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仕事とは挑戦である #1


#私にとってはたらくとは

大学を卒業した時、入社したのは、父のコネだった。何も考えず、勧められた会社に自動的に入った。女子社員は全員コネ入社。大手企業。丸の内のOLだった。

それが普通だと私は思っていた。そして、面接と忘れもしない作文「家族の休日」という題名で1時間ぐらいだったか書かされて内定をもらった。

一緒に受けた人たちは50人ぐらいいたので、全員受かると思ったら(コネだからね)2人だけだった。それ以外にも試験をしたらしく、その年で入社した女子社員は14名だった。同期である。ずっと同期は仲良しになる。

全員コネ入社だった。グループ会社の、○○部長の娘、○○取締役の孫、人事の親戚、などだった。決まりとしては自宅通勤。何かあった時に地方に住んでいたら連絡が取れないからだ。そして、だいたい1時間圏内で通勤できる人。

私は都会に住んでいたので30分でドアツードアで通えた。

乗り換えも無かったので、どんな時でも行けた。電車が全部止まって雪が降っていなければ。ちょっとそれは、損だな、と後から思った。

 とにかく、父が私のために選んだ会社だったのでのんびりした管理職の部だった。電話もあまり鳴らず、ほとんど誰も話さない、人事、総務、秘書、社長室付き、という企画・調整部というところだった。

字が綺麗というだけで、会議の資料を書いたり、コピーしたりする部だった。部の全員が、驚くほど字がうまかった。癖があっても、なくても、印刷したような字が書ける人たち。

わかりますか?当時はワープロあるかないかの時代です。PCなんてない。

バブル真っただ中。携帯もない、黒電話か、途中で多機能電話に変わったぐらい。昭和です。席でタバコを吸って平気な時代。

 朝が強かった私は、まだ誰も来てないときに出社して、新聞を集め、部に関係ありそうな記事に付箋を付けて部長席に置いておく。これが朝の日課。

総務のおじさんととても仲良くなって、新聞来たよ、はーい、なんていう平和な会社だった。

初めの会社はコネだったのですぐに辞めることもできず、5年いて辞めた。

そのころは、もうPCが入ってきていた。

私専用のワープロと、PCがあった。字を書く部、から入力へ。ということで、ここでは、和文タイプ、ワープロ数種類、PCの入力、など暇なときには講習へ行かせてもらい、ばりばり勉強してかなりな腕前になって、辞めた。

なぜ辞めたかと言うと、趣味でやっていたあるものを本気で勉強したかったから。専門学校へ入ろうと思っていたからだ。

そして、親に言われたから就職したのであって、お金には特に困っていなかった。親が何でも出してくれていたから。私が欲しいものを買ってもらい、そんな風にしてずっと生きてきた。お金に困ったことは今思い返しても一度もない。これは、かなり感謝しなくてはいけないのだ、と今になって思う。

値段を見て物を買ったことがない家だった。安いものを探して買ったことがなかった。欲しいものを欲しいだけ、といっても私は本と、趣味の材料、ピアノ、それから友達と遊ぶお金。姉は洋服が好きで買い物が好きだったからかなり使っていただろう。歯並びも悪くて小学校から矯正器具をつけて、綺麗な歯並びにしていた。矯正って、すごく高かったらしい。

私は生まれつき虫歯の無い綺麗な歯並びで歯医者にお世話になったことがない。学生の時に親戚の歯医者でバイトしてたぐらいでしか行ったことがない。

この頃は、取り敢えず職に就いて、綺麗な字を書く人をみて、圧倒され、字の練習とPCの練習に明け暮れていた。とにかく、管理職の事務は暇だった。部員のスケジュール管理と、営業から来た製品の売り上げの集計、会議の資料を作るだけ。のんびりしていた。

これに慣れていたので、うるさいところで仕事するというのがこののち苦痛になっていく。

無事に辞めて専門学校に通いながら、誘われた商社でのアルバイトを始める。長くなるので、つづく。これ、続き物でも良いのかな???

予告:PCの腕を買われて講師になる、です。お楽しみに

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