過剰な空間と過剰な関係をもつこと

 初等教育の1番の課題は子供の過剰性をカットすること。と、いきなり書いたけれどいきなりこう言われてもあれですよね。



 つまらない、退屈だ、というあの途方もない感覚。生きているのか死んでいるのか分からない感覚。目が開いているのか開いていないのか分からない感覚。そういうのを克服するのが過剰な空間と過剰な関係を持つことにある。これは宮台真司のまったり革命とか終わりなき日常を生きろとかの言い換え(パラフレーズ)となる。過剰な空間とは最もイメージしやすいのは贈与が行われる空間である。交換ではなく、贈与。大きな贈与を受ければ受けるほどその過剰さに眩暈を起こす。
 過剰空間/通常空間という対比なんだよなぁ。
過剰空間/通常空間=変性意識状態/通常意識状態。
 過剰な空間とは唯一性によって保たれる。「余人にもっては耐え難い」と言われることの恍惚の感覚である。あなたでなければいけないという唯一性の時空。それに対して通常の空間とは「あなたでなくてもいい」空間である。組織はまさしくそれだ。お前がいなくても組織は回る…そういった取り替え可能性は個人から力を奪う。だから、組織とか社会とかぶっ壊せみたいな短絡的な答えには食いついてはいけない。もっと実践的な知恵が先人によって示されている。それは、過剰な空間と通常な空間を行き来するということ。例えばあなたは父親です。会社勤めです。会社では組織の一部、歯車なので取り替え可能です、「あなたじゃなくてもいい」を潜在的に感じています。そうするとだんだん力を失っていく。だから、家あるいは家族のもとに帰ります。家族は取り替え不可能なメンバーによって構成されています。原理的にはそこで力を補給します。
 社会的なもの/共同体的なもの を行き来することができればなんとかなる。問題はあなた=youとして眼差し合う他者との関係性がないこと。関係が希薄になっていること。

 実数=力を失う通常世界と虚数=眩暈のする過剰世界を織り合わせて過ごす複素数的な在り方。
 同じ希薄さを感じている人と同じ世界で一つになること。

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