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残余を観察するといろいろ面白くなる

 1000字ていど、ね。久しぶりなんで。

 ロラン・バルトの写真論『明るい部屋』に、ストゥディウム/プンクトゥムという二項対立が出てくる。
 一応、ストゥディウムは「文化的コードに従った写真受容」であり、プンクトゥムはそれに対し「刺す」もの、「点」など説明される。しかし前後の文脈から切り離してこのように書いてもおそらく何を言っているのかわからないので、僕なりの言葉に要約します。

 ようは「可愛い犬の写真」なら、写真中央に犬がいて、吠えたり人形にじゃれついたり、いかにも可愛く映っている。それがストゥディウムであり、そこが中産階級のリビングといった風情ならそれもストゥディウムである。昼下がりのやわらかな光が部屋を包んでいるとしたら、それもストゥディウムだ。

 ところが、よく見ると部屋の隅にトイレットペーパーの芯らしきものが落ちていたとする。なんだこれは? とあなたは首をかしげる。
 あるいは犬がじゃれている人形にマジックで「寒」という字が書かれていたりする。再びあなたは戸惑う。これは「可愛い犬の写真」ではないのか? いや、少なくとも〝「可愛い犬の写真」を撮ろうとした写真〟ではあるだろう。
 すると今度は、ソファの上にカビで緑色に変色したみかんを見つける。しかも、そのみかんには釘が数本刺さっているではないか。子供が遊んだのか? あなたはだんだん、犬のことよりもそれらの夾雑物の意味が気になってくる。
 こうしたものは、もし撮影者が注意深く「かわいい犬の写真」を撮ろうとしたならば、あらかじめフレームから排除されたであろうものだ。だが何事も完璧にはいかない。『ゲーム・オブ・スローンズ』でもスタバのコーヒーが映っていたりするではないか。

『ゲーム・オブ・スローンズ』スタバ事件の犯人が判明!?エミリア・クラークが語る


 このような、コードに従わない余計なものこそが「プンクトゥム」である。
 つまりプンクトゥムとは、「可愛い犬の写真はこういうものだ」というコード(=取り決め)からすると余計な、無駄な、邪魔なものであり、映っていると撮影者が伝えたいメッセージ(わが家の犬の可愛さ)が不明瞭になってしまう邪魔者、コードに回収されない残余である。

 たとえばさまざまな企業が提供するストックフォトでは、余計なものは慎重に取り除かれ、写真のメッセージはたいへんわかりやすくなっている。
 このことついて、キングストン大学写真学専任講師(当時)のヘンリー・ボンドは次のように指摘している。

 つまりストックフォトにおいては、本来日常性の特徴であるはずのもの――漏れ、傷、汚れ、躊躇、障害など――が排除される。ここで重要なのは、取るに足りない要素(例えばナボコフのサクランボの種子や巻煙草の吸殻)が、それがあると写真の意味が伝わりにくくなるという理由で排除されるという点である。
 (中略)
 写真素材が決まりきったつまらないものでしかないのは、このように望ましくない部分が排除されていて、いかにも意図的で、意外性がないからである。

ヘンリー・ボンド『ラカンの殺人現場案内』p.28


 そういえば、「におわせ」(テーブル上の料理を写した写真などにわざと異性、あるいは異性の存在を暗示するものを少しだけ映り込ませる遊び)というのは、プンクトゥム風のストゥディウムという高度な遊びだったりするわけですね。
 それからあの有名な画像も、プンクトゥム風のストゥディウムといえる。

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 閑話休題。ボンドによれば、こうしたプンクトゥム=コード化されない残余に注目し、丹念に読み解いてゆくことがいわば法科学的(シャーロック・ホームズ的)な手法であり、また精神分析の基本的姿勢でもある、という。
 つまり現場検証においては、犯人が見せかけようとしている表向きのメッセージに惑わされず、取り残された残余が訴えかけるもう一つのメッセージに気付く必要がある。
 また精神分析においては、患者が「これは本筋とは関係がない」とか「とるに足らない細部」として語るのを拒む細部にこそ、核心的事実が秘められていることが多い、とする。

 そのように、探偵あるいは精神分析家になったつもりで、写真や映像のなかの意図せざる「残余」を拾い上げ、これはどういう意味だろう……? と推理してゆくと色々面白いんじゃないか、と思ったのが新年一発目の読書の成果でした。

 それではまたー(・ω・)ノ📸✨



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