤さん、大丈夫ですか? 顔色、悪いですけど」

 理解はしていた。

 頭では散々理解はしていたつもりだったが、心の奥底ではいつか報われると目を逸らしていた。いつかは歯車が回り出すものかとばかり。

 しかし、こうして自分事としてみると改めて思い知らされる。

 「……佐藤さん?」

 僕のこの恋はどう足掻こうが進展はなく、終わりはない。

 それどころか始まってすらいなかった。

 

***

 

 あの日から、僕の営業成績はみるみる内に下降の一途を辿った。

 別にリーダーとして成果を上げる事に苦戦している訳では無い。前職でも営業として短い間ではあるが集団で動いてきた経験はある。

 では何が原因か? 理由はシンプルで、これまであった自分の確かな芯が無くなっていたからだ。

 どれほど綺麗事を並べようとも、大人びた顔で分かった振りをしてみようとも、僕がしてきた事は、結局全て篠宮さんに好かれるためだけにあった。その餌があるからこそ、ここまで自分を騙す事ができた。

 それが全て徒労であると分かった時点で、僕がここで為すべき事はもう何もないのだ。今の僕は紛れもない死に体だった。

 しかし世の中というものは、無情にも僕を置いてどんどんと進んでいく。

 それから底が抜けたような毎日を続けている内に、僕はFOVAのリーダーとしてはおおよそ相応しくない成績を残してしまっていた。

 FOVAの世界は成績こそが全てで存在意義。皮肉ではあるが外資系の企業よりもその色は顕著だ。成績を出せない人間がFOVAでどのような扱いをされてきたのか、僕は嫌と言うほど目にしてきた。

 そして篠宮さんが、そのような相手にどう接してきたのかも。

 怖かった。篠宮さんの方から近況報告の場を設けられた時も、まるで十字架を背負ってゴルゴダに進むキリストのような気分だった。

 ああ、僕もいよいよ彼女が切り捨ててきた大勢の一人になるのだと。

 「ちょっと、散歩にでもいきましょうか」

 だから篠宮さんからそのような事を言われた時、僕は天と地がひっくり返り雨が上へと昇っていくような衝撃を受けた。

 「……いまなんと」

 固まったまま尋ねると、篠宮さんは表情を変える事無くこくりと頷いた。

 「達成祝いとかではないですけれど、ちょっと今日は人と何か食べたい気分なので。シンプルにご飯でもどうかな、と」

 勿論佐藤さんがよければですけど、と篠宮さんは付け足したが、僕の脳内では変わらず大きな疑問符が浮かんだままだった。

 いったいこの篠宮さんの行動の意味は何なのか。

 篠宮さんの本質は有り体に言えば効率厨だ。無駄な事は全てそぎ落とされ、雑談一つでさえ何かしらの意義か意味が内包されている。見切りをつけた人間が居た場合は、わざわざ労力をかけて話さずに、そもそもその人物と話さない手段を取るだろう。

 そんな彼女が僕を誘ったのだ。それに釣り合う何かがないと成り立たない。

 意図を計りかねていると、篠宮さんは僕を待たず「んじゃいきましょうか」とにこにこしながら手を打った。

 

 首都高からは、東京の夜景がよく見える。

 遠くのビルからは星屑のような光が漏れ、眼下の水面は底から照らされるかのように輝いている。車体から伝わる振動は体を包み込むようで心地よく、プレイヤーから流れるダンスミュージックだけが世界に音を与えているかのようだった。

 そして左隣では、篠宮さんが静かにハンドルを動かしている。

 どこまでも濁りのない綺麗な黒目が前を見据え、人形のように整った顔は、どの角度から見ようとも決して崩れることはない。数千万はするだろうこの外車をこれほど見劣りせず乗りこなすのは、彼女くらいではないだろうか。

 「すみません、何か乗せて頂いて」

 普段はレンタルをしたものを自分が運転しているので、こうして彼女自身の車で彼女に運転してもらうのは初めてだ。いつもと違う出来事ばかりで困惑する僕を余所に、彼女は「いえいえ」と目を細めて表情を緩めた。

