マラソン2時間切りプロジェクトに思う

Nikeが12月13日に2時間切りプロジェクトを表明しました。
http://nike.jp/nikebiz/news/other_161213.html

”ナイキは常に打ち破る壁を求めていますが、その中でマラソン2時間切りという挑戦は何度も浮上していました。ランニングへのたゆまない情熱を原動力に、ナイキでは2013年に、この目標を念頭に置いたマラソン用シューズの開発を始めました。これは、2014年の夏にはマラソン2時間切りのための正式な取り組みとなり、Breaking2 チームの発足となりました”

http://www.sub2hrs.com/

その他、といったメンバーによって構成されています。

どちらもマラソンで2時間を切るというのを最大の目的に掲げています。両者に共通している点は、科学的な視点が大きく取り入れられている所でしょう。運動生理学の点からどのようなトレーニングが必要か、どのような食事や摂取タイミングが必要か、レース中の給水はどうしたら良いのか、などといったことを追究しています。走りのフォームの効率化、風の抵抗を受けないためにどのようにペースメーカーを配置するか、その他、記録の向上につながることを徹底的に研究しています。ただ、これらのことがとても特殊なことなのか?と言われると、また微妙であるという話にもなります。運動生理学の話を少々しますと、例えばトレーニング関係の基本的な研究は2000年までには大半が終わっており、大きな進歩が今後も見られるかとなると、それは無いであろう、という具合です。様々な研究がなされて多くの論文や、未発表データが蓄積されています。データAとデータBからすると、Cという結果が期待できるのでは、と考えることが出来ます。論文などにすることが出来ない推測の話ですが、これらを利用していくのがスポーツの世界、現場と呼ばれる所になるかと思います。この辺りで難しいのは、研究者の人たちは明確な根拠がないことは言えない、言わないということです。これらをどう活用するかが日本は出来ていないと思われます。
 さて、陸上競技ではここ10年で大きな記録の変化が起こった種目として100m走があります。


2005年→アサファ・パウエル 9秒77
2007年→アサファ・パウエル 9秒74
2008年→ウサイン・ボルト  9秒72
2008年→ウサイン・ボルト  9秒69(無風、北京オリンピック)
2009年→ウサイン・ボルト  9秒58(ベルリン世界選手権)

1968年にジム・ハインズによって電気計時で10秒の壁が破られてから、1991年の東京世界選手権でカールルイスが9秒86を出して9秒9の壁を破るのに23年を要しましたが、ボルトはその先の記録を一気に塗り替えていきました。この記録の伸びに関しては何が大きく貢献しているのか?トレーニングの内容なのか環境的なものなのか、運動生理学や栄養学などの科学的な発展なのか、はたまた人類の進化なのか。様々な考えがありますが、2014年にスポーツ科学を中心としているライターのDavid EpsteinはTEDでこのようなテーマで話をしています。

アスリート達は本当により速く、強くなっているのだろうか?

https://www.ted.com/talks/david_epstein_are_athletes_really_getting_faster_better_stronger?language=ja

彼は本も出版しておりまして、

「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか」
https://goo.gl/FAvF3G

こちらは2014年に発売されたものが、2016年に文庫版として発売されていますね。さて、TEDでの話の中身を簡単に表現しますと、

人類の進化じゃない。器具の進化だ。

ということになるかと思います。1968年のメキシコオリンピックが初めてタータン舗装のトラックでのオリンピックとなりましたが、普段の練習場所は土が主流だったでしょう。また、スパイクも性能的には今より明らかに劣るものだったと思われます。そんな時代から50年近くが経つ今、人類の身体的な変化が起こっているかと言われると、そのようなことはほとんどありません。スポーツ科学の分野で劇的な新発見があったかとなると、それもありません。日本がその昔にやっていた根性練習と呼ばれるものには合理性があるものも一部にはある、と言えることが分かってきていますし、今の時代の方がトレーニングのやり方が絶対的に良いとは言えません。やっていることが理にかなっているかを証明したのが科学の大きな点だと思います。もちろん、新たな発見もあり、より効果的な練習が提唱されていることもありますが、それが現場と呼ばれる所に導入されているかとなると、いま一つだと感じます。

乳酸は疲労物質ではないですよ、という話
https://tf-ver3.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html

 ランニングフォームなどに関しては、日本が明確に間違った方向に進んだ時代というのはありました。1970年代にマック式ドリルが導入されて、脚を高く上げることが大事とされました(のちに確認した結果、そのような説明はしていない、翻訳のミスだということが指摘されています)。世界と比較して日本がおかしいのでは、ということに1991年の東京世界選手権のデータ解析によって判明しました。この頃に指導や選手を経験した人には間違った理屈を習った人も多いかと思います。接地してから膝を伸ばすのが大事だという話は、今となっては間違いだとバイオメカニクスの解析から判明していますが、この辺の日本の話は世界の話と無関係ですのでここまでにします。そうしたわけで、タイムの向上には

タータン(走路の表面)
スパイク
競技場(風向き)

といったものが大きく関係しているようであり、50年前の人に今の環境で走ってもらったら、どのくらいの記録が出るのか、ひょっとしたらもっと速い記録になるのかも、という具合です。さて、この話が長距離になるとどうなのか?10000mまでは競技場での種目ですので、記録の向上は短距離種目と同じ要素が強くなります。しかし、ロードレースとなると話は変わってくると思われます。ハーフマラソンやフルマラソンといった種目では街中を走りますので、昔と違うのは路面と靴でしょう。

路面と靴??

