櫻井翔はズルい、という話。

 翔くん(恐縮ながら普段の呼び方をさせてもらう)はファンサをしない。

 そんな言葉を聞いたことのある人も、これを読んでいる人の中にはいるかもしれない。確かに翔くんはコンサート中に個別のうちわに反応してそれらに応えることは殆どない。

 24時間テレビの募金コーナーで、他の芸能人の皆さんが募金に並んだ人と握手をする中、翔くんは1人うしろで手を組み会釈をしている映像が流れたことがある。当時はネットでも話題になった記憶があるが、こういった姿を見て「ああ、櫻井翔はファンサをしないんだな」と感じる人がいるのも仕方のないことだとは思う。

 でも私は、ネットの世界の隅っこで、櫻井翔という人間がどれだけ大きな愛と感謝と覚悟を背負って表舞台に立っているのか。そしてそれがどれだけファンの心を揺さぶり、救ってきたのかを叫びたい。感情が高ぶりすぎて支離滅裂な所があるかもしれないが、自分の心の整理のために書いているので許してほしい。

 翔くんのブログ、オトノハで昨年末。衝撃的な文章が書かれた。(有料ブログなので、念の為以下に綴る文章は若干要約が含まれる)「誰か一人にとても喜んでもらうことは、その代わりに、沢山の誰かが少し寂しくなるのかもしれない。だから、その選択は20年してこなかったつもりだ。」と。そして「誤解される事もあるとは分かっている。」と。

 ドームの上の上の方まで言葉を届けようとしてくれる翔くん。「ウエノホー!!」と叫ぶその姿に、会場がどれだけ大きくなっても1人ひとりに寄り添いたいという信念を感じてはいたが、ここまでストレートに言われると、彼のその強さと自分を応援するファンへの信頼に圧倒されてしまった。個別のファンサをしないという選択は、すなわち自分のファン“以外”も平等に幸せにすることであるからだ。もっとも、私を含めた多くの翔くんのファンは彼が遠くの遠くを見つめ、大きく手を振り、ファンのコール&レスポンスに◎サインを出すその姿を愛してやまないのだと思うが。

 ただ、このブログの衝撃はここでは終わらなかった。このブログの後半にはこんな言葉が添えられていた。「俺の言葉を、俺のファンに向けてのみ、届けようとしてきた。」「これがファンサならば、許されないとおかしいだろう。」「いつも気付くと、“みんな”に向いてるんだ。たまには独り占めさせてほしい。」.........1リットルの涙を流した。

 ファンサなんていらない。翔くんが全員を幸せにしてくれていることが幸せだ。そうずっと思い続けてきたが、心のどこかにはほんの少しの寂しさがあった。ファンとして認知されたい、なんて願望はないが、翔くんはあまりに、あまりにも“気を遣いすぎてしまう”から。自分のファンだけを見つめて、自分のファンだけに、こんな素直な言葉を吐露してくれた衝撃。あの日から私はずっと、12月31日が迫りくる事実に心が押しつぶされそうになるたびに保存したこのブログを大事に読み、何度でも涙を流し、前を見てきた。「大好きな人がこちらに特大の愛を届けてくれた」事実はこれからもずっと支えになり続けると確信している。

 さっきも言ったが、翔くんはあまりにも自分を客観視しすぎる癖があるし、あまりにも周りの様子を察知してしまうし、結果的に自分の感情よりも“中立”の立場でバランスを取る事を選んでしまうところがある。「活動休止は嵐の総意」だと繰り返し伝えてきた彼が、ファンだけが知りうる場所では嵐を続けたいという思いをにじませてきたことも、器用すぎるがゆえに不器用になってしまう彼なりのメッセージなんだろう。


 大野くんとのサシ飲みで「嵐、続けようよ」と思いをこぼした時、翔くんはどんな気持ちだったんだろうな。「ずっともっとこうしていたいよ」と書いていたリリックを二重線で消して「揺れる船に響く誓いを」に書き換えたとき、どんな思いだったんだろうな。嵐の展覧会の自分のコーナーでこのリリックを公開した意図、そしてBGMにそのリリックで翔くんが歌った仮歌を選んだ意図をぐるぐると考えずにはいられない。ファンだけに自分の脆さを見せてくれる翔くん、あまりにもズルいよ。

 人の感情は移ろいやすいものだし、未来がどうなっているかなんてわからない。それでも、翔くんのファンになってから今この瞬間に至るまで、一瞬たりとも後悔した時はなかったと断言できる。どんなことがこの先起きるか全く想像できないし、まだまだ活動休止を受け入れられずにいるけれど、嵐がどんな道に進もうとも絶対に着いていきたい。残り100日を切った今、改めて、嵐と櫻井翔を好きになって良かったと思う。

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