知られざる、手延素麺揖保乃糸の歴史


明治の製造工程

突然ですがみなさん、素麺っていつ頃からあると思いますか?


【古代】 
実は古代の奈良時代(710年~794年)に遣唐使が、中国から持ち帰った索餅(さくべい)というお菓子が、手延べ素麺の原型であるといわれています。

さくべい(コトバンク)

※出典:コトバンク

【中世】
 中世の鎌倉時代(1185年頃~1333年)には、中国から伝番した禅宗(仏教)寺院のお坊さんが食べる「点心(てんしん)」と呼ばれる間食のメニューの一つとして、索餅(さくべい)が細く、長く、形を変えた索麪(さくめん)が使われていました。

点心

索餅(さくべい)が進化した「素麺(そうめん)」の発祥の地としては諸説ありますが、約1200余年前(平安時代頃)に奈良県の三輪山の麓にある、日本最古の大神神社付近で発祥したとする説があります。

当時流行した飢饉と疫病に苦しむ民の救済のために産み出されたとされます。

【近世】
それから時を経て、江戸時代(1829年頃)に全国の庶民の間で一大ブームとなった「お伊勢参り」(ピーク時の参拝者数はなんと半年足らずの間に460万人!:出展:DiscoverJapan)の道中で、手延素麺は、産地(奈良や京都)を訪れた人々を魅了しました。

その技術を持ち帰った人々によって、播州(兵庫県)、小豆島、島原など、主に西日本へ伝わり、各地が産地化し、日本を代表する伝統食となったと考えられます。

お伊勢参り

出典:DiscoverJapan

揖保乃糸を生産する、兵庫県の播州地区でのそうめんの生産の歴史は、斑鳩寺(揖保郡太子町)の古文書「鵤庄引付」(室町時代:1418年)に"サウメン"の記述、伊和神社(宍粟市一宮町)社殿造営の祝言に"そうめん"を使う(1461年)等に記録が見られます。

京都で鎌倉時代にはじまった素麺づくりが兵庫の播州や岡山、大阪、奈良へ伝わったという説に則れば、約600年以上前から播州地区で素麺づくりが行われていたことが見て取れます。

江戸時代の安永頃(1771年〜1780年)には、素麺づくりの新しい技術が持ち帰られ、当時の龍野藩の「許可業種」として奨励され、播州でそうめんづくりが本格化しました。
そして、龍野藩が著名な産物の保護育成を始めた文化年間頃(1804年〜1818年)から、伝統の「揖保乃糸」の産地化が確立したと考えられます。

斑鳩の章引き付け

※鵤庄引付(いかるがのしょうひきつけ)

【近・現代】
そうめんを作る農家が増え生産量が伸びるにつれて、粗製乱造で産地の信用を落とす者が現れるようになりました。

そこで、龍野藩・林田藩・新宮藩内のそうめん屋仲間が集まり、品質などについて取り決めを交わしました。

違反した場合は違約金として2両を払うとあり、厳しい管理が行われたようです。

素麺仲間の

※素麺屋仲間取締方申合文書

そういった流れが発展し、明治維新を経て龍野藩の保護が無くなったことを受け、明治5年に生産者組合の原型組織「明神講」が設立。そして明治20年に現在の兵庫県手延素麺協同組合が誕生しました。以来、組合、製造者(組合員)、特約店が三位一体となって取り組み、現在の揖保乃糸ブランドを確立するに至りました。


ちなみに、当社菅哉物産株式会社は、産地でも数少ない、揖保乃糸製麺、加工、販売の三本の矢(権利と技術)を持つ会社です。

明治の製麺風景

明治の製麺風景2

明治の製麺風景3


※明治時代の製麺風景

参考:兵庫県手延素麺協同組合HP https://www.ibonoito.or.jp/history/ および公式資料、奈良県三輪素麺工業協同組合HP https://www.miwasoumen-kumiai.com/history/ 、DiscovrJapan https://discoverjapan-web.com/article/38423#:~:text=A.,-%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A8%E3%80%81%E5%8D%8A%E5%B9%B4%E6%9C%AA%E6%BA%80&text=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E7%B4%84,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82、Wikipedia「素麺」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E9%BA%BA

次回も、手延素麺揖保乃糸の歴史について、さらにマニアックな部分を掘り下げていきます!





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?