短距離と同じような要素が占めていますね。さて、これに触れる前にマラソンに必要な能力について少し述べておきます。マラソンには有名な言葉として

30kmの壁

というものが存在します。これは体内に貯蔵されているグリコーゲンの量が減少することによって、突如として力発揮が出来なくなるというものですが、30kmを過ぎたあたりでガクッとペースダウンすることが多いから、このように呼ばれています。さて、このグリコーゲンの量の減少、筋内のグリコーゲンの不足ということが言われていますが、最近の研究では脳内グリコーゲンの減少というものが指摘されています。

スタミナをアップする脳グリコゲンローディング
−脳神経の活動に不可欠なグリコゲンを運動で超回復できる-
http://www.tsukuba.ac.jp/public/press/120131.pdf

いずれにせよ、グリコーゲンが減少すると発揮できる力が小さくなりペースダウンする、ということです。これを防ぐためにはどうしたら良いか?答えとしては脂肪を上手く使う能力を養うというものがあります。持久的な運動を繰り返していくと筋肉の中に脂肪を蓄えるようになります。これはエネルギー源として使える能力が整ってきたから、ということだと思われますが、体脂肪を気にして脂肪を減らし過ぎてしまうと糖質に頼ることになります。そうするとグリコーゲンが不足してしまいレース終盤でのスピードダウンにつながります。体重が軽い方が有利と思っているだけでは、必要なものを見誤っている可能性があります。しかし、フルマラソンでは衝撃を少なくするためにも体重が軽い方が有利という点はあるでしょう。これを解決するには筋肉を増やして負担に耐えられるようにする、ランニングフォームの効率化とシューズや凹凸の少ない走路を選ぶことでの対策となります。試合に挑む人が出来るのはフォームとシューズ、筋肉をしっかりとつける、ですね。筋肉をつけることで衝撃を減らす、相対的な負荷を減らすといったことが出来れば、最後まで脚が持つようになります。筋肉に微細な傷がつくことでスピードダウンや足が攣るといったことにつながると考えられますので(脚が攣る原因というのは複雑な要因があるため、これという一つのことは言えません)。
 さて、この筋肉とエネルギーの問題を解決してくれるプラスαとなるのが、シューズと路面ということになります。路面に関しては行政が弾力性のある路面にしてくれたらスピードコースとなります。無理ですね。陸連の規定では

「道とはアスファルトやコンクリートなどで舗装された所」

となっています。ロンドンマラソンなどのように石畳のコースもありますので、路面が異なるとタイムにも変化が起こるのは当然ですね。ということで、記録を出させるために路面をスピードコースの舗装に変えるのは難しいですね。となると、やはりシューズでプラスの対策をするしかありません。アベベが1960年のローマオリンピックを裸足で走って優勝して以降、裸足で主要な大会に参加して勝った選手はいないかと思いますが、シューズの進化も目覚ましいものがあります。近年の世界記録はadidasのシューズを着用した選手が出していますが、これは日本の選手がよくやっているような特注では無い、市販の商品であることが言われています。このadidasが占めているマラソンの世界記録を出したシューズという地位を狙って2時間切り競争に参戦してきたのがNikeです。遠回りしましたが、本題に戻ってまいりました。

Inside Nike’s Quest for the Impossible: a Two-Hour Marathon
https://www.wired.com/2016/12/nike-two-hour-marathon/

Adidas, Like Nike, Is Working on Sub-2 Hour Marathon Project
http://www.wsj.com/articles/adidas-like-nike-is-working-on-sub-2-hour-marathon-project-1481886001


リオデジャネイロオリンピックの長距離種目で、上位の選手の大半がNikeのシューズを使っていたというのを記憶されている人も多いかと思いますが、やはりトップ選手が使っているというのはマーケティングにおいて大事ということですね。ランニングブームのご時世ですし、どちらが先に2時間切りを達成するかという覇権争いが起こっているようです。さて、そうした中で登場したのがNikeの新しい靴に関する特許の話です。

