日本学術会議の6人の任命がされないという危機 #25

こんばんわ。顧問の高松です。さて、この日本学術会議の問題。高校の社会科の教科書のつまらない文章を読まされている生徒のことを考えてみてください。日本では教科書は検定をうける。本当はもっと面白い内容があるはず。しかし内容も表現も自由にはならない。その結果、教室に届くのは、最大限の自由を「制限」された表現の教科書であって、漂白された用語の塊でしかない。社会の構造はここからは見えてこない。家永三郎教科書裁判で争ったのはその自由のあい路をひらくこと。では自由にすると誰が困るのか。それは既得権益であったり、国家体制を維持したいある一定の階層。民主主義というのは、機能であって制度ではないです。その一方、「主体的で対話的で深い学び」ということを学習指導要領でいいます。ここに矛盾と欺瞞をみます。あ、自由にすると一番こまるのは、ひょとして、学問してない教師かもしれないです。

この矛盾に関心をもてば、教師自身が授業改善と改革をする。しかし、現実は部活動や委員会で時間が取れず、教科書に依存することになる。入試もしかり。生徒はこれで自分の力で学ぶことができるんだろうか?教師自身がすでに官僚化しているからか授業改革が進まない。生徒は内職という作戦に出るかもしれず、授業は意味がない。

つまり、教科書は大幅に改定し、アクティブに学べる工夫をして当然なのに、刺身のつま程度にしかイノベーションされない。いっそ民間の自由な方法でやったほうが学びが向上する。つまり、公教育は官僚統制されて、限定された自由で考え探求しても、それはどこかで限界をもっていることになる。そもそも教科書の選択権をもたない教師は、専門職ではない。これでは教室が窒息するのはあたりまえ。学校は学びを邪魔しているとすらいえる。

今回の日本学術会議の人事への政治的介入は、研究レベルへ素人が文句を言っていることになる。政治のしもべに学問を利用する。戦前の学問の閉鎖性と無責任を再現することになる。それは教科書を通じて教室の授業に反映する。すでに「特別の教科 道徳」はいったいどのような授業になっているのだろうか?

持続可能な質の高い授業に必要なのは、生徒と教師と卓越した課題による対話。それが欠落しているというのは大方の見解だといえる。今回の学術会議への政治の介入は、教育する教室という空間への政治の介入でもある。間接的な検閲にちかい。だから、教師も生徒も声を上げなくてはならない。想像力とはそういうものである。すくなくとも妄想ではない。


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