私はゲームを「作る側」に回れるのか?
ゲームを作らずこんな事を考えてる時点で無理ゲー。
ハイ解散! 終わり! ジャン!
……ってなるのは分かるんだけど、とりあえず今のこの思考を書き留めておかないと気が狂いそうだったから……。
とは言え本当の本当に駄文なので、暇で仕方がないから人間界の底辺の思考でも見ておくかという奇特な殿上人の皆々様に於かれましては、それでもなおこの駄文が貴方の人生に何の益ももたらさないという事実を踏まえたうえでチラ見して頂ければと思います。
1:好きって何
まずは簡単に自己紹介します。
・年齢:27歳
・前職:新車営業職
・現職:コールセンターのバイト
・目標:ゲームクリエイター(プランナー)
・好きなゲーム:わからない
こんな感じです。
このたった数行の自己紹介で、好きなゲームが分からないっていうゲームクリエイター目指す者としてどうなのっていう致命的な欠陥を抱えているのが分かるかと思うのですが、待って欲しい。言い訳をさせて欲しい。
私は昔から自分について考える事が大好きなクソ雑魚ナルシストで、世界の誰にも負けない特技が「自己分析」とかいうしょーもない奴だ。
そしてその自己分析(笑)の末に気付いた事の一つに、「自分の好きという感情の機微が分からない」というものがある。
私は「好き」と一口に言っても、「どこから好きと断じれば良いのか分からない」のである。
最近の例で言うと、私はストⅤにハマっているが、そもそもストⅤが好きなのか? という所になると途端に口ごもる。
いや、もっと分解して言うならば「ストⅤのF・A・N・Gが好き」なのであって、ストⅤが好きなのとは違うのだ。
それから、私がゲームを始めるきっかけになったポケモンについても同じ事が言える。
ポケモンはそれこそ赤緑の頃から毎シリーズ買って遊んでいる。けれどポケモンのゲームが好きなのか? と問われれば答えに窮する。
ポケモンに出てくる「カイオーガやキテルグマ等、特定のポケモン達の事が好き」なのであって、ゲーム自体の好きを問われると「?」となってしまうのだ。
何故、キャラクターの事は好きだと言えるのに、ゲーム全体となると好きなのかどうか分からなくなるのか。
つまり私は私自身の思う「好き」に自信が無いのだ。
私が自分の「好き」に自信を持てなくなったのはある友人の存在がある。
その友人はハリポタとコナンをこよなく愛しているのだが、ハリポタは映画の台詞を空で言えたり本の外表紙が剥がれるまで読み込んだり、コナンなら何話でどんなトリックが使われていたかすぐに言えたり、私がメインテーマをハミングし始めたら例えどんな時でも「俺は高校生探偵、工藤新一」を言い始めてくれるくらいにはガチ勢だ。
曰く「ハリポタかコナンを卒論のテーマにさせてくれたら5回は卒業できる」との事。何から卒業するつもりなんだ。
そして、そういうガチ勢を目の前にして私は自分自身の「好き」の概念が歪むのを感じた。
私は常に「形として見えるもの」を判断基準としている。これは私の特性の問題になってしまうのだが、改めて「好き」を考えるにあたってそれは大きな壁となってしまった。
私にとってキャラクターを好きと言えるのはとても簡単だった。
キャラクターを好きだと言えるバロメーターは可視化させやすいからだ。
一番簡単なのは「Twitterで狂った様に同じキャラクターに愛を囁き続ける事」である。文章として残ったものは自分の中にも蓄積されるので、それは確かにキャラクターを「好き」だと言える根拠たり得るのだ。
同じ理屈で、「キャラクターの絵や小説を創作する」や「そのキャラだけを集める・使う」といった行動も、「好き」という気持ちを可視化させた物だと私は思っている。し、キャラクターを好きだという場合のバロメーターとして私自身も使っていた。
だが、それが作品という枠組みになると一気に範囲が広がってしまう。
作品の小ネタを自分で探すとか、深いところまで考察をするとか、同じゲームを何千時間もプレイするとか、やりこみ要素を全てクリアするとか、作品に関連するグッズを買いまくるとか、作品に関するメディアミックスを制覇するとか、とか、とか、etc……。
それで言えば私はストⅤのゲームをプレイしたことしかないし、何ならF・A・N・Gしか使っていなくて、世界観だとかそういうものはF・A・N・G以外把握していなかったりする。そしていきなりすんげえどうでも良いけど前の職場の同僚に顔がザンギエフに似ている人がいる。
ポケモンもそうだ。私はアニポケをほぼ鑑賞していない。映画もミュウツーの逆襲を幼い頃に一度見たきりだったし、グッズも好きなポケモンに関するもの以外は殆ど所持していない。
だからストⅤが好き、ポケモンが好きと言う事が憚られてしまうのだ。
当然この感覚は私個人の捉え方なので、他の人にとって「好き」はもっと軽やかで理由などいらないものであって欲しいと思うし、私もそうでありたいと願っているが、一度ガチ勢を身近に見てしまって自分の中で「好き」という感情をどう位置付けたら良いのか混乱しているのだ。