 「たまにはこの子使わないとなーと思ってたんです。正直これけっこういい車でして、逆に運転するハードル上がっちゃってたんですよね」

 何だろう。普段の彼女を知っているからこそ、篠宮さんがこのような飾らない言葉を紡いでいるのが新鮮で、戸惑う。

 「こんないい車、乗ってるなんて知らなかったです」

 「まあこの仕事、所詮は見栄が大事じゃないですか。迷いましたけど、いざとなりゃ売って手放せばいっかなって思いまして」

 そうだ。本当にその通りだ。マルチなんて実体も意義も何もない。

 あるのは欺瞞と虚栄だけだ。騙される人間はいつだって甘い言葉や会員が見せる幻想に吸い寄せられこちら側に傾いてしまう。

 僕としては自覚済みだったが、体の全てがFOVAでできているような彼女がそれを言うとは思わなかった。百歩譲って思っていたとしても、まさか部下である僕にそれを言うとは。

 調子が狂わされっぱなしの僕を余所に、彼女は他愛のない話を続けながら、途中にあったインターに寄った。標高が高く、東京湾を一面見渡せる位置にある殺風景なインターだ。

 遠慮がちに彼女に近づくと、篠宮さんはガードレールの向こう側に立って、静かに眼下の街並みを眺めていた。

 「気分転換に来てみましたが、なかなかいい景色ですね」

 彼女の声を姿を今は僕だけが独占している。その多幸感にどきりと心音が上がる僕に、篠宮さんは持っていた缶コーヒーの一つを差し出した。

 「あ、よければ」

 そこら辺の自販機で120円で買えるような缶コーヒー。それがどんな達成祝いよりも染みて感じるのだから価値というものは不思議だ。

 きっと僕が欲しかったのは、本来はこういうものだったのだろう。

 「ありがとうございます」

 声が湿っぽくなりそうになるのを隠しつつ、僕は頭を下げてその缶コーヒーを受け取った。誰が何を言う事も無く、僕たちはたまたま同じタイミングでプルタブに手をかける。

 いつも饒舌な彼女が珍しく、ここでは終始無言だった。

 「すみません」

 反面、僕は妙な居心地の良さを感じてしまい、口が滑る。

 謝罪をしたが、篠宮さんは目だけで続きを促した。彼女の表情からその意味が非難などではなく、優しさである事が伝わる。僕は好意に甘えて続ける。

 「あの、その、最近あまり成績が出せて無くて。篠宮さんにもずっと迷惑をかけていたので」

 すると、篠宮さんが浮かべたのはどうしてか安堵の表情だった。

 「ああ、そうでしたか。よかったです」

 よかった? 何がよかったのだろうか。戸惑う僕を余所に、彼女は缶コーヒーを両手で持ちながらくいっと喉に流し込む。

 「いえ、何か最近思い詰めたような顔をずうっとされていたので。悩みがそんな事であればよかったです」

 きっと目が飛び出るという表現は、こういう時に使うのだろう。僕は驚きを隠さずに再び缶コーヒーを飲む彼女を見た。

 彼女にとって、僕は間違いなく養分だ。ただの電化製品の一つであり、使えなければ容赦なく交換される、そんな存在だ。

 「別にそういう時もありますよ。人間じゃないですか」

 

 なのにどういう事か、信じられない事に、彼女は僕を案じてくれていた。

 

 「何ですかその顔。幽霊でも見たみたいな」

 目を細める篠宮さんに、僕は「いや」と躊躇いがちに口を押さえる。

 「篠宮さんらしからぬ言葉だったので、本当に篠宮さんかと」

 「はは、随分と佐藤さんの私はろくでもないんですね」

 篠宮さんは背中を曲げながら更に目を細めた。

 いつものように整った笑みでは無く、年相応の女の子らしい笑みだ。

 「まあ佐藤さんが私をどう思ってるかは分かりませんが、私にとっては佐藤さんは佐藤さんです。代わりはいません」

 だからくれぐれも無理なさらずです、と彼女はにこりと微笑んだ。

 僕は今日、二つの愚かな誤りに気付いた。

 一つは篠宮さんに対する歪んだ先入観だ。ずっと彼女は僕を養分としてしか見ておらず、そこには組織の仕組みを超えた関係はないと思っていた。

 だが彼女の中で、僕は確かに人間だった。

 僕は人間として接して貰っていて、人間として気遣われていた。

 ただの養分では無かったのだ。

 そしてもう一つ。これこそが本当に愚かな誤りだった。

 「篠宮さん、覚えてますか。カフカの変身の話」

 自分が養分だと思っていたからこその、愚かで浅はかな誤り。

 「篠宮さんは、僕に蝶に変身すればいいと言ってくれました。蝶に変身すれば幸せになれると。でも篠宮さんは、今の環境が本当に蝶だと思ってますか? 他人を騙して仲間を蹴落として昇っていくこのFOVAという煉獄で生きるのが、本当に蝶たり得る生き方だと思いますか?」

 篠宮さんの大きな黒目がこちらを捉える。しかし僕は臆さずに言った。

 「一緒に辞めませんか。FOVAを」

 僕の本当の望みは、この組織の延長線上にはなかったのだ。そもそもこんな組織にずっといたままでは、僕は永遠に人と養分を彷徨い続けるままだ。

 彼女の目が僅かに見開くのを機に、僕は彼女に一気に近づく。

 「篠宮さんならFOVAに拘らなくても、どの組織でもやっていけます! 

