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『最長片道切符の旅』を旅する day2 困難なバス乗り継ぎをクリアした

【2日目】北見ー池田 9月20日(月)

北見 0716(北海道ちほく高原鉄道)1019 池田

「最長片道切符の旅」取材ノート掲載地図(先生手書き)

困ったことがある。本日の宿泊地が決まっていないのだ。頭痛の種は「厚床」(あっとこ)。響きはいい駅名なのだがここがネックになっている。ボトルネックともクリティカルパスともいう困ったちゃんである。厚床釧路根室の中間にあり旧標津線が出ていたところで、「厚床ー中標津ー標茶」間は廃線跡をバスで辿ることになる。が、このバスの本数が少ないのと中標津での接続がよくない。というのも各々の路線バス会社が根室交通、阿寒バスと違うんですね。ま、解らなくはない。厚床は根室圏だし、中標津からだと釧路に出る方が近いだろう。だが、元は同じ鉄道路線でしょ、といいたい。いいたいが、どうしようもない。

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厚床(「青春18切符」のポスター2000夏)(ホームの椅子は全くそのまま)

かろうじて接続するバスは厚床を早朝0625発。これだと中標津5分待ちで次のバスに接続する。そうするとその先の網走への列車、紋別方面へのバスも接続がよい。ただこの場合、翌日の旧天北線稚内方面へのバス接続がよくない。うーん、四面楚歌だ。始発のバスに乗るためには厚床に泊まらなければならないのだ。

昨晩、北見のホテルからあちこちに電話をして聞きまくったのだが、どうも厚床(及びその周辺)には泊まれるところはないようだ。出てくる前もインターネットでさんざん探したのだが宿泊先は出てこなかった。ホテルのインターネットでもサーチしたけど出てこない。厚床に近い浜中駅前のタクシー会社に電話してみたら親切なおばちゃんが出てきて「根室に泊まってそっからタクシーで行くだね。7千円もあれば行くんでないかい」と。うーん、それもなあと、結局結論出ず。

今夜どこに泊まるかの結論が出ないまま、ホテルサービスの朝食おにぎりを食べ(昨夜の洗濯「スーパーセールスマン」は四個食べた上、お昼用を包んで行った。すごいなあ)、北見発0716「ふるさと銀河鉄道」(北海道ちほく高原鉄道)に乗る。

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朝6時の気温、8度。晴れ。(東京は30度近くあったなあ) 銀河鉄道は旧池北線北見池田間140km、3時間で¥3410である。沿線の玉ねぎ畑は収穫が終わって鉄枠に詰めて黄色、青色のビニールをかぶせてある。現代彫刻みたいだ。峠はようやく黄葉が始まったところだった。

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かつて野付牛(のつけうし)といったこの北見一帯は、北海道としては気候と地味に恵まれたところで、米、小麦、ジャガイモ、甜菜(ビート)その他いろいろできる。特にハッカの生産は有名だ。

五十分ほど走って盆地が尽きると置戸(おけと)に着く。(略)あたりは雑木林で紅葉は美しさを残しているが大木は見当たらない。貯木場で見かけたのは奥から伐り出されたものであろう。

私は宮脇氏ほど植物、木、作物の名前に詳しくない。それは育ってきた素養の差なんだろうか。時代の差なんだろうか。木が好きで娘に木の名前を付けている私だって、木の名前なんてろくに知らない。知らないし見分けもつかない。もっとも先生だって木の名前には苦労しているようだけど。

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私は植物図鑑を持ってくればよかった、と後悔した。来るたびにそう思うのだが、いつも忘れる。北海道を十回も旅行しているのに、いまだにエゾマツとトドマツの区別もつかない。教わってもすぐ忘れてしまうのである。私はどこかの途中下車駅で植物図鑑を買おうと思った。

10時01分、帯広着。五十分ほどあるので、さっそく駅に近い本屋に行った。いくつかの植物図鑑があったので手にとってみたが、草花の絵や生理の図解ばかりが載っていて、木の名前を知るのに都合がよいのはなかった。

途中、電車の中ではっと気がついた。明日の朝の厚床(あっとこ)始発バスにこだわるから話がややこしくなる。今日このままずっと鉄道、バスに乗り継いでいけばどこまで行けるんだろ。早速時刻表をめくる。そうすると、厚床で1時間ほど待つとバス接続があることを発見した。そのまま中標津で乗り換えると釧網(せんもう)本線標茶(しべちゃ)まで行けることが解った。おお、標茶に泊まると翌日の網走紋別稚内方面のバス接続もうまくいくではないか。しかも早朝、釧路湿原まで行って来られるおまけも付く。ユーレカッ、という気分だったね、これは。早速ケータイで標茶駅前の今夜の宿を予約する。

