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逃げない人を逃がすには

本記事は2006年~2018年に土木学会誌・土木学会HPで連載していた「行動する技術者たち」を、note上で再構成したものです。記事中の用語・所属先等は取材当時のものです。

行動する技術者たち取材班
中島敬介 NAKAJIMA Keisuke
日本技術開発(株) 都市・マネジメント事業部
(前・国土技術総合研究所 交流研究員)

群馬大学大学院教授 片田敏孝氏

「脅しの防災教育」ではなく「理解の防災教育」の推進普及に尽力。災害発生時に情報が提供されても「逃げない住民」。彼らの心に寄り添い、評価尺度を理解した上で、行動変容を導く活動に取り組む。

「逃げない住民」

近年各地で頻発している地震や水害。発生が確実視されている大規模地震。その他にも津波や土砂災害。
災害への対策がハード・ソフトの両面から進められている一方で、災害の情報が与えられても逃げない住民が毎回のように報じられます。また、災害情報は確実な情報ではなく、世間では空振りを繰り返すオオカミ少年のようにも思われており、一度でも外れると、次から『逃げる』という行動をとる人が少なくなっていくのが実態です。
明らかなリスクに対し、正常化の偏見などから『逃げない住民』をどう逃がすか-災害の危険地域でその問題に取り組んでいる技術者の一人が、今回紹介する群馬大学大学院の片田敏孝氏です。

1枚の紙切れで

片田氏はもともと、産業連関分析などを専門とする土木計画の技術者でした。片田氏が防災の分野に足を踏み入れるきっかけとなったのは約10年前。洪水ハザードマップの導入に向け検討が始まったころでした。
「地図1 枚で災害の被害が軽減できるならその費用対効果は大きいに違いない」と感じた片田氏は、その効果を把握するため、配布前後の意識の変化を計量しようと福島県郡山市において事前調査を行いました。
そしてハザードマップが配布され、事後調査に取りかかろうとした1998(平成10)年8月、郡山市を大きな水害が襲いました。実際に災害が起こってしまい、比較のための事後調査ができなくなった片田氏は、当初の予定を変え、実際にハザードマップがどのように使われたのかという調査に取り組むことにし、まずアンケートの調査票作成のための事前調査として被災直後の現地に入りました。

そこで片田氏が目にしたものは、泥によって一面単色となったまちの姿、被災の悲しみにふける間もなく原状の復旧に取り組んでいる被災者の姿でした。それが防災の道に深く入り込んでいくきっかけとなりました。

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「災害過保護」

片田氏は郡山水害の後、災害の被害を低減するため、防災情報に関する研究に取り組んでいきました。日々の研究の積み重ねによる改良でハザードマップの提供できる情報の精度は高まってきましたが、それに反するように、伝えるべきリスクが正しく住民に伝わらず、ハザードマップがセーフティマップと受け取られたり、避難情報が提供されても災害が起きるたびに『逃げない住民』が存在します。
行政や防災施設に過度に依存心をもち、自らの安全も判断も他者に委ねてしまっている「災害過保護」とも言える状況で、どうやって自ら行動を起こしてもらうのか。片田氏はこの問題に取り組むようになっていきました。

逃げない人の心に寄り添う

片田氏は、水害・津波・土砂災害といったさまざまな災害の被災地や災害常襲地域の「現場」に身を置き、そこで、多くの住民と膝をつき合わせながら活動しています。
『逃げない住民』は、専門家の評価尺度では「防災意識の低い住民」となりますが、よくよく話を聞いてみると、その中にも彼らなりの合理的な判断が働いていることがあります。
避難勧告が出ても逃げないお婆さんがいました。行動だけを見れば、お婆さんは『逃げない住民』であり、専門家の尺度では良くない行動をしていたことになります。しかし、お婆さんは「苦労して爺さんと建てた家だけが流されて自分は助かっても、その後の人生を考えたらとてもつらい。だから家が流されるなら自分も一緒に流される」と、自分の尺度ではベストな選択をしていたのです。
そうした評価尺度のギャップを埋め、どうやって『逃げる』という行為を導き出すのか。
「専門家の尺度で住民を評価するのではなく、彼らに寄り添い、それを理解したうえで、彼らの尺度から再び『逃げる』という選択を導き出す。そのためには相手の心の内面に寄り添わなければならない」と片田氏は語ります。

