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未来を引き受ける

2019年も最後の1ヶ月に入りました。twitterのTL、お会いした方々とのやり取り、原家族とのこと等、色々な面から今後の自分を考えた時に、これから背負っていくものの多さを痛感しまして。それに対して、今の私は長期的な視座の欠如や思考の浅さを突き付けられた格好。それでも、貴重な次の1年を無駄に終わらせない為に、またこれからの未来の為に考えていることをつらつらと書いていこうと思います。

性別移行について:私の目指すところ

性別移行を進める為に専門医の扉を叩いてから1年2ヶ月。それまでに悩んでいたこと、治療の中で生まれた悩み、どこを目指していきたいかについて。まず、自分単体での話。一番は「生まれた時からの女性の身体」。しかしそれは現世では叶わぬ望み。たとえそうでも、なるべくそれに近付きたいとは思っています。ホルモン治療を進め、名の読み方を変え、性別適合手術を受け、戸籍を変更する。場合によっては整形なり豊胸なりも入ってくることでしょう。しかし、性別適合手術は「見えない」部分の手術。身体への違和感が強い私としては何としても受けたいのは事実ですが、人間として生きるには社会との関わりは不可分なわけで。

なので続けて社会的文脈も含めての話へ。とある方から言われたのが、仮に睾丸を摘出するとしてすぐにパス度が上がることも無く、そこはファッションやメイクでのカバーになる…と。私としては他人がどうこうではなく女性の身体を得たく思いますが、自分だけが「竿無しおじさん」で良くてもそれで社会生活を送るのは無理があるのもわかる。身体が女になっても一貫して誰もから男扱いが続くのですから、遅かれ早かれ私の心が潰れてしまいます。ファッションやメイクの面白さは感じられるようになってきたので、そこはこれからも学んでいき身体治療と並行して進めていきます。できることなら社会的にも女性寄りに扱われたいとは思います。但し骨格上の限界はあるしジェンダーロールの押し付けもされたくはないので、「私個人」「(単数形の)they」として見てくれることが理想かな。

移行の過程で:ゴールはいずこ

では、自分・社会両面で私の性別移行というものを捉えた時に、そのゴールはどこにあるのか?「女性になること」がそれに当たりそうですが、既に性別適合手術を終えた当事者の語りを見ているとそれはスタートだという意見が圧倒的。現に、ゴールであったが故に術後に自死してしまった方も。さて私はどうするか?身体の状態としては「女性になること」ですが、死をはねのけるだけの何かがあるか?そもそもある一つの静的状態・到達点しかゴールにはならないのか?動的状態・生活形態を維持していくことはゴールたり得ないのか?そういった疑問が浮かんできます。今、私にはライフワークとも言える趣味があります。音楽、楽器演奏。幸いなことに、常設の楽団への所属や賛助出演によってシーズン問わずコンスタントに演奏活動を続けられています。積極的にカミングアウトをしている所ばかりではありませんが、「そんなことより」という具合に音楽を通して多方面の仲間達と自分を隠さずに繋がれています。平日に働いて休日は趣味に打ち込む生活を、身体が変わっても続けていきたい…という望みが私にはあります。勿論、活動量・活動形態・参加団体・使用楽器等は年月の中で変わっていくでしょうが、こういう状態を維持していくことも私はゴールと見なしたいと考えています。

「永遠の少年」ではいられない:十年単位で見ること

とは言ったものの、この目標たる生活形態を維持していく上で避けられないものがあります。自分と周囲の加齢、そして治療による身体状態の変化。安楽死ができない以上、現世をあと30~40年は生きていかなければなりません。性別移行を始めてから今に至るまで、特に2019年の私は仕事と趣味をやりながら定期的にホルモン治療を受ける生活を軌道に乗せることばかり考えていました。安定とは言うものの刹那的で、この均衡が崩れた先のことを考えられていませんでした。いや、その重さを直視できていないとも言えるかも知れません。不安要素は沢山あります。

まず加齢という点だと、おじさん化ないしおばさん化、社会保障への不信、原家族や親戚との死別。おじさん化だけはそれ即ち男扱いなので何としても避けたくて、おばさんと見なされるのであれば美醜はどうだっていいです。でも、若く綺麗に自分を見せたいとは思うのでしょうねきっと。寧ろ他者との関わりの中で年齢相応の振る舞いができるようにならねばならないのでしょう私の場合。若者気取りでいない、遠/近過ぎる距離の取り方をしない、相応の常識を身につける。「痛い人」が若気の至りで見過ごされなくなったら終わりですから。また、私の世代となれば年金が貰えない見込みが強く、治療費のこともあり現在も経済的な不安は付きまとっています。今の仕事でキャリアを積むか、(こうした執筆をシフトさせることも含め)何らかの副業を始めるか。50~60代になる頃には安楽死制度が整備されれば良いのですが、夢物語ばかり言ってはいられません。最低限自分が生きていける基盤だけはキープしないと。身内については後の節にて述べます。

