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これからの教育は指導ではなく支援?

こんにちは。スクールコーチの「ケンさん」です。

近年コーチングが教育現場において注目されていますが、私が学校教育現場にいたころはコーチングはありませんでした。(退職したのが2011年ですのでその時まで、という条件付きですが。)とにかくコーチングという言葉すら教育界には存在していなかった、と言っても過言ではありませんでした。

私があるきっかけでコーチングを学び始めたときに、今にして思えば「期は熟していた」のかな、と思える動きが学校教育界に起こり始めていました。それは「指導から支援へ」という新しい理念です。

学校教育においてコーチングが注目されるようになった背景は、この考え方の変化に密接に関わっています。そこで本日は、学校教育現場におけるこの理念の変遷をお伝えいたします。


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上から目線な「指導」に批判

教育界でよく使われる「指導」という言葉は「教え導く」ということですが、誰かそれを批判したんでしょうね。イメージ的に教師が上から下を眺める、下のものを引き上げる、という感じ、今でいう「上から目線」的な感じだからでしょうか。

あるいはやる気がある無いに関わらず強引に教師の示す目標へ追い立てる的な感じ、そういう雰囲気、そういうムード・・・といったイメージが「指導」についてまわると、ある「偉い先生」が批判したのかも知れません。

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指導から支援する教育へ

その後、どうなったのでしょうか。それは「これからは指導ではなく支援だ」の大合唱です。「こどもの側にたって、一人一人のこどもの個性にあわせて、こどものやる気を起こすように、こどもの気持ちによりそって、こどもの力を信じて・・・」と。

そして、子どもが自主的・主体的に学べるように「支援する」のであって「指導ではないのだ」と。私のいた学校(市・県)ではうかつに「指導」という言葉を使うと「古い」とか「こどもの側にたっていない」とかとかの様々な理由で注意されてしまう、といったところまで突っ走ったように思います。

「学習指導案」は「学習支援案」に、「特別指導」は「特別支援」にといった具合に、どんどん「指導から支援へ」と変わったのです。


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行き過ぎた「支援」が見直されるように

日本の教育界は得てしてどっと右から左へ、左から右へと突っ走ることがあります。ジェンダー(男女差別を無くす)が吹き荒れた時には、とうとう運動会の徒競走まで男女一緒に競争させる、なんてところまで行ってしまい、男子ばっかり入賞し、なんてことになってようやく気づくことになるなど。

社会的な性差と生物学的な性差と、発達的な性差と、さらにもっと言えば性差によるお互いの人格形成の効果・・・と考慮しなければならない条件があるのですが、そのまっただ中でそんな発言をしようものなら「古い」と一喝されてしまうのです。

と、もっとこの辺りの話はいくらでもあるのですが、「指導と支援」の問題に戻りますね。最近になってようやく「支援」の大合唱の行き過ぎに気づくようになり、学校教育には「指導も支援も双方の考え方が大事」と落ち着いてきているように思います。


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「指導から支援」ではなく「指導プラス支援」

先程「期は熟していた」とお伝えしましたが、「これまでの指導という考え方」だけでは現代の子どもたち、その当時の子どもたちの教育には限界が見えてきたのです。

学習遅延児、環境不適応を起こす子ども、友達と合わせられない子ども、学力差の拡大、引きこもり、不登校、発達障害、保護者の介入など、現実に学校教育界には「指導」の仕方を研究するだけでは解決できない問題が次々と出てきました。正しくは「これまでの指導という考え方」の限界だと私は思っています。そこで登場したのが「支援」という考え方です。

私は、「指導から支援」ではなく「指導プラス支援」によって、新たな「指導」という考え方の拡張・創造が大切だと考えています。本来の「指導」とは「支援」という考え方をしっかり含んだものだったのではないのでしょうか。

長くなってしまうので、本日はここまでにします。次回、続きを当時教師だった私の葛藤を含めてお伝えいたしますね!

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