見出し画像

浄土真宗法話「臨終の善悪をば申さず」

題名「臨終の善悪をば申さず ~仏さまのお言葉をまことといただき、お育ていただく~」

講師 小池秀章 龍谷大学非常勤講師

聖人がおられたら

新型コロナウイルス感染症の収束が、なかなか見えない今日この頃です。

多くの方が感染し、多くの方が亡くなられており、不安を感じておられる方も多いのではないでしょうか。

そんな中、もし、親鸞聖人が生きておられたら、今の現実をどのように受け止められるのだろうと、ふと考えました。

親鸞聖人が88歳の時のお手紙が残されています。(註釈版聖典P771)

このお手紙は、現存する親鸞聖人のお手紙の中、年月日が明記されている最後のものです。

次のようなお言葉から始まります。

「なによりも、去年、今年、老若男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ」(何よりも、去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々がなくなったことは、本当に悲しいことです。)

去年(1259年)、今年(1260年)は、全国的な大飢饉と疫病におそわれ、死者が多く出た年です。それに対して親鸞聖人はまずは、「悲しいことです」と受け止めておられます。

しかし、続いて「ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおばしめすべからず候ふ」(けれども、命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、驚かれるようなことではありません)

と生まれたからには必ず死ぬという生死無常のことわりは、すでにお釈迦さまが詳しくお説きになっているから、驚くようなことではない、とあります。

少しびっくりするようなお言葉です、一つ間違えば、突き放したような、とても冷たい言葉のようにも聞こえます。

しかし、この言葉は、決して冷たい言葉などではなく、生まれたからには必ず死ななければならないという事実に立ってこのいのちをどのように生きていくかを問えと言われているのです。そして次の言葉がさらに心に響きます。

生きる方向定まる

「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず」(わたし自身としては、どのような臨終を迎えようともその善し悪しは問題になりません)

親鸞聖人は、どのような死に方をしようと、「死に方の善悪を言わない」というのです。私達は、ついつい死に方に善い悪いを言ってしまいます。

ではなぜ、親鸞聖人は「死に方の善悪を言わない」と言い切れたのでしょう。それを明らかにされているのが、次のお言葉です。

「信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこと愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ」(信心が定まった人は、本願を疑う心がないので正定聚の位に定まっているのです。だからこそ愚かで智慧のないわたしたちであっても尊い臨終を迎えるのです)

信心が定まった人(本願を疑う心がない人)は、正定聚(正しく仏に成ることが定まったなかま)に入るので、尊い臨終を迎えるというのです。

浄土真宗でいう信心とは、私が信じる心ではありません。本願を疑いなく受け入れた状態のことです。もう少しわかりやすく言えば、仏さまのお言葉をまことに受け容れた状態です。仏さまのお言葉をまことと受け容れたわけですから、そのお言葉が私を正しい方向(お浄土というさとりの方向)へと、導いてくださいます。

つまり信心が定まり、仏に成ることが定まったなかまに入るということは、今・ここで、生きる方向が定まるということなのです。

今・ここで、生きる方向が定まった身において、初めて「死に方の善悪を言わない」という境地が開けてくるのです。

お浄土に向かう人生が定まった親鸞聖人にとって、どのような死に方をするかは問題ではなかったのです。

死の縁は無量です。どのような死に方をするかは、縁としか言いようがありません。自分の思い通りに生きることも、自分の思い通りに死ぬこともできないのが私たちなのです。

だからこそ、今、ここで、仏さまのお言葉をまことといただき、仏さまにお育ていただく身にならせていただくことが大切なのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?