それだけじゃない。今まで通り僕も貴女を支え続けますっ。だからどうか、どうかFOVAなんか辞めて、一緒に新しい人生を始めて欲しいです!」

 僕が今言った事は、FOVAに対する明らかな裏切りだ。幹部がこんな事を聞けば会員権を剥奪される事はおろか、見せしめで酷い目に遭わされる。

 それでも僕は、彼女に辞めて欲しかったのだ。

 この狂った組織から手を引いて欲しかった。僕は僕で人間でありたかったし、彼女も本来の彼女のまま人間であって欲しかった。彼女に誰かを蹴落し続ける日々を送って欲しくなかった。

 「一緒に前に進みましょう。今のままでは僕たちはずっと嫌われ者の矮小な虫です。こんなとこ篠宮さんには相応しくないです。どうか」

 どうか一緒に変わって欲しいです。と僕は真っ直ぐ頭を下げた。

 「……」

 いったい僕はどれほど待っただろうか。

 彼女は暫く黙ったまま、責める訳でも肯定する訳でも無く、ただ静かにこちらを見続けていた。

 だがやがてふっと目元を緩めると、困ったとばかりに小さく息を吐いた。

 「そういう未来も、あったのかもしれないですね」

 最初僕はそれが怒りか諦めか、はたまた別の感情だったかわからなかった。

 「でも私にはそんな資格はないですし、変わるのは佐藤くんだけです」

 遅れて、僕はそれが拒絶である事を理解した。

 高梨さんと話していた時に似た絶望が僕を覆う。これでもまだ彼女には届かないというのか。彼女はFOVAに囚われたままなのか。

 「篠宮さ」

 「正確には変わる必要ないですね。FOVAはこれで終わりますから」

 しかし僕は思い知らされる。恋の終わりなんて随分と呆気ない事を。

 「もうすぐ逮捕されるんですよ、私。私含めて幹部全員」

 だからFOVAはもう終わりです。

 世間話を続けるかのように、彼女は何気ない口調で告げる。

 声は呆然とする僕の横を通り過ぎ、風に吹き抜けてさっと消えた。

 

***

 

 1ヶ月後。僕はコンビニで汗を流しながら働いていた。

 セルフレジが導入されてからコンビニバイトは劇的に楽になったと誤解する人がいるが、その分店舗ごとのバイトの人数は劇的に減った。

 加えて商品の棚卸や入れ替えなどセルフレジ以外にかかる業務は増え、実質バイトする身では、導入前と導入後でそれほどの差はないように感じる。

 特に駅前などの人通りの多い店は大変だ。僕がへとへとになりながら商品をバックヤードで交換していると、奥から店長が「佐藤くん」と名を呼んだ。

 「客増えてきた、2番レジの方お願い!」

 これでは商品を換えている暇すらない。僕は「はい!」と言いながら慌てて店の方へと出た。

 それから数時間ほど経っただろうか。

 アパートに着く頃には足は棒のようになり、空は黒に塗りつぶされていた。

 「ああ、つかれた」

 などと小言を吐きながら半裸でTVを点ける。と、間の悪い事に放送されていたのはFOVAに関するニュース番組だった。

 『はい、今回特商法違反で逮捕されたのは何と15人です。これは最近のマルチビジネスの中で異例の検挙数ですね』

 アナウンサーの言葉に、専門家と思われる男性があいづちを打つ。

 『最近はマルチの手口もずいぶん巧妙化してきまして。彼らのようにSNSを使って人集めするので中々表に出にくくなっていますね』

 僕はそれらをどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。

 

 結局、彼女が言った事は事実になった。

 FOVAにいた幹部は一掃。FOVAは消費者庁から業務停止命令を受けて事実上崩壊した。それから今で一月ほど。僕は貯金を切り崩しつつ、こうしてコンビニで働きながら細々と生活を続けている。

