【小説】ダーツとフリースロー 1.『8月31日』
20グラムのタングステンの塊がプラスチックのボードに突き刺さっていた。
セグメントと呼ばれる、細かくカットされたピザのような領域のひとつに2本の矢が刺さっている。いずれも同じ形で同じ重さをした、20グラムのタングステンの塊だ。尻尾のような羽をお尻に揺らし、彼らは最後の1本が突き刺さるのを待っている。
ダーツだ。突き刺さっているのは壁に備えられたダーツボード、2本のダーツが寄り添うようにして同じセグメントに刺さっている。
しかしながら、3本のダーツが同じところに刺さることはないだろうと思われた。三浦大地は他の場所を狙っているからだ。大きなミスがない限り、2本のダーツが刺さっている20シングルと呼ばれる領域に3本目は飛んで行かない筈である。
「残り12点。12シングルか、6ダブルか」
「4トリプルってのも一応あるよ」
「4トリは男前すぎるね。惚れるわ」
「聞いたか童貞、惚れるってよ。男になってみせなさい」
そのように勝手な言葉を投げつけるようにして笑うのは三浦真由だった。三浦大地の姉であり、彼が今構えるダーツの所有者でもある。「惚れる」と発言したのは真由の友達である佐藤華子で、つまり、大地はふたりのお姉さま方にダーツ・スローを見守られていることになる。
童貞とは可愛らしい生き物である。年下の童貞という愛玩動物のような存在を前に、リラックスしたお姉さま方は酒を飲みながらツマミをかじり、遠慮のなさを競うような下劣な野次をそれぞれ飛ばし合っていた。
大地は大きくひとつ息を吐き、足元のスローラインを確かめる。残り12点、見事に決めればこの1投で勝負が決まる。夏休み中の女子大学生という限りなく痴女に近い存在を童貞の手で屈服させられるというわけである。
お姉さま方の手ほどきを受けてダーツをはじめて約1ヶ月。ゼロワンと呼ばれるゲームで大地がハンデなしで勝ったことは一度もなかった。
「ダブルアウトのルールがあったとして、トリプルで上がるのってありなの?」
フォームを作りながら、なんとなしに大地は訊いた。彼にダーツを教えたのは彼女たちなのだから、当然ルールにも詳しい筈だ。そもそも男子高校生にとって女子大学生というのは本来直接話しかけることも許されないような雲の上の存在なのだ。彼女たちにわからないことなどある筈がない。
しかし、彼の姉が行ったのは、「そんなん知らんわ」という質問してきた弟を突き放すような返答だった。「ハナちゃん知ってる?」
「いや知らない。でも難度が上がることをして、駄目って言われはしないんじゃないかな」
「少年、君はトリプルアウトを狙うのかい?」
「いや狙わないけど。でも、惚れられチャンスは大事にしないとって思ったんだ」
「この煩悩の塊め。よし、君はマナーを守ってダブルアウトを狙いなさい。6ダブル! これ決定!」
「勝手に決めるなよ」
会話の中で却下はしたが、大地は元々6ダブルを狙うつもりでいた。今現在の勝利条件である52点を3本のダーツで得るルートはいくつもあるが、今回彼が選択したのは20-20-12という流れであり、それはこの日の自分の調子がすこぶる安定していたからだった。
1本目を投げた時点では20シングルで20点か、20ダブルで40点を獲得できれば嬉しいなあと彼は思っていた。そして彼は20点をゲットした。同じ動作で投げた2投目は同じ放物線を描いて同じセグメントに到達したのだ。今の調子であれば、思ったところに思ったようにダーツを刺せるような気さえ彼にはしていた。
ボード上の万能感。ダーツにのめり込む種類の人たちが愛してやまない感覚である。
改めて大きくひとつ息を吐き、スローラインを確かめる。足の位置、体重の配分、肘の上げ方。ひとつひとつを体に染み込ませるようにして固めてきたスロー・フォームだ。ボードを狙う視線とダーツの先端を合わせ、これから20グラムのタングステンの塊に描かせる放物線をイメージしていく。
完璧だ。スローの成功を予感する。しかし大地の腕は振られなかった。
