見出し画像

華さんの犬

「犬ならいいよ。彼氏は駄目だけど」
 と華さんが言ったその日から、俺は彼女の犬ということになった。

 華さんは実家を飛び出した俺が勤め始めたバイト先の社員で、俺より九つ年上だった。バレリーナみたいなスタイルで、おかっぱの黒髪がよく似合った。ひとめ見ただけで俺は彼女のことが好きになった。華さんの見た目は、俺が生まれてからずっと無意識に探し続けてきた女神そのものだった。でも彼女にとって、俺はそういう相手ではなかったのだ。
 そのことに気付くまで、俺は滑稽なくらいのアピールを彼女に繰り返した。それまでの人生、俺は見た目だけは褒められることが多かったので、華さんもきっと俺の見た目は気に入るだろうとナメてかかっていたのだ。結果、俺の自信はズタボロになり、職場の忘年会でしこたま飲んで「もうクビになっていいや」と思いながら散々荒れた後、気が付いたらなぜか華さんの住む小ぎれいなワンルームにいて、フローリングの床にキスしていた。
 わけがわからんと思いながら顔を上げると、すぐ目の前を部屋着に着替えた華さんが通り過ぎるところだった。月並みだけど石鹸のいい匂いがして、部屋着の裾とスリッパの間で上下する裸足の踵がやけに眩しく見えた。一人掛けのソファに腰かけると、彼女は「ヒロキくん、確かに顔はいいよね。顔は」と言った。そこからの「犬ならいいよ」発言である。俺は耳を疑って、床の上から華さんの顔を見上げた。彼女はターコイズブルーのソファにまるで女王様みたいに座っていたが、おもむろに長い脚を組み替えた。つま先に引っかけていたスリッパが落ちて、赤いペディキュアを塗った足の指が俺のすぐ目の前に来た。
「どうする? 犬ならいいって言ってるんだけど」
 俺はコンマ一秒迷って「犬でお願いします」と答えた。二十歳と九ヵ月の初冬だった。

 その日から俺の生活は何もかも変わってしまった。まず、俺は華さんと同じアパートに住むことになった。バイトは辞めさせられ、「犬なんだから着の身着のままで来なよ」と言われ、俺は「あっ、はい」とバカみたいに返事をしてその通りにした。俺の安アパートにもそれなりに服だの靴だのパソコンだのといった財産はあったが、それらを全部ひっくるめても華さんほどの価値はなく、ついでに携帯も没収されたがそれも些事に過ぎなかった。俺が「よろしくお願いします」と言うと、彼女は「お行儀のいいワンちゃんですね」と笑い、それから「ペット可の物件でよかった」と嘯いた。
 当初、俺は彼女のヒモになったんだろうと思っていた。遅かれ早かれ同棲してる恋人同士みたいな関係になるだろうと踏んでいたのだ。ところが犬になった次の日、俺が甲斐甲斐しくも部屋を掃除して洗濯物をたたみ、夕食の支度まで整えて仕事帰りの華さんを迎えると、彼女はそれらを一瞥した後、まず食事を全部ゴミ箱に捨てた。そして「犬が家事して待ってるわけないでしょ。おばかさん」と詰った。それから思ってもみないような力で俺を蹴り倒した後、ストッキングを履いた足の裏で俺の右手をぐりぐりと踏んだ。俺は自分がとんでもない間違いを犯していたと知った。
 華さんはバッグの中から大型犬用の首輪を取り出すと、俺の首にそれをつけた。ラブラドールレトリバーみたいなシルエットが刻印されたネームプレートには、カタカナで「ヒロキ」とあり、その裏には連絡先として華さんの携帯の電話番号が刻まれていた。ヤバいことになった、と俺は思ったが後の祭りだった。
 その後、蹴り飛ばされた脇腹の痛みとショックとでぼーっとしていると、浴室の方からほかほか湯気をたてた華さんが、ショーツ一枚で髪を拭きながら姿を現し、平然と俺の前を横切ってクローゼットから着替えを出し始めた。思っていたよりバストが大きく、ツンと上を向いていた。俺はギョッとして床の上に起き上がった。あまりに平然とした顔の彼女を、嬉しいというよりはむしろ驚愕に近い気持ちで眺めていると、華さんは俺の視線に気づいたらしくニヤッとした。それからショーツ一枚にバスタオルを肩にかけただけの格好で俺に近づくと、今度は俺の顎を蹴り上げた。脳が揺れた。彼女は「犬のくせに何たててんのよ」と鼻で嗤い、着替えを持って部屋を出て行った。
 次の日から俺は犬らしく、華さんの部屋でほぼ何もせずに過ごした。あらかじめ用意されていた食事をとってしまうと、楽しみのようなものはもう何もなかった。何もしないというのは簡単なようでなかなか難しかった。しかたがないので漫然とテレビを点け、ゴロゴロしながら過ごした。ペットというのは普段からこうやって過ごしているのだろうか、と俺は考えた。犬にせよ猫にせよ鳥にせよウサギにせよ、飼い主がいない時はこんな風に暇を持て余しているものなのだろうか。だとしたらペットもなかなか大変だ。
 その夜、華さんは夜八時過ぎに帰宅した。俺は嬉しくて涙が出そうだった。思わず玄関で彼女に抱き着くと、人混みと微かなタバコの匂いがした。また叱られるかと思ったが、華さんは俺の頭をなでると「あとで散歩にいこうね」と耳元で囁いた。で、俺たちはその後本当に夜の散歩に繰り出した。華さんは軽やかなジャージ姿で、俺は首輪をつけたままだった。夜道に人通りは滅多になかったが、誰かに見咎められるんじゃないかとヒヤヒヤした。