 特に何かが変わる事はなく、緩やかに砂時計が下へと零れ落ちていくような摩耗にも似た毎日を僕は過ごしていた。

 一度、普通の企業にも就職しようとした。

 だが健全な企業にとって、健全な若者が半年や一年も履歴書に空白がある事は不健全なようだった。ましてやその間に居たのが、今や世間を賑わすあんな組織であれば尚更だろう。

 友人のつてを辿る? つてどころか、今となっては友人そのものがいない。親でさえ以前の職場を辞めてからは全く連絡をとっていない。連絡をとっても健全な話し合いになるようには思えなかった。

 FOVAにいた頃は、いつでもやり直せると自惚れていた。あの日篠宮さんに辞職を迫った時も、2人であればどこでもやり直せるものだと。

 ただ社会というものは、思ったよりも道を外れた者に厳しくできている。

 「実刑判決、半年くらいなのか」

 ところで、百年の恋も一時に冷めるという言葉がある。

 今回でいえば愛する女性が実刑を受けるというのは、百年どころか千年であろうとも冷めるには十分な理由のように思えた。

 何せ恋をした相手がいきなり前科者になった訳である。冷めるどころか急速冷凍になろうとおかしくはないのかも知れない。事実僕もあのインターでこの恋は終わりを迎えたと思った。

 しかし不思議な事に、僕はあの夜から篠宮さんを一度たりとも見限ったり忘れたりする事はなかった。それどころかその思いは日に日に膨らんでいた。

 彼女は今、独房で一人何を考えているのか。

 あの日の夜、彼女はどんな気持ちで僕を誘ったのだろうか。

 この新しく引っ越した四畳半ほどの小さな部屋で、僕はいまだに彼女の影を追い続けている。

 その中でも僕が一番気がかりなのは、彼女の今後についてだ。 

 彼女がなぜFOVAなんかに居続けるのか疑問だった。彼女であれば組織を抜けてもどこでもやっていけると思っていたが、こうして組織を抜けうだつのあがらない毎日を過ごしてみて、考えが甘かったと反省する。

 彼女は恐らくFOVAを辞められなかったのではない。FOVAを辞めた先には何もない事に、薄々気づいていただけだ。

 僕たちみたいな人間がぬけぬけと再び日常を味わえるほど、この世界は詐欺師のクソマルチに寛容ではない事を彼女は充分知っていたのだ。グレゴールが最期まで人間に戻れなかったように、一度人の道から外れた虫は決して元には戻れない。

 まして彼女はこれからは犯罪者として第二の人生を歩まねばならない。僕と重さがまるで違う。それなのに、僕はずいぶんとズレていて間の抜けた事を彼女に言った。

 言ってしまっていた。

 「……」

 さて、それを踏まえて僕は今、二つの選択肢が目の前にある。

 一つは彼女含むFOVA全てと縁を切り、これまで通り細々と生活を繋いでいく事だ。これはもうほぼ選択しないという選択ではあるが、多くの人がその手段を取っているように、ある意味では居心地がいい。

 そしてもう一つは、大勢にとっては検討にすら及ばない愚者の選択だ。

 周囲の10人に聞けば9人は鼻で笑い、1人は断罪するだろう。

 ただ、僕は愚かで罪深く、おまけにどうしようもなく篠宮さんの事が好きで好きで仕方がないため、迷うことなく後者を選択した。

 選択して、これは目の前ではなく後ろに続いている事を理解し、笑った。

 

***

 

 刑務所から出た彼女は、目を細めながら頭上の太陽を睨んでいた。

 どうやら久しく外の世界を見ていなかったようで、思ったよりも周囲が眩しく感じているようだ。心なしか髪も伸びた気がするが、当たり前だ。あの日から既に半年が経過していたのだから、そりゃあ髪だって伸びる。

 「篠宮さん、お久しぶりです」

 でも、こうして再会してみても、彼女への思いは微塵も変わっていなくて。

 そればかりは少し安堵した。

 「は?」

 眩い太陽から僕へと目を移した篠宮さんは、信じられないものを見るようにただでさえ大きい瞳を更に見開く。予想さえしなかったのだろう。むき出しの篠宮さんの表情を僕は初めて目にしたような気がした。

