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齋藤陽道さんの写真展『絶対』

ワタナベアニさんに教えていただいた齋藤陽道さんの写真展『絶対』に行ってきました。

『絶対』の写真は、被写体にしっかりとピントはあっているのですが、逆光で被写体がクリアに見えません。そのためもっとしっかり見たいと思います。しかし影の中にあったり強い光に包まれていて、その細部は記憶に残るような形で意識に残りません。見えるようで見えないものは、誰かでもあり誰でもなく、誰でもなく誰でもあるものになっています。

こんな表現があるのだと驚き感動しました。
でも、見たあと直ぐにブレッソンやソールライターのように、こんな写真が撮りたい、真似してみようとはまったく思えませんでした。
それは構図やテクニックで撮れる写真ではなく、陽道さんしか撮れない写真だという気がしました。

とりわけ気に入った一点があり買わせていただきました。オウムのような格好いい写真ではなく、自分の記憶と繋がって惹かれた写真です。
ちなみに『絶対』を訪れた人は、僕と同じように、きっとどれか1枚の中に自分の知っている誰かを思い出しているのではないでしょうか。

誰かであって誰でもないということは、自分の知る誰かとして見ることもできます。その人物ではないことが分かっていても記憶をかき立てられるのがおもしろくその写真に決めました。

ですから敢えて、どこで撮った写真かと聞かずに買いました。
しかし!
写真を頼んだ時に陽道さんがどこで撮った写真か教えて下さいました。言わなくて(書かなくて)良かったのに!(笑)
でもその写真の背景を知っても、それが知っている誰かのように思える気持ちは変わらず、むしろ世界中の誰でもあり得る普遍性が広がったような気がしました。
陽道さん、良かったですね(笑)

この写真は、大切にしまっておくのではなく、ずっと飾っておきたいと思っています。きっとどんなに色褪せても、語りかけてくるものは色落ちません。むしろこの写真のおもしろさが輝いてくるかも知れません。
そんな希有な写真が届くこと、それを壁に掛けて眺められることが、今からとても楽しみです。

陽道さんと筆談していていて、ことばの選び方がとても的確で深い人だと思いました。
それが彼の写真表現にも繋がっているのか、写真ではあえてそうしていないのか、陽道さん初心者の僕には分かりません。もっとたくさん彼の写真を拝見したいと思っています。

陽道さん、『絶対』を訪れて、なぜ写真に撮るのか、そこで見付けたものをどのように伝えるのか、写真の深い部分について考えるきっかけをいただきました。ありがとうございました。


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