真由たちの話す声がしたからである。聞き慣れた姉の声と、その友人の話し声だ。スロー中は雑談禁止というルールはないが、問題なのはその内容で、彼がどのような集中力を発揮していたとしても無視のできないものだった。
「これ入れたら、大地、はじめての勝ちじゃない? ハナちゃん何かご褒美でもあげなよ」
「ご褒美? いいよう、何がいい?」
「童貞くんの喜ぶものでしょ。そうだねえ、おっぱいでも見せてあげたら?」
「おっぱい!? 馬鹿じゃないの!」
とてつもない内容だった。
おっぱい。
このスローに成功したら、この女はおっぱいを見せるというのか。
「ほら大地くん本気にしてるじゃん!」
瞬間的に顔全体を赤くした華子がそう言った。とても嫁入り前の娘のすることではない、えげつないシモネタを丸めて固めたような野次を友人の弟に投げつけていた夏休み中の女子大生(限りなく痴女に近い存在)と同一人物とは思えないその照れぶりに、童貞の男子高校生がかえってグッときたのは言うまでもないことである。
下品な発言をする人間に必ずしもその耐性が備わっているとは限らない。彼女は痴女なのではなく、フィクションのエロを楽しんでいただけなのだ。
「おっぱいか――」
「目つきがやばい!」
投球前に間を取るピッチャーがプレートから足を外すように、大地はフォームをセットしたスローラインから数歩離れ、姉と並んでソファにだらりと座った華子の周囲へ鋭い視線を投げつけた。
年下の童貞を男性と認めていないような気の抜けた格好だ。8月下旬の季節に伴い、短パンのようなズボンの丈から生身の足がタラバガニのように生えている。Tシャツで包んだ上半身の露出は高くないが、それがかえって足の肌色を強調しているようにさえ今の大地には見えるのだった。
とっくに慣れていた筈の光景だったが、おっぱいを見せてくれるかもしれないという前提をもてば、また違った味わいをもたらすものである。残り1本のダーツを手の中で遊ばせながら、その自分の受け取り方の変化を面白がるように、大地はしばらくソファを眺めた。
「――早く投げなさいよ」
「いやあ、投げるまでの時間に制限はないでしょ」
珍しく精神的優位に立てた少年はニヤニヤとそう言った。しかし早く投げなければならないというのは本当のことであって、それは何故ならいつ彼の姉が敵に回るかわからないからである。
弟と友人といういずれも彼女の味方といえる両者を争わせながら、真由は概ね中立というスタンスを保って都度ちょっかいを出す対象を変え、たいへん面白がっていた。
それまでは友人と一緒に弟の童貞ぶりを攻撃し、セクハラとパワハラ、あるいは姉ハラとでもいうべき言動を取っていた。それが今では友人のおっぱいを供物のように扱い、友人の動揺を楽しんでいるのだ。弟が調子に乗り続ければ再び態度を改めるであろうことは彼にも理解できている。
だから大地は再びスローラインへと戻っていった。
「――約束だよ」
「承知した」
「なんで真由が承知するのよ!」
そんなやり取りを交わしながら、彼は集中力の世界へとゆっくり足を踏み入れる。
6点を意味する領域の高さはボードの中心、ブルと呼ばれる小さな円と同じものになっている。高さが同じであるなら、自分自身が平行移動し立ち位置を変えれば、ブルを狙うのと同じ動作で6を狙うことができるのだ。
ブルを狙うのはこれまで大地がもっとも時間をかけて練習してきたスローだ。6ダブルはそのセグメントの端、ピザの切れ端でイメージすると、生地の高く積まれたソースの届かない場所である。その形は細長く、ブルのように円形ではないけれど、狙う高さが同じであれば同じ動作を高い精度で行うだけだ。
改めて大きくひとつ息を吐き、スローラインを確かめる。足の位置、体重の配分、肘の上げ方。ひとつひとつを体に染み込ませるようにして固めてきたスロー・フォームだ。ボードを狙う視線とダーツの先端を合わせ、これから20グラムのタングステンの塊に描かせる放物線をイメージしていく。
おっぱい。
鼻の先に人参をぶらさげられた馬のような状態だ。
その興奮に平常心を失うか? その権利を失う、失敗の恐れに腕が縮むか?