途中、ラリーWカップが開催された陸別(りくべつ)で5分の停車。ここは日本一寒い町としても有名だ。駅の売店でパンと牛乳を買ってホームのベンチでぼーっと食べていたら、突然ピーッと列車が発車。中にいたおばさんが運転手に声をかけてくれて列車を停めてくれた。危なかったあ。

この「ちほく高原鉄道」は車両のシートもいいし、景色はぬるいし、ぼんやり乗っているにはいいんだけど、私のようになつかしさだけで乗りに来るようになると、往年の歌手の「ベスト盤」みたいなもんで、未来はないんじゃないかと思ってしまう。そのせいか、沿線の農作業中のおじいさんや子供達、踏切の夫婦連れが列車に手を振るんだよ。村で鉄道存続運動かなんかやっていて「帽振れ」運動でもやっているのかな。(その後、ちほく高原鉄道は2006年4月、廃線となった)

しかし先生の『最長片道切符の旅』からの約40年は、鉄道路線廃止の半世紀でもあったのだ。それはコンピュータの歴史とも重なってくる。創始期のコンピュータは大型でビルそのものがコンピュータであった。そのため大規模な設備投資、建設費、ランニングコストが必要だった。これはそのまま鉄道にも当てはまる。コンピュータは次第に小型化され「パーソナルコンピュータ」と呼ばれまずはデスクトップ型として普及した。これは鉄道からバス、自家用車の流れと重なる。そして現代、パソコンはブック型となりパッドになり自由に持ち運ぶことができるようになった。またネットワーク化でどこにいても自由に世界中と繋がるようになった。車もまた小型化、安価、そして日本中に張り巡らされた高速道路で自由に往来できるようになった。もはや大型の設備投資を必要する鉄道/メインフレームからマイカー/パソコン/スマホの時代になったのだった。それがこの40年の時代の流れでもあったのだね。

ふと外を見ると親子連れが乗った軽自動車がすーっと我々の列車を追い抜いて行った。

途中、足寄(あしょろ)駅には「足型工房」があった。ここで足型を取って駅前や歩道に敷設してくれるらしい。沿線には「ありがとう自衛隊」の看板が。足寄には自衛隊分屯地がある。畑ではハロウィン用のカボチャが栽培されていた。これも時代か。

1019池田到着。全員帯広行きの上り列車に乗り換えた。釧路行き下り列車は私ともう一人の二人だけだった。帯広行き列車にはきれいで知的な西洋人が乗っていた。まるで「大草原のローラ」のお母さんのような人だった。北の国は外国人も種類が違うようだ、と思った。


【2日目】池田ー標茶 9月20日(月)

【2日目】池田ー標茶 9月20日(月)

池田 1037(根室本線)1257 釧路 1309(根室本線)1442 厚床 1540(旧標津線・根室バス)1640 中標津 1646(旧標津線・阿寒バス)1810 標茶

(JTB時刻表)

1037池田から根室本線下り釧路方面に乗る。ここでもまた古いキハ40で、だいぶなじみが出てきた。列車は三両編成だが浦幌(うらほろ)で一両切り離し、二両となった。

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ここから釧路までの車窓は、変化に富む、という表現がぴったりくる。線路の方も曲線あり直線あり登りあり降りありで、(略)それらの間隔が長からず短からず、車窓風景も自分の出番を心得たように適度に出没して、(略)うまく演出してくれる。

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十弗(とおふつ)の先で初めて鶴を見た。凛々しいものですね。それにしても「十弗」とはしゃれた駅名だな。駅には10ドル札の絵が描いてあった。なるほ ど、10$か。

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上厚内(かみあつない)駅前に小さな小学校があった。廃校か。厚内(あつない)で海に出た。港が見える。船員らしき男が鞄ひとつで降りていった。

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直別(ちょくべつ)で列車すれ違いのため4分停車。トイレと自販機のためホームに出る。小さな駅舎を通り抜ける、と、なんにもなかった。トイレも、自販機も、駅前商店街もなにもない。コスモスだけが咲いていた。

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厚内からは淋しい太平洋に出、直別で湿原の中を行き、音別では左が湿原、右が海となる。とくに音別と白糠の間にある湿原には立ち枯れの大樹が点々とあって日光の戦場ヶ原よりもいいところだが、根室本線はそこを無造作に通り抜けて行く。

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音別(おんべつ)ー白糠(しらぬか)間にはきれいな湿地があった。国道は厚顔にも湿原を真っ直ぐ突き抜けていくが、我が鉄路は湿原を律儀に大きく回って迂回していく。