気づきのきっかけを

また、災害危険地域に住んでいる人たちは「災害に備えなくてはならない」、「海辺では地震が起きたらすぐ逃げる」といったことは知っていますが、実際には行動していないことが多々あります。知っている、わかっているけど行動していない、という態度をどう変えていくのか。
片田氏は「それには『脅しの防災教育』ではなく『理解の防災教育』が必要だ」と語ります。

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直接的に「災害時は危険だからこのようにしなければならない」とは言わずに、他の地域での事例を引き合いに出して『逃げなかった住民』は、避難するという意思決定をしたわけでもなく、避難しないという決定をしたわけでもなく、決定をしないまま時を過ごしてしまっただけではないかというようなことを、さまざまな分析や事例、例示を含めて説明していくと、聞いている人たちはだんだんと、それは自分たちも同じことだと気づき始めます。
そのときに、改めて問いかけます。「一番危ないのは災害じゃない。施設が欲しい、情報が欲しいと、委ねてしまう姿勢が一番危ないんだ」と。

社会の一員としての姿勢を

こうした取組みを片田氏は、「住民の心をとらえながら『逃げる』という行動を導くためのコミュニケーションプロセスの研究であり、社会技術の開発だ」と言います。
『逃げろ』という情報に対し、「逃げなくてもよかった」、「今度も逃げなくてよかった」…この繰り返しでは最後の1 回が「逃げておけばよかった」となります。この最後の1 回をどう回避するか。逃げるか、逃げないかは、人が自らリスクにどう向かい合うのかという心の問題で、これを解決しなければ、ハードで守りきれない部分の被害を回避することはできません。
マイケル・ギボンズの提唱する『モード論』。専門家による学問領域の発展に価値を求める『モード1』。それに対し『モード2』とは、社会に存在する問題に対し、さまざまな領域の知識を集め、さまざまな人の参画で解決します。
「いま社会から求められているのは、災害の被害という具体の問題に、さまざまな分野のさまざまな知恵を集約し、どうやって具体的に解決するのかということで、それが実学領域にある土木への社会の期待であり、また土木の役割だと思います」。こう語る片田氏の行動は、まさに『モード2』の取組みと言えるのではないでしょうか

初出:土木学会誌vol.92 no.6 June 2007
参考文献:
1)Docon Report Vol.175 2006年9月
2)マイケル・ギボンズ:現代社会と知の創造―モード論とは何か、丸善、1997. 8

改めて読み返して
東日本大震災や各地で頻発する豪雨災害など、この十数年の間に発生した激甚災害の経験や知見から、さまざまな技術が開発され、リアルタイムに詳細な情報や予報を手元のスマホ一つで入手できるようになりました。ハザードマップという言葉も一般に認知され、危機が高まったときの行政や報道による情報の伝え方も関係者の尽力で日々改善が図られ、以前と比べれば格段に向上しています。
しかし、向上したことが逆に、リスク情報が「ここまでなら大丈夫」という安心情報に置き換わってしまうという問題は、当時も今もあまり変わっていないように感じます。「一番危ないのは災害じゃない。施設が欲しい、情報が欲しいと、委ねてしまう姿勢が一番危ないんだ」という片田氏の言葉が、改めて重く響きました。ハード的な整備も進めつつ、ハードで守り切れない被害を回避するための「避難」という行動をどうやって取ってもらうようにするか、これからも多くの人と力を合わせ、「土木」が、「土木技術者」が、取り組んでいく課題と感じました。


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