https://www.google.com/patents/WO2016179265A1?cl=en

この文章の中に登場しているのが

spring plate

という言葉です。文章中にもありますが、走っている時に地面と接地する際に従来の靴ではショック吸収をします。それによって衝撃は減らすことが出来ますが、地面から足と靴を持ち上げるためのエネルギーを自ら作り出す必要があります。ここをシューズの機能を改良することでショックを吸収しつつエネルギーも生み出してロスを減らしてしまおう、というのがNikeの新作シューズの特徴です。これは議論を生んでおりますが、現状の国際陸連のルールでは問題ありません。何故ならば、この辺りを規制しますと義足選手の参入を完全に妨げることになるからです。しかし、この新作シューズによって2時間切りが達成されると、国際陸連は規制を打ち出してくると思われます。それによって義足選手はパラリンピックのみへの参加が確定するでしょう。様々な議論を巻き起こしているこの靴ですが、じゃあそれを使えば誰でも速く走れるのかとなると、それはまた違った話になると思います。それを使いこなすためのトレーニングを積んでいくのが前提になるでしょう。ここ数年、運動生理学的な積み重ねはほぼ終わったので、残るはシューズ開発しか残っていないであろうと言われていましたが、ついにそこも埋められつつあります。これで2時間が切れなかったら、人類の2時間切りは不可能なのかもしれません。ただ、ウサイン・ボルトのように飛びぬけた能力を持つ人が登場すれば、可能性は高まると思います。
 また、Nikeやsub2hrsのプロジェクトは科学者の能力がとても重要になって来ると思われます。この辺りも議論が巻き起こっている点です。科学者が実現したいことなのか、選手や指導者が実現したいことなのか、どれなのか、と。当然ながら、選手のやる気が無いと、このプロジェクトの実現は不可能です。科学者が出来ることと言えば、運動生理学は最新の研究データを組合せ、栄養面や疲労回復など人間の身体を究極まで磨き上げることに貢献するということです。究極の身体を作り上げたら、レース中のエネルギー補給とシューズによる対策程度しか残りません。残念ながら日本では運動生理学や栄養学の分野がまだまだ弱いので、日本から2時間切りプロジェクトが出てくることは無いでしょう。日本記録にすら遠く記録が及んでいない現状では、仕方がないことかもしれません。そんな中でシューズだけ良いものを履いたところで、世界に追いつくことは無いでしょう。世界がやれることを最大限にやり尽くして2時間切りという限界に挑もうとしている今、さらに離されていくことが見えます。もうやることはシューズしかない、そう言える所までトレーニング方法の洗練がなされて欲しいな、と思います。もっと運動生理学を取り入れてトレーニングをしませんか?と話はしていますが、なかなか上手くいっていないのが現状ですね。そう考えると、まだまだ日本のマラソン界は伸びしろがあるとも言えますね。

と、この文章を公開する前に基礎的な運動生理学について書いておこうと思いましたが、順番が前後しましてこちらの文章が先になってしまいました。本年中にアップしようと思いますので、興味があります方はそのうちまた、こちらのnoteをご確認頂ければ。

なお、日本人がマラソンで2時間切れる可能性は?という質問も頂くかと思いますが、その辺りに関しましてはsub2hrsのYannis Pitsiladisが以下の動画(全編英語です)で言っている通り、

無理だという科学的なEvidenceは無い

という答えになるかと思います。

結局のところ、遺伝子的な有利不利があるのではなく、走るのに適性がある人が速くなるトレーニングを適切に積めば最も速くなる可能性がある、というだけという話になります。ケニアやエチオピアの選手には適性がある人が多いが、日本人にも少なからずいるはずです。その才能があるかを見極めるのは難しいですが、才能がある人がやれば可能性はある、となります。どういう人にその可能性が高いのか、というのも話としては出ていますが、その辺は省略させて頂きます。日本人も2時間切りを意識する選手がいないと、世界からおいていかれるだけになってしまいますが、それが加速する可能性は当面あります。科学的なトレーニングをもっと導入していって欲しいところです。なお、この数年間、いろいろとやってみましたが、現場から研究者の人たちが離れていく理由は

お金を払わない、理解しようとしない

この二点に尽きるかと思います。自ら学ぶ時間を短縮するために相談しておいて、金を払わない。言われたことを感覚と違うからといって実践しない。何度も目にした光景でした。経験だけじゃ勝負にならないことを理解して、もっと学んでもらいたいところです...。
(何を言うかではなく誰が言うかなんだな、というのも痛感しました)
もちろん、研究者側が現場が欲しているものを提供できていない、ということもあるかと思います。その辺りはコミュニケーションで解決できるでしょう。ただ、これをやれば絶対に効果がある、というものは無いんだという点を忘れてしまっていて、科学が万能であるように思い込んでいるのも見受けられますので、上手く使うという点を忘れないで頂きたいな、とも思います。

以上、文章が散らかってしまっていますが、Nikeは最後の難関であるシューズ開発と2時間切りプロジェクトに数十億の資金を投入し、本気で2時間切りを狙っている、という話でした。これが実現されたら、マラソンに関してはトレーニングその他の面で何をやるのが必要かがほとんど分かっている強国を相手にしないといけなくなる、そういう危機的状況に日本は陥りかけている、ということです。その他の種目でも太刀打ちできない時代が来る可能性はあります。リレーの銀メダルも、4人の走力が過去最高であったという事実を無視してバトンが上手かったということに目がいってしまうと、他の国がバトン練習も開始したら圧倒されてしまいます。思っているよりも凄いこと、恐ろしいことをやって結果は出されている、そうした事実を知ってより高い取り組みをしてもらいたいな、と思う所です。


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