 「え、いや、何でいるんですか」

 まるでストーカーに会ったような反応をされるが、心外だ。僕は何てことないとばかりに「いやあ」と片手を上げた。

 「せっかくお勤めされた後なのに、迎えがないのは寂しいかと思いまして」

 「……」

 困惑しているのが分かる。どうやら本気で会いたくなかったようだ。篠宮さんは戸惑うも、やがて顔をそむけて僕の横をすり抜けようとした。

 「これから、どうされるんですか?」

 彼女が街の風景に溶けて消えそうになった所で、僕は背後に呼び掛ける。

 長い間柄だったからか、気配だけで彼女が立ち止まった事が伝わった。

 「どうって。別に真っ当に生きていくだけですよ」

 「真っ当というのは?」

 「真っ当な会社に入って、真っ当に働いて、真っ当に友達を作って真っ当に日々を過ごす。つまりそういう意味です」

 声は刺々しく苛立っている。しかし僕は譲らない。

 「できると思いますか?」

 何せ彼女が過ごそうとしている時間は、僕が既に見てきたから。

 「何が言いたいんですか?」

 「僕らみたいな人間が真っ当な生き方なんてできると思いますか? まして貴女は犯罪者だ。できた所でせいぜいコンビニのバイトか何かで、FOVAにいた頃の10か100分の1の金額を汗水流しながら稼ぐ程度ですよ。そんな真っ当を貴女は望んでるんですか?」

 「だから、何が言いたいんですか!」

 ここで、僕は初めて振り返った。

 案の定、彼女は怒っていた。

 顔を赤らめつつ、肩で呼吸しながら怒っていた。怒られるという事もまた、僕が彼女と出会ってから初めての出来事だった。

 「変身、ですよ」

 「変身?」

 今日、僕はありのままの彼女と向き合っている。それが今はこれほどまでにうれしい。僕は彼女に出会えて良かった。

 

 「もう一回やりましょう、マルチ」

 

 だから彼女とであれば引き続き地獄に落ちていける。今日それを確信した。

 

 「…………………………………………………は?」

 

 案の定、彼女の顔から血の気という血の気が引いた。よっぽど動揺したのだろうか、ぐらり、と体の重心がズレる始末だ。

 「…………………いや何言ってるんですか、ほんと」

 「まあ、もうほぼそのままの意味です。日陰から世間に迷惑をかけまくった者同士、普通の生活なんか望まずに、最後まで世間に迷惑をかけまくろうという事です。篠宮さんも心の奥底では今更普通の生活なんてできないって思っているんじゃないですか?」

 そう、これこそが僕が考えたもう一つの選択肢だ。戻れないのであれば戻らなければいい。これを伝える為に今日僕はこの場所に来た。

 「ちなみに、もう篠宮さんが入るマルチは作ってあります」

 「は!?」

 「この半年、主にFOVAの残党メンバーを集めてスキーム作ってました。ちなみに登記上のボスは僕なので、篠宮さんが入られた場合は貴女は僕の養分という事になりますね」

 この半年間、僕は彼女が帰れる居場所を作る事に精進していた。その半年を通して僕は、僕という人間のあり方も再確認した。

 もう僕に帰る場所はないという事。

 僕はきっとこれ以外に、自分の人生を燃やせないという事。

 そして帰る場所はいつだって、篠宮さんが居るその場所であると。

 「いや、ほんとどこから突っ込んだらいいか……」

 ほとほと参ったとばかり、彼女は頭を右手で押さえた。

 彼女をここまで困らせた時点で、僕としては大満足だ。僕は彼女に近づいて、そっと手を伸ばす。

 「という訳で一緒に行きましょう。グレゴールも虫になってから、必死で人生を足掻いていました。僕たちも互いが破滅するまで、もう少しだけ足掻いてみるのも悪くないと思うんです」

 僕の笑顔があまりにも晴れやかだったからか、篠宮さんは値踏みするように僕をじろじろ見上げている。

 「破滅は確定なんですね」

 「はい、確定です」

 きっとこの関係もこの生活も長くは続かない。既に終わりは確定している滅びまでの片道切符だ。終わりのきっかけが彼女から僕に変わっただけで、いつかは間違いなく破綻する。

 「変わりましたね、佐藤くん。もちろん悪い意味で」

 しかし、その破滅が彼女と一緒なら、緩やかな日常より僕はそちらを選ぶ。こうして苦笑いだとしても、彼女が横で微笑んでくれるならそれだけでいい。

 「わかりました。少し先までよろしくお願いします」

 そう思う僕は、形は違えど今後も彼女の養分であり続けるのだろう。

 「こちらこそです。好きですよ、篠宮さん」

 握り返された手に温度が伝わって、ようやく僕の恋が始まった気がした。

 

 

(to be continued)