もしも「好き」をもっと突き詰めて理屈化して自分の納得できる言葉に落とし込むことができたのなら、きっとそれはクリエイターとして大きな武器になるのだろうとは思うのだが……。いかんせん、未だ自分の中でゴチャゴチャ考えるに留まってしまっているのが現状だ。
2:広く浅く舐める様にゲームをする
私はゲームが好きだ。
一つ上で「好きって何~~~!?!?!???」とかほざいていたくせにゲームを好きだという気持ちを語れるのは、偏に4歳の頃初めて従兄弟の家でNINTENDO64を遊んだ時からずっと飽きずに何かしらゲームを遊んできたという可視化できる事実があるからだ。
病める時も、健やかなる時も、親にゲーム機を取り上げられた時も、私はどんな手を使ってでもゲームを遊び続けてきた。
その間違った方向の努力や、それに費やした年数は嘘じゃない。中毒と言われればそれまでなのだが、それ程私はゲームが好きだ。
しかし、私はプレイしたゲームを正確には把握していない。
好きだと言いながら、どんなゲームを遊んできたのかすぐに答える事ができず、結局今プレイしているゲームの名前を挙げるにとどめてしまう。
何故なら、ゲームをしたすぎる余り全く知らないゲームを手当たり次第に買ってきてはプレイしてクリアしたら売ってを繰り返してきたからだ。
そのゲームの世界観をじっくり楽しむとか、そう言った事を殆どしていない。私にとってゲームはクリアするものだったから、クリアした後のゲームのその先については殆ど顧みて来なかった。
だからプレイしてきた本数だけで言えば、一般的なゲーム好きの人と比べても遜色は無いはずなのだが、心に残って深く楽しんでいるゲームや、シリーズをずっと追いかけてきたゲームとなると途端に本数が激減して、ゲームが好きな割には余りゲームを遊んでいない人になってしまう。
それにしたって、何でまたそんなにクリアに拘るのか?
それは私の承認欲求の強さに由来している。
私はとにかく認められたくて認められたくて堪らない承認欲求の塊だ。
そしてゲームクリアというのは、一つの「承認」の形だと思う。
ゲームは過程がどうであれ、クリアしたらエンディングという形で「承認」してくれる。エンディングだけではない。例えば格ゲーでコマンドが出せるようになったとか勝てるようになったとかそういった成長を感じさせてくれる承認や、恋愛ゲームでキャラクターが好意を寄せてくれる承認、アクションゲームで倒せなかった敵が倒せるようになった時の承認、音ゲーで何度やっても失敗していた譜面をやり切った時の承認……。
ゲームは本当に沢山の承認を散りばめてくれている。
それ故に私はゲームに承認して貰いたくて、手当たり次第にゲームを遊び続けてきたのだ。
ゲームはいつだって、私を承認してくれた。
だからこそ、私はゲームを多く、長く遊んでこれた。
私にとってゲームは承認を与えてくれる物であり、その点で言えば親よりも承認してくれたと思う。
勿論、親は親で私に生きる上で必要な事を沢山教えてくれたし承認以上のものをくれた事は間違いないので、その点は誤解の無いよう補記する。
ただ私という人間が異常なまでに承認欲求が強かったので、それをゲームで補ってきたというだけの話だ。
3:ゲームに感謝している
ここまで書いてきて、私はやっと自分の思考を少し纏める事ができた。
私はゲームが好きだ。
どのゲームが好きかと聞かれるとやはり口籠ってしまうが、ゲームという存在自体が好きだ。いや、好きとは少し違うかもしれない。
私はゲームに感謝している。
もしゲームが無かったら、私は今以上に承認欲求を拗らせて、ろくな大人になっていなかったと思う。もしかしたらどっかの時点で人生を諦めてしまったかもしれない。今も夢追い人の様な生活をしているのでろくな大人ではないけれど、少なくとも生きている。ゲームによって、私は何度も生かされてきたのだから。
さて、ここで当初の問いかけに戻ろうと思う。
「私はゲームを「作る側」に回れるのか?」
それは現時点でYESともNOとも答えられない。でもはっきりとした自分の目標として解答できる。
「私はゲームを「作る側」に回る」
この記事は私の独り言であると同時に意思表示だ。
私はどんな形であれ、私を生かしてくれたゲームに感謝しているし、この世界には77億人以上の人間が生きているのだから、きっと私と同じ様に生きる上での何かをゲームから得る人もいるだろう。
私はそう言うゲームを作る側になりたい。誰かの人生を少しでも生きやすくするような、明日が楽しみになるような、そんなゲームを作りたい。
私はゲームへ恩返しをする為に、必ずゲームクリエイターになる。
2020/9/3
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?