 慣れというのは恐ろしいもので、一ヵ月もすると俺はこの境遇にすっかり馴染んでしまい、犬らしく何もせずに華さんの帰りを待つことができるようになった。
 俺がちゃんと犬らしくしている分には、華さんは悪い飼い主ではなかった。食事を三食きちんと用意し、俺をソファの足元に呼んで時折頭を撫で、清潔な服を着せた。
 裸に剥かれて風呂に入れられ、下着姿の華さんに体を洗われるのは、犬生活において最大級のイベントだった。最初のうちは「何たててんのよ」と叱られて何度か蹴られたが、そのうちにそれもなくなった。華さんは相変わらず俺が生まれてからずっと無意識に探し求めていた女性であり、世界で一番綺麗なことには変わりなかったが、俺の意識が変わってしまったのだ。もはや俺は彼女の恋人になりたいと願う男ではなく、彼女の飼っている犬だった。
 春の昼下がりの夢のような一年が過ぎた。ある晴れた土曜日の朝、ベッドの中で犬らしく添い寝していると、華さんが俺のネームプレートを弄びながら言った。
「私、結婚するから」
 俺はベッドから落ちそうになった。

 てっきり「結婚するから出ていけ」と言われると思ったら、華さんは俺の頭を撫でながら優しくこう言った。
「心配しないで、相手の人もちゃんとわかってるから。ヒロは私の大事な犬だもん」
 耳元で「捨てたりしないよ」と囁くと、彼女は俺をぎゅっと抱きしめた。柔らかい手触りと仄かな体臭に包まれて、俺は安堵のあまり泣きそうになったが困惑もしていた。その相手の人とやらは、俺のことを本当に理解しているのだろうか? 普通の犬だと思ってやしないか?
 俺はすっかり犬の気分になりきっていたので、華さんが結婚するということに対しては、失恋の哀しみも、嫉妬すらも感じなかった。ただただ不安だった。そんな俺の気持ちを置き去りにするかのごとく、彼女の婚約者はその日の夜、突然家にやってきた。
「ヒロ、この人が私の旦那さんになるタキさん」
 タキさんは背が高くて体格がよく、華さんとお似合いの男前だった。「これからよろしくな」と言って、彼はでかい掌で俺の頭を撫でた。それが彼の、初対面でのリアクションのすべてだった。
 あれよあれよという間にふたりは結婚し、華さんは俺を連れて新居に引っ越した。3LDKのメゾネットだった。「ちゃんとペット可の物件を探したんだよ」とタキさんが言った。
 こうして俺は「華さんの犬」から、「華さんとタキさんの犬」になった。タキさんは俺を蹴ったりしなかったが、それはそれまでの華さんの「犬らしくする」教育のたまものかもしれず、しかしまぁそれはそれとして穏やかな性格なのは確かだった。彼もまた悪い飼い主ではなく、特に散歩は俺と走るペースが合うので、俺は華さんよりもタキさんと散歩に行きたがった。
 ふたりは当たり前のように首輪付きの俺を連れて外出し、他人に対して俺を堂々と「うちの犬のヒロキです」と紹介した。相手も当たり前のように、「そうですか」とか「いい犬ですね」などと応じていた。俺が知らないだけで、俺みたいに犬になった奴は世間に結構いるのかもしれないと思った。
 タキさんのことも好きだったが、やっぱり俺の「主人」といえば華さんだった。嗤われても蹴られても、彼女への「好き」はやっぱり特別だった。そもそも俺を犬にしたのは華さんなのだから、特別なのは当然である。たとえば彼女がいなければ、俺とタキさんはただの人間の男同士、それも年齢もタイプも違うから、すれ違うことすら希な他人に過ぎなかっただろう。華さんは俺たち家族の要のような存在だった。

