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上橋菜穂子「香君」感想

上橋さんの作品の大ファンであるがために、7年ぶりの新作が出ていたことに本屋でたまたま気がついた瞬間にはレジで会計が済んでいた。
上橋ワールドは本当にすごい。ファンタジー小説が多いのだが彼女は舞台となる世界を作り出す天才だと思う。
一度本をひらけばその本の世界の景色が一瞬で浮かぶ。
読み初めはその情景の一部しか見えないが、物語が進むにつれてその世界の地図が脳裏に浮かび、登場人物同士のつながりは想像しようとしなくても描き出される。
気がついた時には本の文字など追っておらず、現実での時間の流れなど忘れ、ただ映し出される映像から目が離せなくなる。
この本を読み始めてしまったが最後、私は数日間朝4時ごろまで本を読まねば眠れない病にかかった。
非常に心地よい病状だった。

自然って本当に面白い。山を歩く、畑の中に入る、そうやって地面に顔を近づけるとそこに確かな文明が築かれていることを知る。
私は約2年間、畑仕事を生業にしていたのでそれを体感するタイミングが多々あった。「野菜が育ってないな」と思った時に土に触れると土の香りを嗅ぐと、何だかカビ臭かったりする。
イネ科の雑草が強烈に蔓延っている場所では土の栄養がそれらに独占されているのだろう。アブラナ科は負けてしまう。弱った野菜を虫たちが喜んで食べる。弱っているということは細胞壁が柔らかく、小さな虫たちも細胞を噛み砕きやすいのかもしれない。
土を掘ればまた面白い。ふかふかした土の中は植物の根が海を泳ぐように伸び伸びと張り巡らされている。
反対に固い団粒構造が形成されていないところでは根は細く、土の上の植物体も心なしか土の状態を表すような表情をしている。

そんな自然界を目を凝らしてみなくても、香りで感じることができる、香りを読むことで自然の森羅万象を読み解く存在「香君」がこの舞台の主人公だった。

オアレ稲という物語の世界の根本を支えている穀物があった。
そのイネは独特の生態をしており、一度そのイネを栽培した場所では他の穀物や野菜は育てることができない。また、この稲は収穫した籾を撒いても発芽しないという特徴も持っていた。
しかしオアレ稲は害虫の被害がないと言われており、栽培効率がとても良い上に味が他の穀物と比較して格段に美味しい。一度この稲を食べた者たちはもう戻ることができないと言われるほど可能性に溢れた植物でもあった。
あるときこの無敵の稲に害虫が発生する。駆除の方法を試すも対応が間に合わず世の中はたちまち飢饉に見舞われる。
そんな時に香君とその周りの仲間たちが世の中を救いたい一心に動く。そういう物語。

読み進める中で、「あ、これは今の世界の話でもあるな」と直感的に思った。
今はまだ気づいていない人も多いが、確かに見逃しては大変なことになる害虫に値する存在が発生しているように感じる。
上橋さんは現代に警鐘を鳴らす願いも込めこの物語を生み出したのではないかと思わずにはいられなかった。

現代には交配種(F1種)という一代交配したタネで育った野菜が市場のほとんどを占めている。この種は種をとってそれを播種したとしてもメンデルの法則に従って同じ形質のものは育たない。要するに種を取ることができない。
固定種・在来種と呼ばれるかつて人間が当たり前に育てていた野菜たちがどんどん消えていっている。
これは私たちの生命を支えている食物の多様性の減少でもあり、リスクの肥大でもあると捉えられる。

農薬に抵抗性を持つ害虫の発生が各地で報告されている。
対処として農薬の量を増やす、種類を増やすなどの対応がとられているが根本的な解決にはならず、その害虫たちはまたしても抵抗性を身につける。

遺伝子組み換え技術が進歩している。
害虫が組み換え作物を食べた場合、虫には分解できない毒物により死滅するが、人間が食べた場合は分解酵素を持っているおかげで害がないと言われている作物がある。しかし、これもまた抵抗性を持つ害虫が発生したという。
大学の授業でこの話を習ったときに私は作物学の先生に授業後話しかけに行った。
「先生は遺伝子組み換え作物に賛成なのですか?」
日頃から遺伝子を触り、人間にとって役に立てる技術や作物を開発している先生だった。
「どっちでしょうかね。何とも言えません。」
あの時の気持ちはずっと忘れられない。

読後は物語の世界からしばらく抜け出せなかった。
あのシーンの言い回しが美しかったな〜、もしマーカーをあの時持っていたら引きたかったな〜。
とか、
こんな言葉の応酬ができるようになりたいな〜
とか、
登場人物のそれぞれの気持ちに入りたくもなったりする。
上橋さんの物語の中の人物たちは皆優しい。必ずと言っていいほどそれぞれに譲れない愛を持っている。
しばらく温泉から上がった後のような幸福感を噛み締めていた。
そしてまた上巻を手に取る。
病はしばらく治りそうにない。


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