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国語の先生は国語だけ教えればいい?!

国語の先生は国語だけ教えればいいってなっちゃってませんか?

これは多くの人が心の奥深くで思っていることです。

親御さんしかり、現場の先生しかり、生徒さんの中にもそういうことを思っていることがあります。


キョンコロ先生も大手塾にいたころ、何回かそういうことに遭遇したことがあります。

ある日、日本で初めて作られた銅銭「和同開珎」について話していたことでした。社会の先生と「 年号は「和銅」で、銭文は「和同」なんですよね、漢字を書くときに気をつけなきゃね」と話していた時のことでした。

急に横に座っていた算数の先生が「え・・・・・国語の先生なんだから国語のことだけ教えればいいんでしょ?国語のことだけ・・・・・」

一緒にいた社会の先生も少し驚いていらっしゃいました。

正直、そういう先生は子供たちとうまくコミュニケーションが取れないケースが多く、いつの間にか辞めているというのが定石。

なぜか女性の先生に多く、ただの職員室の雑談でもはっきりと科目を分ける傾向があります。

なぜだろう・・・・。

そしてたいがいやり玉にあがるのは国語。

ほかのことより少し扱う範疇があいまいなことが原因です。

国語の素材文はほかの科目の内容とかぶることが多いというか、私たちはその日読む素材文についてかなりのことを知らなければならないし、そういうのを繰り返していけばトリビアルな内容が頭に入っていきます。

そして「科目を超えて」行くわけです。社会も、理科も、そして算数のネタも素材文のどこかへ出てくるし、何かしら共通点もあると思うのですが、話し込んでくると急に思い立ったようなタイミングで

「え・・・・・国語の先生なんだから国語のことだけ教えればいいんでしょ?国語のことだけ・・・・・」

とぶち込まれるんです。

そもそもの問題として、先生同士の雑談だから何を話してもいいんですけどね・・・・・。だからその方もそのご意見をお話になってもいいと思いますが、こちらとしては違和感を感じます。

でも、「科目が分かれている」という考え方は科目がある以上仕方ないけれど、それにしても「小さく分けた摺り切り一杯の知識」と「あふれるような量の知識」で教えてもらえるなら多分後者の方がいいと思うのですが・・・・。

教壇に立ったとき、本当の勉強には境目がないという自覚をもって自分の科目を教える先生と、最初から科目には厳然たる境目があるという考え方を持っている先生のどちらに習いたと思いますか?

それってもうちょっと広げて考えると「勉強する時代はわき目も振らず勉強だけしてればいいのよ、教科書以外のことはしないで」という思想に行きつきそうでちょっと怖いです。

先生だけではなく親御さんもこう思っていることがあるのではないかと思います。

話をもとに戻します。国語の先生に限らず、教壇に立つ先生は自分の科目の後ろにほかの科目があってそれぞれが支えているということを忘れてはいけません。

どの科目が一番「花形か?」という話をすると思いますが。そんなのないし、あるとしたら全部花形なのです。

その「花形思想」が「科目意外のことは教えない」という思想につながっているのではないでしょうか?

だとしたら、私は蓮の花を見ることができない泥沼の中にいる方がいいかな・・・・。

もし、最近塾講師のお仕事を始められた方がこのブログを読んでいるらしたら私は「花形」という考え方を持たずに地道に知識を増やして、そして「ちゃんと子供に伝わる」仕事になるように自分の授業を組み立ててください。

親御さんは「こんなこと○○と関係ない」という考えを口にする前に「本当かしら?本当に関係ないかしら?」と一度頭の中に戻してください。

つながっていないということはお子さんの人生を細切れにするということです。

そんなの面白くないでしょ?何でも頭の中で自由自在に知識をつなげて考えられるほうが生きる力があると思うのです。

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