ゲームと本とそれから漫画
“時間を溶かす”
こんな経験が誰しもあると思う。
ゲームやネットサーフィンをしていて時間を溶かしてしまった時には罪悪感を感じるのに
本を読むだけで1日を終えてしまったとしても不思議と充足感がある。
これが漫画本になると、やや損をしてしまったような後悔に変わる。
“没頭して時間を溶かす”
ということ自体には変わりないのにその媒体が変わるだけで後味が全然違う。
一体何がこの変化を生むのだろう。
今日は考えられる原因がいくつか思い浮かんだので書き残そうと思う。
*それぞれの媒体の中にもいくつもジャンルや細かい種類があり、全く同じものはないけれど今回はまとめてしまいます。
一つはこれまで蓄積してきた価値観の違い
ゲームはやりすぎは良くないですよ
ゲームばっかりしてないで勉強しなさい!
ゲームは社会的に怠惰と評される人々が熱中する娯楽と捉えられてきた。
本を読みましょう
小学校の朝の読書タイムは非常に重要です
本を毎日読んで偉いねえ、賢くなれるよ
本は優等生の飾り物としてその存在を肯定され続け、二宮金次郎の銅像にも必ず添えられてきた。
そうなると、この後味の違いは時間を溶かした後の自己評価と同じ働きをしていることになる。
「ゲームやネットサーフィンをしてしまった自分は社会の中でダメ人間と呼ばれる部類にまた一歩近づいてしまったのだ〜〜」
「今日は一冊の本を読めた!また一つ賢くなったぞ!金次郎への階段を一段登ったのだ!!」
面白い現象だと思う。
自分の感情は今まで蓄積してきた偏見にここまで左右されているのだと捉えることだってできるらしい。
もう一つは惰性と熱中の違いだ
惰性が生み出す後味は感情の起伏が少ないために今日1日をつまらないことに使ってしまったという後悔が生まれやすいのではないか
かたや熱中をしているとその中で気持ちが大きく揺れうごくため1日の密度が濃かったように感じられる。
ただこれだと完全に後味の違いを説明することはできない
ゲームも熱中してするものだし、本はその内容に感情の起伏をコントロールされていると言っても良いくらい受動的なものだから一見ゲームのほうが満足感が高まるような気がする。
最後にそれら媒体自体の特徴を見てみる。
ゲームと本、ついでに漫画。
どれもそれぞれ違った魅力を持っている。
まずゲームは視覚・聴覚・触覚を刺激する。
加えて勝敗、段階的なミッションのクリア、アイテムの獲得など時間をかければかけるほど目に見える褒賞が与えられる。
それが視覚情報としてもセーブされ続け、継続することがゲームの世界での功績を生み続ける。こんなのやめられるわけがない!
本は視覚を刺激するが、文字の羅列を追っている訳ではなくそれを映像変換することで楽しむ。
この一手間に慣れてしまえば抵抗感は生まれないが、本の設定を刷り込む段階では面倒に感じる人が多いのかもしれない。
脳内変換をし続けているからか、読後には脳の皺が増えたような言語化し難い感覚が私には残る。
漫画はこの脳内年間の手間を省いてくれるとても優秀な媒体だ。ストーリーさえ面白ければ多くの人に抵抗なく浸透していく。
各媒体、自分の体が反応する場所がそれぞれ違う。
ゲームは視覚・聴覚・触覚
本は視覚・脳
漫画は視覚
本に熱中することの後味が良いのは、もしかしたらこの脳内変換の過程が脳を活性化していることを本能が理解しており、脳の活性化が人類の生き残り戦略に優位に働いているからなのかもしれない(無理やり結論)。
これらの媒体の特徴についてを踏まえると、先ほどの怠惰と熱中説に補足が生まれる。
“怠惰”を“受動的”と言い換えてみる。
“熱中”を“能動的”に変換してみる。
受動的に進められるゲームや漫画が怠惰と結びつき、文字から映像変換に能動的に脳を使う読書を“熱中”に当てはめることができる。
まあまあ無理やりだけど悪くもないと思う。
結論、ゲームと本と漫画、それぞれの媒体にのめり込み、時間を溶かしてしまった後の後味の違いは
・これまで蓄積してきた固定観念の影響
・人間の本能的な生き残り戦略
どちらもあると思う。
ただ、その固定観念は人類の歴史の中での経験則や本能の蓄積でもある。
ある意味、生き残るために罪悪感・充足感という後味の違いで本能が訴えているのだと今回は結論づけてみたい。
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