大地はそのいずれでもなかった。いや増す緊張感を集中力の助けとしていた。
心臓が強く鼓動するのがわかる。その心拍に伴い血流が全身をめぐる。脳に向かう血液が、こめかみのところを流れているのを自覚する。
細く長く吐いていた息がやがて尽きる。肺の中が空に近くなる。
息を止めているわけではない、吐く息のなくなった状態だ。投げ上げられたボールが宙に一瞬止まるようなその瞬間に、あえて投げようと思うこともなく大地の腕は自然な動作で振られていた。
イメージ通りの軌道に乗せられ、狙ったところへ矢が飛んでいく。ボードに刺さる手ごたえを感じる。体から離れたダーツの感覚をどうして感じられるのかが大地はいつも不思議だった。狙ったところに届いた場合はまた一味変わった感触なのだ。
その感触をより良くするため特殊な加工を施されたダーツボードがダーツの到着を探知する。刺さったダーツの位置情報がデジタルに処理される。ダブルの区域に特有の音がスピーカーから発せられ、ディスプレイに残った12という数字がゼロになる。6ダブルだ。はじめに持っている501点を3人がそれぞれきっちりゼロにするというゲームに大地ははじめて勝利したのだった。
「キター! ウッヒョー気持ちいいー!」
脳汁がドバドバと出るような快感に大地はその場で何度も飛び跳ねた。指先に格別の余韻が残っている。その手を眺め、褒められるのを待つ子供のような顔をソファに向ける。そこには姉とその友人が並んで座っている。
「やるじゃん」と真由は言い、グラスのビールを飲み干した。
そしてチラリと華子を見ると、彼女はタラバガニのように伸びた足を組み、梅酒のロックをちびりちびりと飲んでいた。
華子の閉じていた目が開かれ、にっこり笑って大地を見つめた。それだけで童貞の高校生は舞い上がるような気持ちになってしまうものである。
「わかったよ、私も女だ。勝手に交わされたものとはいえ、約束は守ってやろうじゃないの」
「お~、ハナちゃんカッコい~」
「――しかしね」
華子は大地にそう言った。ソファのアームレストに肘を置き、頬杖をつく形で大地を眺める。斜めになった体のラインが大人の余裕を演出しているとでも言うのだろうか。華子の続けた言葉はこうだった。
「いつ、という約束はしてないからね。いずれ時が来たら見せてやらんでもないと思うものだよ」
「き、詭弁だ!」
そう叫ぶ童貞に勝ち目はない。実際時期は条件に盛り込まれていないからである。少年はこうしてまたひとつ学び、大人の階段を上ることになる。どれだけほかの階段を上りたかったとしてもだ。
元より本当にこの場でおっぱいが与えられると本気で思っていたわけではなかった。そのように自分に言い聞かせ、傷心を癒そうと努める弟に姉は言う。
「かわいそうだから、君に袋を3つ用意してあげよう。困ったときに順番通りに開ければ指示が書かれているので従うといい。きっとおっぱいに辿りつけることだと思うよ」
「なにそれ、孔明の袋かよ。できるなら最初からくれればいいだろ回りくどい」
「わたしもはじめて『三国志』を読んだ時にはそう思ったものだったよ」
「今では違うの?」
「これはこれで趣があって良いと思うようになったね」
「完全に馬鹿にしてるじゃねえか」
20シングルに2本、そして6ダブルに1本と、概ね狙い通りに投げられた風景をスマホで写真に納めた後、大地はダーツをそれぞれボードから引き抜いた。右手には先ほどの感触がまだ残っている。いくらでも投げ込みたいような気持だった。
「どうする? もう1試合する?」
ソファから出てくる気配のない真由に首を振ると、「それより少し投げ込みたいな。今俺ちょっと良い感じなんだ」と大地は言った。
「どうぞ好きなだけ。おっぱいも見せてもらえないことだしね」
「いやあやっぱり童貞の高校生に女子大生のおっぱいはまずいって。犯罪だよきっと。アメリカだったら逮捕されるよ」
「それだとアメリカじゃないから良さそうなものだけど、確かにそれはそうかもね。少年、君はまず女子高生のおっぱいをゲットしなさい。話はそれからだ」
「ああでもそろそろ転校なんじゃない? 今何日だっけ」
大学生の夏休みはあまりに長く、それは日付の感覚を失わせるほどのものである。しかし高校生である大地はちゃんと自分の予定を把握していた。
「今日は8月31日だよ」
「うお8月終わるじゃん。どうするハナちゃん」
「とりあえずもう1杯飲もう。ええと、今日が8月31日ってことは、大地くんは学校明日から?」
「そうなりますね」
「学ラン? ブレザー?」
「ブレザーですよ」
「ブレザーかあ。学ランの方がよかったな」
「でも、ブレザーの方がオシャレじゃないです? 学ランは重いし、もっさりしてるっていうか」
「いやあ、自分が高校生じゃなくなると学ランの方がいいな~って思うよ。私も制服ブレザーで気に入ってたけど、セーラー服の方がいいな~って今では思うもん」
「完全におっさんの意見だね、ハナちゃん」
そうしたきわめて知性的でない彼女たちの会話を聞き流しながら、大地はダーツの投げ込みをひたすら続けた。今回20シングルを射て残り32点とした段階で16ダブルを狙わなかったのは、1投目の感覚が良くてそのまま続けたかったというのも嘘ではないが、時計でいうところの8時あたりの方向となる斜め下のさらに端を狙う自信がなかったのだ。
投げ込みを続けながら、大地は明日からはじまる新しい高校での生活を想像する。ろくに思い描けなかった。
1ヶ月ほど前からこの街へ引っ越してきて、バイトとダーツに明け暮れた生活をしてきたのだ。姉である真由や、その友人で大地のバイトの同僚でもある華子たちと遊んで暮らした。これ以上の刺激が高校生活にあるのだろうか?
いずれにせよ明日になればわかることだ。無心のスローを心がけ、大地はボードへダーツを投げた。
それは驚くほどに大きく外れた。
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