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『最長片道切符の旅』を旅する day4 「都会がイヤになったんだと」

【4日目】興部ー幌延 9月22日(火)

興部(おこっぺ)からバスを乗り継いで名寄へ、そこで先生同様少し寄り道。旧美深線を訪ねる。音威子府(おといねっぷ)からバスで旧天北線を辿り、またオホーツク方面へ。浜頓別(はまとんべつ)から稚内へ。稚内から眼前に大きな利尻富士を見て幌延泊。

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『最長片道切符の旅』取材ノートより(先生手書きの地図)

興部 0605(バス)0735 名寄 0749(宗谷本線)0815 美深 0840(バス)0910 仁宇布 0912 0940 美深 0959(スーパー宗谷2・上り)1018 名寄1049(スーパー宗谷3・下り)1138 音威子府 1145(バス)1543 稚内 1653(スーパー宗谷4・上り)1748 幌延

【4日目】興部ー幌延

興部(おこっぺ)バスターミナルの裏に旧名寄線の客車二両が停めてあった。中を覗いてみるとバイク族が寝袋で寝ていた。ホステルとして再活用しているらしい。

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興部から名寄(なよろ)まで始発バス。喪服で乗ってきたおじいさん「昨日乗ったバスで「バスの日」のタオルくれたべ。はぁ時代は変わったもんだ」。札幌から友人の葬式に来たそうだ。「牛飼いがイヤで夜そっと家抜け出して汽車に乗ったんだ」「50年ぶりに帰って来た」「今年はファイターズ、三位決定だな」

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ファイターズは同年ようやく3位に入りA級入りを果たす。この当時ファイターズの本拠地は後楽園球場(東京ドームの前身)で、札幌に移転するのは2004年からである。先生も野球がお好きで熱心なスワローズファンだった。1978年当時、ヤクルトスワローズは好調で球団初めての日本シリーズ優勝を飾った。

天北峠はトンネルを掘るほどの険しい峠ではないので、いちばん上まで登りつめねばならない。ようやく登りきって平坦になり、ディーゼルカーのエンジンがほっと吐息をつくように響きを低めると、線路はするりと背を越えて手塩国の下りにかかる。

林の中に残された旧名寄線の鉄橋が見える。意味の無い跨線橋も取り残されている。まるでトマソンのようだ。天北峠を越えるとバスは通学の学生で満員になった。

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先生の旅は乗り換え時間を利用して、名寄から深名線美深から美幸線と寄り道をしながら音威子府浜頓別稚内と北上していく。現代の私の場合でも音威子府(おといねっぷ)からの接続バスが1145までない。そこで先生も立ち寄った旧美幸線に乗り、それでも時間があるので美深から士別まで特急で戻り、そこから帰ってくるプランを立てた。特急乗り放題「北海道フリー切符」のおかげである。

二年前の六月に来たときは美深の駅前に「日本一の赤字線美幸線に乗って秘境松山湿原へ行こう 美深町」と大書した塔がたっていたが、いまはなくなっている。

美深から仁宇布(にうぶ)へバスで旧美幸線を辿る。駅の待合室で朝ドラのヒロインが結婚するのを見て目頭をぬぐっているおじさんがバスの運転手だった。「今年は台風で(落葉樹の)黄色が落ちちまって全く黄葉しね」「この辺りは赤がなくて黄色ばっかしだ」「ここで白樺のジュースを作ってるだけどもうまくね」。試しに「森の雫」290円を買ってみたら味はタダの水でやっぱりおいしくなかった。

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美幸線の終点、仁宇布には「トロッコ王国」という美幸線の線路をそのまま使ったバタバタうるさいトロッコがある。乗っているのは「鉄」の若者だけだった。そのまま乗ってきたバスで美深に帰る。

仁宇布には山村留学の学校があるそうだ。「学校に行きたくね子を預かってるんだ。去年は7人来たが今年は2人だ」「今、小中学併せて8人いる。先生は7人。寒冷地手当が出るんで給料が高いからな」「10月に東京から親子4人が仁宇布に移ってくるって。都会がいやになったんだと」