 華さんとタキさんは夫婦なので、もちろんやることはやっていた。華さんの喘ぎ声を聞いていると、俺はふと彼女の恋人になりたかった頃の自分を脳みその端っこで思い出した。ノックもせずに寝室に入ると、二人はベッドの上からちらっとこちらを見たが、そのまま最後までやりきった。俺は黙って見ているのがだんだんアホらしくなり、ベッドルームの隅に置かれた自分の寝床に入って寝た。
 やがて華さんのお腹が大きくなり始めた。やることをやっていた結果として子供ができたのだ。綺麗な字で母子手帳に何やら書き込んでいる彼女の顔は、以前とはまったく違うものに見えた。それでいて、世界一綺麗なことには変わりなかった。
 タキさんは何かにつけて「ヒロはお兄ちゃんになるんだぞ」と言ったが、俺は赤ん坊の兄ではなくあくまで犬なので、「まぁそうっすね」などと言いつつ右から左に聞き流した。とはいえ妙にそわそわした。
 いよいよ華さんが入院し、そして赤ん坊を抱っこして家に戻ってきた。赤ん坊はリンちゃんという名前になり、メゾネットは途端に賑かになった。リンちゃんはよく泣く子だった。何で泣いているかは華さんにもタキさんにも、そしてどうやらリンちゃん自身にもよくわからないらしかった。たぶん彼女は、これまで羊水の中で「自分は魚か何かかな」と思っていたのが、突然人間だったことがわかって混乱しているのだろう。俺も犬になった当初は戸惑うことが多かったから気持ちはわかると思った。リンちゃんが泣いていて、近くに華さんやタキさんがいないとき、俺は彼女の側に座って腹をポンポン叩いてやった。
 バタバタと日々が過ぎた。リンちゃんはいつの間にか首が座ってハイハイするようになり、俺が床に寝転がっていると背中に登ってきて、ちっちゃな手で俺の髪を引っ張ったりした。俺は彼女が危ないところに行ったり、うっかり口にものを入れたりしないように気をつけた。華さんは「ヒロはえらいね」と言って俺の頭を撫でた。タキさんはちょっと高めのカメラを買い、リンちゃんの、華さんの、そして俺の写真を何枚も撮った。

 月日が過ぎて、リンちゃんが保育園の年長さんになった年の、秋のことだった。その日、なかなか帰ってこない華さんたちをゴロゴロしながら待っていると、夜遅くなってようやく顔色を失ったタキさんが、眠っているリンちゃんを抱っこして帰宅した。
 タキさんは俺の目の前にしゃがむと、「ヒロ、ママがな」と言って泣き出した。華さんは駅の長い階段から過って転落したのだった。家に帰ってきたのは彼女の冷たくなった体だけだった。あまりに突然すぎて、あっけなくて、俺にはただ成り行きを見守ることしかできなかった。
 何がなんだかわからないうちに葬式が終わり、世界一綺麗だった華さんは真っ白な骨になって壺に収まった。家中に漂っていた彼女の匂いや気配は、日を追うごとに薄くなっていった。
 華さんがいなくなってから、俺は人間だった頃の自分をよく思い出すようになった。彼女を失うと同時に、犬としてのアイデンティティーをも失いつつあったのだ。俺を犬にした華さんはもうこの世にはおらず、俺を犬にしていた魔法はもう解けてしまった。もはやこの家にとって俺は異物なのだ。
 どこにも行くところはなかったが、出ていくことにした。荷物も何もないから、本当に身一つで行けばいい。俺は首輪を外してリビングのテーブルに置くと、タキさんにお別れを言うことにした。
 タキさんは真面目な顔で俺の話を聞いていたが、突然聞いたこともないようなドスのきいた、腹の底に響くような大声で「この、バカ犬っ」と怒鳴って大きな手で俺の顔を挟んだ。どうするのかと思っていたら、彼は自分の顔を伏せて泣き出した。俺はタキさんのつむじが震えるのを情けない顔で見ていた。喉に言葉が詰まって出てこなかった。父親の大声を聞き付けたらしいリンちゃんが部屋に駆け込んでくると、突っ立っていた俺の脚にしがみついてきた。
 華さんがいなくなってもまだ、俺はこの家の犬だったのだ。そのことを悟った俺はタキさんと一緒に涙をボトボトこぼしながら、俺の命まで本物の犬のように短くなってほしいと願った。次にこの中の誰かが死ぬとしたら、それはタキさんでもリンちゃんでもなく俺でなくてはならないと、そう強く思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?