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愛ってなんだろうという話

たまたま友人のnoteを覗いていたら、愛ってなんだろうって悶々としていたので。ぼくも乗っかって考えてみます。

…と書いてみたところで。ぼくだってわからないですそんなの。

とりあえず今はっきりしていることは、ぼくは愛を真正面から受け取れた試しがない、ということ。愛は提供されたのかもしれないけど、それはぼくにとって必ずしも幸せなことではなかったのです。

まあ母親のことですね。

あの人はいつも「男の子らしくしなさい。それがお前のためだ。」と言う。そのアドバイスが愛だと、そう言い放つわけです。

まあ今となっては言い分は分かりますよ。男の子は男の子と仲良くなって、男の子として普通の人間関係を築いて、そうやって人生を歩んでいくことが、母親の考える「息子の幸せ」だったんだろうと。だから、その「息子の幸せ」を提供させるために、親が子を教育するのは愛だったんでしょう。母親の中では。

でもぼくは、Xジェンダーだし。男の子らしいってなんなのか、よくわからなかったし、しかもそれは無理を強いられるものだった。男の子に混じってサッカーをするとか、戦隊モノを見るとか、言葉使いとか服装とか。そういう母親の「愛」は負担でしかなかったんです。

やりたくないことを、笑顔でやるように強要される。しかも嫌がったら「お前のためにやって"あげている"ことなんだぞ!」って怒鳴られちゃうわけです。幼くて世間知らずの子供だったぼくには、親にそう言われてしまうと、すべての責任はぼくにあると、そう思わされてしまったわけです。親の愛を理解できない親不孝な子供だとばかり、自分を責めた記憶があります。

だから、長い間ぼくは、愛というものによいイメージを持てなかったんです。愛というものを他人から受けたら、ぼくからは自由が奪われて、自分の好かないことをさせられ続けるのだと。幼い頃からずーーっと、そういう認識でした。愛は負担です。

逆に、ぼくが誰かを愛することもありませんでした。というか意図的に避けていました。愛される方の身にもなれって、ぼくに愛されても相手は幸せじゃないぞって。そんなの鬱陶しいだけなんだから。ぼくに愛されたら相手は不幸になるだろうって考えてしまうんです。未だにそう思い続けてます。特に反証もないので。

友達もできなくなります。ぼくに積極的に関わられたら不愉快だろうなって想像してしまうので。なんでお前となんか、、って相手は思うでしょう。だから自分から話しかけることもできないし、相手から関わりを求められたら避けようとするし、ぼくから友達をお出かけに誘うこともできません。愛というと大げさだけど、でも友人関係もきっと相手にとっては負担だろうから。


でも、高校の三年間で、愛というものの快楽を認識するようになってしまいました。愛し愛され幸せに生きている、ぼくとは遠い世界を生きているはずの友人が目に入ってしまう。ぼくにはそんな経験なんて一度もないけれど。でもそれは、傍目で見ても本当に幸せそうだった。いやでも理解させられました。

うらやましかった。ただただ、うらやましかったです。

きっとぼくには一生できない経験。でも、ほかのみんなは経験できるわけです。人から愛されて必要とされるって幸せなことなんですよ、きっと。知らんけど。

結局、ぼくの愛の認識はゆがんでしまいました。一般的には愛と幸福はつながっているのでしょう。だから恋愛がリア充と表現されたりするんです。見ていても幸せそうでした。頭では分かっている。

でもぼくが絡むと「特例的」に、愛は不幸とつながるわけです。ぼくの愛は誰かの負担、という洗脳がずっと解けないままで引きずっているんだと思います。

どんなに素晴らしい関係を築けたとしても、でもふと、相手は実はいやいや付き合ってくれているだけの関係かもしれないと、不安がよぎるわけです。だからぼくに恋愛はむり。愛も実感できないままです。

一人孤独に死んでいくのが関の山でしょう。なんの罰ゲームなの?この人生。

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