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釧路(くしろ)着1257。ここでお昼の弁当(「たらば寿し」¥1350)を買い込む。今や駅弁はケータイで事前に特注しておく時代になった、と駅弁売りの広告が言う。

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1978年当時になかったものは何だろう。パソコンはまだ一般的でなかった。私が初めてNEC製パソコンを買ったのは1982年だった。1978年にはCDもなかった。 カセットテープ全盛期である。1978年にはケータイもなかった。自動車携帯電話という煉瓦ほどもある電話機があった。Jリーグも札幌ドームも札幌ファイターズも、なかった。この年までライオンズはクラウンライターライオンズであった。鉄道にはワンマンカーもJRもなかった。日本はまだ国鉄の時代であったのだ。

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1309 釧路根室行き、ここからは「花咲線」という名前になる。ディーゼルは1両編成。ほぼ満席である。前半分が後方後ろ向き、後ろ半分が進行方向向きの2席×2列の席、というややこしい座席配列である。

釧路から二駅目の別保(べっぽ)あたりで丘陵地帯にさしかかる。

1988年、別保と釧路の間に武佐(むさ)が開設したため、別保駅は釧路から三駅目になった。武佐は釧路市内ではあるが小さい無人駅であった。

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牡蠣で有名な厚岸(あっけし)を出て「厚岸湖の北岸から細長い湿原へと分け入って行く」。きれいで大きな湿原であった。40年前も100年前も2000年前も 1万年前も同じ景色だっただろう、と思う。浜中(はまなか)の駅前は通りが一本延びているだけだった。その先、地平線が見えるかというほどの平原地が広がってい た。

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1540 厚床(あっとこ)着。降りたのは風呂敷包み一つのおばあさんと私だけだった。プアンと列車が出ていってしまうと辺りは全くの静寂となった。おばあさんは迎えの軽自動車に乗って行ってしまった。やはり駅前には何もなかった。殺風景な広い道が一本どーんと通っているだけである。やっぱりここでは泊まれなかったなあ。宮脇版ではこの日、根室まで乗り越して翌朝一番の列車で厚床に帰ってきている。が、現代そんな始発列車はない。ここはやはりバスで先に行くしかなかっただろう。

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念のため駅前のバス停で時刻表を確かめる。1時間後の中標津(なかしべつ)行きのバスは確かにある。1時間をここで過ごすことになった。ぶらぶら周辺を散歩していたらすてきなログハウスの喫茶店を見つけたのでここで一休み。近所の人たちでにぎわっていた。おいしいドリップコーヒーを飲んだ。

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1540 厚床発、中標津行きのバスに乗車。他に客はいない。バスは淡々と原野の中のまっすぐな道を走る。

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これから人口密度が日本一すくなく1平方キロあたり十四人という別海町を1時間あまり走る。根釧原野である。しかし、町と呼び原野と名付けるにはふさわしくないところで、最初の駅奥行臼までの11.5キロの間、私は注意して左右を見ていたが、緩い起伏のつづく丘陵に白樺やナラらしい木が茂り、時に湿地帯を行くばかりで人家は一軒も目に入らず、サイロも見えなかった。

それでも途中からぼちぼち高校生が乗ってきた。この辺りは自由乗降区間である。原野の中の牧場入り口でジャージ姿の女子高生が降りていった。降り際に「ありがとうございました」ときちんとお辞儀をしていった。えらいものだ。

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1640 中標津バスステーション到着、接続よく1646標茶(しべちゃ)行きが出る。運転手はきれいな女の人である。バスはいかにもアメリカの田舎に出てきそうなアーリーアメリカンな道を走る。ぐるぐると牧場を回っているようだ。阿寒に夕日が落ちてくる。何にもない原野の道の途中、夕暮れの中を女子学生が一人お辞儀をして降り、すたすたとまっすぐな道を歩いていった。見渡す限り家らしいものはなにも見えなかった。

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西春別(にししゅんべつ)で高校生カップルが飛び乗ってきた。が、どうやら反対方向のバスに乗ってしまったらしい。バスの(きれいな)運転手さんが無線で対向バスに「ちょっと待っててやってね」と声をかけた。高校生は次のバス停で降りて対向のバスを追いかけて走っていった。

1840 真っ暗な標茶(しべちゃ)駅に到着。乗ってきたバスはこれから引き返して海側の標津(しべつ)まで帰るそうだ。着くのは20時半を過ぎるという。ご苦労様です。あんな何にもない真っ暗なところを女の人一人で運転していくのは怖くないだろうか。

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宿は駅前の「池田旅館」。素泊まり4000円。工事の人たちでけっこう一杯である。宿に教えてもらった焼き肉屋に行く。メニューにマトンがあるのが北海道らしい。うまかった。


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