コーヒー生産地の写真。それ、同意とってますか?

元記事:Consent and Participation: ‘On Photography’ at Coffee’s Origin - Daily Coffee News [Evan Gilman | August 4, 2020]

写真撮影における同意は難しいトピックであり、学術的にも法律的にも深く研究されてきた。

写真撮影はしばしば搾取的なツールとして利用されることも多く、コーヒー業界、特にマーケティングに携わる人々の間では根強い関心を集めている。 人生の大半を写真撮影に費やしてきた者として、私はコーヒー生産地のコミュニティにおける写真撮影への同意、芸術性、倫理に関する問題を考え続けてきた。しかし残念ながら倫理的に言って、これらの問題は必ずしも注目されているわけではない。


写真の個人的な歴史

私にとっての人生最初のカメラは、1992年のクリスマスにもらったプラスチック製のポイント&シュート(注釈:「写ルンです」のようなもの)だった。使い始めてすぐに、人に突然カメラを向けてフラッシュを焚くのが無礼なことなのだと知った。その後、フィルムや現像がそんなに安くはないことを知り、構図は慎重に決めないといけないことを学んだ。
自意識過剰なティーンエイジャーのころになると、人の写真を撮ることは減り、自然や猫の写真を撮ることが増えた。風景やかわいい動物には誰もが共感できるし、写真を撮るために猫から同意をとる必要もなかった。私はまだ若く、写真における同意の問題について未熟ではあったものの、頭のどこかでそういう考えがグルグル回っていたのだと思う。

私はいつも、他人に写真を撮っていいか尋ねることに気まずさを感じていた。写真家側としても被写体にとっても、「一瞬を切り取る」という偶然性が奪われるように思えた。 その後大学で、友人の写真家たちが社会的な状況に割って入り、ためらうことなく「瞬間を隠し撮りする」のを観察して学んだ。重要なのは、彼らはカメラを常に準備していて、周りの人間がその存在を常に認識し受け入れていたことのように思う。(中略)バリスタとして働いてはいたがフィルムと現像のために使えるお金は少なく、当時持っていた安物の中判カメラで決定的な瞬間をフィルムに収めるためには枚数を撮るより構図に集中した方がいいと思った。


デジタルの民主化の問題点

デジタルカメラへの移行には長い時間がかかった。ほとんど画質を落とさないまま 8×10 インチの画像を撮影できる手頃な価格帯の商品が出るまで、デジタル一眼レフを買う気になれなかった。 2007年、ようやくデジタルの世界に足を踏み入れたとき、デジタル写真によって色々な効果や手法の扉が開かれたと感じた。撮影のために集中する必要もなく、ただのんびりと写真を撮ることができるようになったのだ。当時まだ始まったばかりのソーシャルメディアには質の悪いデジタル写真が増殖しはじめ、すぐに誰もが写真家になれるようになり、私の中の不機嫌な年寄りがぶつくさ文句をたれていた。


写真について

再び送ることになった大学生活でスーザン・ソンタグの代表作『写真について』を読み、非常に感化され、バリのガムラン音楽を勉強するためインドネシアに行くことを決意した。ソンタグの文章において重要なテーマの一つは「写真を撮るというのは、世界を収集し、適切にし、歪め、理想化することである」ということだ。確かに写真という媒体は、現実世界との関係を抽象化するという意味で、これらのことに適している。 彼女はまた「写真によって現実の実感や経験の増強を求めるのは美の消費主義であり、今では誰もがその中毒だ 」と書いている。1973年の本、インスタグラムが登場する40年近くも前の文章だ。


コーヒーのマーケティング

写真にまつわる出会いとして、最近もう一つ衝撃を受けたことがある。
あるコーヒーロースターと、マーケティングの材料としてコーヒー生産者の写真を使うことについて話していたときのことだ。私は、彼らの同意なく、時には名前もなく、彼らがそのことに不快感を感じているかいないかもわからないまま彼らの写真を使うことに対する懸念を伝えた。 

このロースターの視点は違っていた。それは「この人たちの写真はコーヒーを売るのに役立つし、それ自体は不適切なものではない」というものだった。

「最近では、写真はセックスやダンスと同じくらい広く娯楽として行われている。他のアートがそうであるように、写真はアートとしてのみ存在するものではない。主には社会的な儀式であり、不安に対する防衛手段であり、権力の道具なのだ。」- スーザン・ソンタグ「写真について」より

同意の問題はさておき、なぜこのような写真が特定の人々を惹きつけるのかを考えてみよう。
なぜ特定の生産者の写真を見ると、コーヒーを購入したくなるのだろう?写真を見るだけで、その生産者との距離が近いと感じるのか?その企業が生産者と親密であることを証明するのか?もっとざっくりと言えば、このような写真を見ることで生産者を身近に感じるのだろうか?私たちは、インスタグラムで高級ホテルの写真を見てそう思うように、これらの写真を見て自分が体験したことのように感じているのだろうか?

