京アニ放火殺人の判決

今日2024年1月25日に2019年に起こった京都アニメーション放火殺人事件の判決が出た。
判決は死刑。
日本犯罪史上最も多くの死者36人を出したこの事件、死刑を支持する者にとっては当然の判決かと思われる。
この事件の裁判で争点となっていたのは単純明快で、被告の責任能力であろう。
要は心身喪失か、心神耗弱であったのか。
それがあれば死刑か、無期懲役か、あるいは無罪かというところだ。
結果としては責任能力はありと認められ、死刑が下ったわけだが。
この心身喪失、心身耗弱によって減刑あるいは無罪となるこの制度について、わたし個人としてはどうしても受け入れられないと思ってしまうのである。
近いところで言うと、神戸市北区5人殺傷事件の被告は、心身喪失で無罪になった。
もちろん無罪だからといって放免ではなく、ほぼ一生社会復帰することなく、医療施設にいることになるのだろうけど、自分がもし遺族だったとしたら?という事を考えた時に、絶対に納得出来ないであろう。
遺族の処罰感情よりも、加害者の人権が優先されるのは何故なのだろう?いつもそう思ってしまう。
この事件の被告だった男は統合失調症だったということだが、統合失調症の人すべてがこのような犯罪を犯すわけではないし、逆に遺族がこの判決の影響で精神を崩壊させ、誰かを傷付けた場合、これも無罪となり、この元被告にも何の責任もないと言うのだろうか。こんな犯罪が犯罪を生むような社会で本当にいいのだろうか?
精神の障害を持つ人が責任能力を考慮されて、精神は正常だけど片腕のない人が犯罪を犯したら全く身体の障害は考慮されないのどういうことなのか?
今の日本の制度だとこういうことなのだろうが、何一つとして納得がいかないのはわたしだけではないはず。
誰か納得の行く説明してはくれないものか。
こういう社会が精神障害者と健常者との隔たりを助長するのではないか。
精神障害者はなにをしでかしてもいい社会、それを逆手に取る者もいるのではないか。
そうなると怖くて、そういう人たちとは関わりたくないと思ってしまうのが普通ではないか。

今一度こうした社会制度について考えていかなければならないと思う。

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