次に治療を通した変化だと、やろうと思えば今年度末にもできそうな睾丸摘出。これをすることで今の均衡が崩れる可能性が非常に高いです。今はいわゆる「アリアリ」で、皮肉にも男性ホルモンが分泌されているおかげで体調をキープできている所があります。しかしそれを取ってしまうことで、いくら女性ホルモン注射で男性ホルモン値が抑えられているとは言え、ホルモンバランスは大幅に崩れます。肥満化を恐れて食事を減らしたら今度は栄養状態が悪化します。種々の更年期症状によりもし規則正しい生活に支障をきたしてしまったら、仕事だって今と同じにはいかないかも知れません。収入にも影響するわけなので、働けなくなることが本当に怖い。最終的には全部取りたいのですが、治療からまだ1年。男性化は取り返しがつきませんが、パス度向上の保証も無く費用も馬鹿にならないしで、年度末にやりたかった睾丸摘出は一転躊躇い気味です。職場にも原家族にもカミングアウトをしておらず、頼れるものが無いのが現状。今の生活だけを切り取れば軌道に乗っていても、薄氷の上を歩いているような心地なのです。ゆくゆくは崩れる均衡であっても、これら恐れていることと一生付き合わねばならないとしても、崩すのは・味わうのは今じゃない

セーフティネット:頼れる何かを

今の生活・今の均衡を崩してしまうと、頼る先の無い私は本当に破滅しかねません。治療ができなくなる、趣味ができなくなる、仕事ができなくなる、健康状態が悪くなる、精神状態が悪くなる。でも誰も頼れず、原家族にも「変わり無い」と装わねばならない。そうなっては、破滅までは思いの外早いのかも知れません。薄氷の上という実感はある私は、頼れる先が、セーフティネットが欲しいと切に願っています。LGBTQのコミュニティはそれになり得るでしょうが、NPOをはじめとした「昼」のコミュニティが五輪後にどうなるか。日本という国の、その中枢にいる人々の思想も考えると逆風と思っていた方がいい。医療の流れで「ガイドライン」に沿ってLGBTQ界隈に身を置いた私にとって接点が無かったのが「夜」のコミュニティ。ブーム的に取り沙汰される以前からひっそり脈々と続いてきたもの。私よりずっと深く濃く世の中を見てきた人達。セクシュアリティとその他精神や身体の健康、それを一元的に診られる医療機関が無い中、ライフコースに沿った悩みという点ではいつか関わりを持つべき場所なのかも知れません。或いは、「昼」のコミュニティでもその場限りでない付き合いをしていくこと。当事者以外にも頼れる存在がいるに越したことはありませんが、トランス独特のことについてはやはり境遇の近い方々と助け合っていきたく。但し、どんな人でも一方的な依存にだけはならないように。これは戒めとして。

種々コミュニティでの接点はそれとして必要なことですが、私としては原家族がセーフティネットであってほしかったです。付き合いの長短だけでは決まらないとは言え、やはり「帰れる実家」があることを求めてしまいます。場所としても、経済的にも。一時は絶縁するつもりでいましたが、諦めきれないのは身内にも時間に従い変化がある事実をここ数日で突き付けられたことが大きく影響しています。実父より10歳上の伯母がかなり弱ってしまっているとの報せを耳にしたのは、先日の法事の折。更には実母も(Instagramのアカウントを覗き見したところ)今までにない身体の不調により定期的な通院をしている様子。祖父母の死というものを全て経験したけれど、こんなに早く親の死を意識することになるとは思わなかった。実父は70代前半、実母も50代後半。今まで何も無く来られたことの方が奇跡だったと気付かず、私は先延ばしにしてはいけないことを先延ばしにしてしまっている罪悪感を強く抱きました。少なくとも両親には、私のエゴであろうとも二人が存命の内にカミングアウトをしておきたい。言う前に逝かないで。原家族に対しての憎しみはあれど勿論そればかりではなく、恩や感謝だってある。人生観や性的少数者への考えが決定的に異なりながらも尚、原家族との和解を諦めきれない私がいるのです。肯定や理解や受容ができなくても、否定さえしてくれなければ、放置しておいてくれれば御の字。私の祖父母と呼べる存在は全員この世を去り、いよいよ両親も人生の仕上げ・締めくくりに入る段階。そう遠くない内に時間を作らねばと思いながらも、"常識"に照らすと"普通"ではない私のことを非難されるのが怖い。でもどこかで腹を括らないといけないのでしょうね。通院先でカウンセリングを追加で始めることも考える必要がありそうです。

道を見失わぬ為に:脱ナラティブ

こうして私の未来のことを考えていくと、長期的な視座が欠けていたことに加えてもう一つ欠けがあったことに気付かされます。それは、自身が帯びる身体性・社会性やLGBTQの動向について、定量的な・学術的な言説に基づいた考えの芯が無いということです。拙ブログの書き方でもわかるかと思いますが、その殆どが自身の体験に基づいたもの。実体験からしか見えてこないものもあるにはありますが、数字や理論が持つ説得力には敵いません。今後のことについてこれまで体験をベースに述べてきましたが、学説を学び調査を追うことが求められるべき。自分の選択を誤らない為にも、実践と理論の両面から未来を捉えていかねばなりません。

目の前のことしか見えていなかった2019年。痛くても少しずつ現実を負っていく必要のある2020年以降。引き受ける未来の重さを予感して圧倒されそうですが、色んな人に少しずつ頼りつつ前を向いて歩いていきたいと思います。

もしよろしければ、ご無理の無い範囲でお願い致しますm(__)m