時間があるので、逆方向になるんだけれども美深から一端上りの特急で旭川方面、士別まで行って帰ってくる予定だ。が、途中駅の名寄のホームで駅そばを発見。飛び降りてそばを食べる。当初、士別から乗る予定だった下り特急に名寄から乗り音威子府(おといねっぷ)へ。音威子府駅前は閑散としていて何にも無く、名寄で食べておいてよかった。

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音威子府から浜頓別経由稚内行きのバスに乗る。バス路線は旧天北線を忠実に辿る。音威子府駅前から宗谷線をまたぐと左からすーっと土手が寄り添ってきて道路と並行に走り始める。天北線の跡である。橋、トンネルの跡が見分けられる。

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中頓別(なかとんべつ)までは老人たち。みんな友達。中頓別からは高校生。みんな友達。途中の町のバス停が立派だ。どの町も町の真ん中にバスステーションと広い公園を持っている。これらはみな鉄道の駅や操車場だったところだ。鉄道死して公園を残す、ということだ。

バスの中で「数独」を制作しているおじいさんがいた。「数独」もメジャーになったもんだ。

バスは、小・上・中・下・浜 五つの頓別を忠実に辿る。浜頓別を出てクッチャロ湖を通る。鬼士別バスターミナルで5分間のトイレ休憩。ここで旧天北線の記念品を売っていた。どんよりと曇ってきた。

バスは宗谷岬へは行かず内陸の西へと進路を取る。沼川で前方に雄大な利尻山が見えた。

南稚内、通過。駅前に「一晩中忙しいホテル」(先生談)発見。ここかあ。

自分の家で寝ているつもりで眼を覚ます。次の瞬間、旅先の宿にいるのだと気づく。(略) まだ午前1時過ぎだ。廊下に人の気配がする。エレベーターの唸りが聞こえる。ドアを開けて覗くと、エレベーターの前に二人連れが立っている。一瞬こちらを見たがすぐ目をそらしてエレベーターのランプに眼をやっている。(略) 1時間半ほど起きていたが、その間に二組引き揚げたようであった。

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バスはようやく終点稚内に到着した。いや、長かった。ケツが痛い。先生はここ稚内から引き返して南稚内に宿泊したが、私の旅はまだ続く。(写真は冬季12月に稚内へ行ったときのもの)

稚内のプラットホームはわずか一面しかなく、木組の屋根を支える柱に「函館から682粁」とある。正面には原木の形を生かした厚板がはめこまれ、白いペンキで「日本最北端稚内驛」と書かれていた。

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お約束の「最北端驛」の看板を写真に撮り、荷物をコインロッカーに預けて昔、樺太行きの港だった北防波堤を見に行った。

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稚内から上り特急スーパー宗谷で幌延へ。明日は旧羽幌線跡の始発バスに乗るためにどうしても今日中に幌延に行かねばならないのだ。この列車では大事なイベントがある。そのために列車の右側窓際に席を取る。

七、八分登ると利尻富士の全景が見られる地点がある。ほんのわずかな間なので、そのつもりで待機していないと見損なう。旭川からのキロ数を示す「251」の距離標を過ぎたところで高い崖の上に出た。利尻富士。広げた裾がそのまま海面に没する姿は毅然としていて一種の神々しささえあった。

息を凝らして窓の外を見る。一瞬、標識「251km」が見えた。あせって写真を撮るがフラッシュが光って何にも写らなかった。しかし雄大な利尻富士はしっかり見えた。美しい山だ。美しい島というべきだろうか。

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幌延(ほろのべ)駅前の居酒屋の二階に宿を取る。イングランドのパブの二階の宿のようではないか。夕食は居酒屋でいただく。「4千円のトナカイ丼ってどんなもん?」「ま、鹿肉だね」。ホッケ丼定食900円を食べる。イカの塩辛が抜群にうまかった。居酒屋は、役所のサークル、近所の子ども連れ、同窓生、ラップ風の兄ちゃんたちで賑やかだ。

ラップ兄ちゃんが帽子を脱いで店のばあちゃんに見せる。「おばちゃん、オレ髪切ったんよ」「おお、心も入れ替えにゃねえ」

*この日から写真がない。写真は撮っているはずだがどこを探しても見当たらない。出てきたら再掲載します。(一部、2014年12月冬季稚内旅行の写真を使っています)


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