これらの写真は、確証バイアス(後述*1)とミーム文化(後述*2)の間に位置している。ロースターや消費者はチェリーの選別が上手な生産者の写真を見ると、細かいところへの気配りや手先の器用さに感心し、幸せな気分になる。 その結果、写真に写っている人が生産したコーヒーを自分たちが買って飲んでいるという考えに着地することがしばしば起こる。

 私は、生産者の同意や証拠文書を伴わない写真の撮影と、撮った写真のコーヒー販売への利用は、本質的には搾取であると考えている。コーヒー生産の現実に関する、一方的、かつ時に誤った物語を証明するためにも同意書は必要だと考えている。

ただし、生産者自身やコミュニティに属している人が、コミュニティの利益のために撮影したものであれば例外だろう。地域の農園や市場を除けば、食品の生産システムにおいて、最終的な製品から生産者の一人をさかのぼって突き止められることはほとんどない。 コーヒーの生産地で撮影した写真は消費者と生産者とのギャップを狭めることができるが、ちゃんと物語を証明できるような写真でなければならない。(注釈:例えば、コーヒーチェリーや収穫中の写真は頻繁に見るが)コーヒーを売るために使われている港やコンテナ船の写真を見ることは滅多にない。


ロット自体、常にではないが様々な段階でブレンドされ、混合されていることが圧倒的に多い。私たちが調達しているロットは、特定の人が生産したもの、または少なくとも特定の人や家族が責任を持って市場に送り出したものだと自信を持って言うことができる。カトラチャ・コーヒー・プロジェクト Catracha Coffee Project はその良い例だ。また、私たちは何年にもわたって彼らを訪ね、丁寧に写真撮影の許可をお願いし、写真の目的を伝えてきた。 しかし、グアテマラの SHB ストックロットが特定の農家から来たものだと主張するのは不誠実で、生産者を明確に区別すべきだとも感じる。グアテマラ SHB の生産における最終段階ーーー脱穀(パーチメントの除去)、包装、輸出を担当する人物はいるかもしれないが、その人々を農家と呼ぶことは厳密には正しくない。しかし、生産者と呼ぶことは可能である。 これは生産者の仕事を最小限に抑えることを目的としたものではなく、信用と同意の問題である。


(*1 :認知心理学や社会心理学における用語。仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。例:ソーシャルメディアにおいてアルゴリズムの使用により、自分とは反対意見のウェブをみる機会が自動的に減っていく為、確証バイアスが増幅される)

(*2 :人類の文化を伝達・複製・進化させる遺伝子以外の遺伝情報。文化の中で人から人へと拡がっていくアイデア・行動・スタイル・慣習など)


続・同意の問題

写真を撮る前に、悪い評判がつく可能性がないと言い切れないがそれでも撮影してよいか、もしくはこの業界において仕事をする人物として認知されてもよいか、被写体に聞く必要があるかもしれない。 私は、そのように見られたくない沢山の優秀なバリスタたちと一緒に仕事をしてきた。私の仲間のバリスタやロースターたちは、コーヒー業界におけるこれらの地位を尊重してはいるが、彼ら自身の目には、アーティストであり、ミュージシャンであり、そして学者として映っている。このような姿勢はどの業界にも当てはまるが、「仕事はその人そのものではない people are not their work」ということを忘れてはいけない。 同様に、写真も人間を単純に映し出すものではない。戦争写真について、ソンタグは現実の描写として写真や映像の撮影を拒否することの重要性について書いたことで有名だ。

「カメラが記録した通りに世界を受け入れることで、世界について知っていると言うことすらできてしまうことを、写真は示している」
「しかし、これは理解とは対極にあるものだ。(中略)理解できるかどうかの可能性はすべて、「ノー」と言えるかどうかにかかわっている」

 私たちが生産地で撮る写真は、たった一つの物語を語っているにすぎない。この物語は、カメラのレンズだけでなく、私たちの経験という名のレンズを通して捉えられるものだし、私たちの周りの世界を私たちが解釈したものの反映でしかない。

生産地での旅では、カメラを置いてその瞬間に参加することで、経験の幅を広げようと試みてきた。すべての瞬間を写真に収める必要はない。私はこのことを、参加型と覗き見型、という観点で考えている。 しかし、これらの概念が相互に排他的ではないとしたら?もし、生産地での写真撮影が「覗き見型で搾取的」なものではなく「参加型で協力的」なものであるとしたら?
この業界の一員として、もし私たちが生産地で撮る写真が被写体との共同作業でないのなら、このようなコミュニティで撮影してもよいのだろうか?


生産地には、私たちが関係を築いていける優秀な写真家も数多くいる。Royal Coffee が今まで扱ってきた生産地の写真の中で最高のものは、これらの地域に住み、コミュニティで仕事をしている写真家からの依頼で受け取った写真だ。彼らを信頼し、このような形で地域経済をサポートしてみるのはどうだろうか?


この記事を書き始めた数か月前、 COVID-19 がやってくることは予想だにしていなかった。BIPOC の友人や家族の経験に耳を傾けることができていなかったし、今でも十分にできているとは言えない。オリジントリップ(生産地への旅行)に影響が出るとは思わず、生産地にいる親しい友人たちが今後数か月の間にここまでマイナスの影響を受けるとも思わなかった。しかし、我々はまだこのパンデミックが私たちの習慣に与える長期的な影響をやっと理解し始めたばかりだ。 今は、コーヒーを通じて、テクノロジーを通じて、そして写真というよくわからないレンズを通して、私たちがどのようにお互いに関係し合っているかを考え、再検討するのに最適な時期かもしれない。

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junko