*フィクション* 何か 読んであげようか。
__「先に寝るね。」
私は 彼の背中に声をかけた。
23:06 pm
振り返った彼は 口角をちょっとだけあげて 目尻は
ちょっとだけ下げて
「うん おやすみ。」と優しく言った。
いつものとおりだ。
彼の声は いつも優しい。本当は 一緒に眠りにつきたかったから 今の時間まで 頑張って起きていたんだ。
たいして広くもないこのマンションで 彼は小さな部屋で 自分の仕事に集中していた。 邪魔はしたくないけれど ちょっとだけさみしい。だからわざと 先に休むことをアピールしてみたんだ。
私は一人 寝室に向かった。 ひんやりするベッドに 静かに潜り込んで そっと 彼の匂いのする毛布を 鼻まで持ち上げて 深く吸い込んでみた。
0:02 am
眠れない。
ベッドに入ってから もう1時間 私は寝返りをずっとくり返している。ベッドには スマホを持ち込まないようにしている。週末に買ったばかりの単行本が サイドテーブルに ランプと共に置いてあるけれど 今
表紙を開いたら 最後まで一気に読み進めてしまいそうだから 我慢している。
空気清浄機のLEDライトだけが 妙に明るく天井を照らしている。
ベッドに彼は来ていない。
まだ仕事中かな。
全身の神経を研ぎ澄ませ 音も気配も 吸収してみる。
____ 彼の部屋から気配がする ____
体は疲れ切っていて 脚もだるい。頭だってぼーっとしているのに なぜ眠りの底に落ちていかれないんだろう。
___いい大人になって 一人で眠れないなんて。
明日も早いんだ、サッサと寝てしまわなければ 自分が辛いだけなのに。分かっているのに眠れない。
以前も 同じようなことがあった。
二人で暮らし始めた頃 嬉しくて 楽しくて 起きている時間は何の問題もないのに 私は眠れなくなってしまったんだ。彼は横でスヤスヤ寝息を立てていた。
私の不眠など つゆ知らずに。
数週間続いた不眠を隠し通すことができず とうとう体調を崩し 眠れていないことが 彼に知られることになった。
___「どうして 俺に言ってくれないの?」
私は彼を とても かなしませてしまったんだ。
時に我慢することは 何の解決にもならず 何の役にもたたず 誰の為にもならない事を 初めて彼に教えてもらったんだ。
だから今夜は 彼に 今すぐ 助けてもらおう。
___『私 眠れないの』と言って。
彼はすぐに仕事を中断したけれど 全く不機嫌ではないし 全く迷惑ではないという。
『どうして欲しい?』と聞くけれど 私にも分からないから ただ『眠れないの』と言うだけだ。
アルコールが飲めない私は お酒に頼ることもできない。
___ 「なにか 本を 読んであげようか。」___
彼の思いがけない提案に 私は 一瞬で 身体の緊張がとけた気がした。
小さなこどもを寝かしつけるときの様に 彼は私に添い寝をする。 本を読む彼の優しい声に包まれながら 私は眠りにつくのだ。
読んでいるのは 週末に買ったばかりの 推理小説の冒頭部分だ。設定時期は東京オリンピックの頃。登場人物は 女の人と…。だんだん聞こえなくなっていく彼の声。このまま聞いていたいけれど 彼の温もりのおかげで 冷たかった足元が ふんわり温かくなってきた。 眠りに落ちる瞬間は もう すぐそこだ。
『おやすみなさい』は言いたかったな。
目が覚めたら 真っ先に
『おはよう』を…いう…からね……
*フィクション* なにか 読んであげようか。