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大悲に抱かれて

            講題「大悲に抱かれて」

                             田中 信勝

泣いている人に出会うと「どうしたの?」とついその訳を聞いてみたくなります。

阿弥陀さまは涙の理由を問わずに、私の悲しみに溶け込み、涙の中に宿り、ただお念仏となって私のすべてを抱いてくださる温もりの仏さまです。

人は理屈で生きているのではなく、身の事実で生きています。

次から次に襲いかかる荒波のような現実を目の前に、うろたえ、たじろぎ、為す術を見失い、不安という霧もやの中では、咲き誇る桜も飛び交う鳥たちの声もすべてが灰色です。

最愛の家族の前でさえ隠さねばならない涙と不安はいったい誰が引き受けてくれるでしょうか。

余命を宣告された一人の女性が「まだ死にたくない!」とホスピス病棟の一室で声を上げて泣きじゃくりました。私には返す言葉も寄り添う力もなく、病室には彼女が好きなジャズの音色と空白の時だけが静かに流れるばかりです。

自らの無力感に覆われる私の口からは、ただお念仏が流れ出てくださいました。

すると、どうしたことでしょうか。

いつの間にかベッドに塞ぎ込む彼女の口からも「南無阿弥陀仏・・・」と涙の隙間からお念仏が溢れ出ていたのです。

しばらくの間、二人は赤子のようにお念仏に甘えて抱かれていました。

人は先の見えない不安という迷宮の中で、今まで学んできたはずの知識や理屈などが何の約にも立たないことを思い知らされます。

そこにいるのは、か弱くて人生の悲しみに打ち震え、涙するばかりのとても小さないのちなのです。

しかし、そのいのちに向かい大悲の阿弥陀様は「大丈夫だよ。もうあなたは私の光の中にあるのだから、ただ本願を信じ念仏を申しながら浄土に向かって歩んできなさい」と、私の歩むべき本当に豊かな人生の方向を示してくださっていたのでした。

窓ガラスをたたく春雨の音の中に、あの日の出来事を思い起こす時、

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

という九条武子さまの詩がしみじみと偲ばれてきます。

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