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あの朝ピンクの女の子と

久しぶりに手にしたバッグから懐かしいものが出てきた。3年は使っていなかっただろうか。A4書類が余裕で入るサイズなのに上品な雰囲気のするショルダーバッグ。艶のあるオレンジブラウンがお気に入りで、毎日のように持ち歩いていた。

数年前に作ったデータが紛れていないか、という同僚からの連絡にUSBスティックを探していた。あるはずがないと思いながら背面のポケットに手を入れる。目当ての固さには行き着かず、代わりにふわふわしたものが指に触れた。あやとりだ。

赤、青、黄の毛糸で作った輪っかを引っ張り出して、赤を選んで指にかけた。


*


マスクなしでためらわずに人との距離を詰められたころのこと。あの朝も混んでいた。

普段、電車では座らない。理由は2つ。寝過ごさないようにするためと、運動不足気味の体を少しでもシャキッと保っておくためだ(効果は不明)。だから目の前の席が空いたときは体をちょっとそらして隣の人に座ってもらう。でもその日、その席にだけは私が座らなくてはいけないような気がした。


髪をひとつに結んでベビースリングを抱えるお母さんと、横にぴったりくっついて座る小さな女の子。幼稚園の年少くらいだろうか。時折顔を上げて不安そうに車内をのぞき見ている。空いたのはその子の右隣で、私はシートを揺らさないようにそっと腰を下ろした。

「ねえママ、あとどのくらい?なんことまったらおりるの?」

「うーん、20個くらいかな。リュックの絵本読んでたら?」

ぎりぎり聞き取れるくらいの声で話すお母さん。レールの摩擦音も空調の音も今日はやけにうるさく感じる。

「でもママ、みーちゃんこのごほんもうおぼえちゃってつまんない」

「でも今はそれしかないから。じゃぁお絵かきにしたら」

みーちゃんと自分を呼んだその子は、リュックから見たことのないお姫様が表紙に描かれた自由帳と何本かセットで透明ケースに入ったカラーペンを取り出した。さすがにノートをのぞき込むわけにはいかない。ペンを走らせる音に耳を澄ませていると、すぐに弾む声が聞こえてきた。かなり書き慣れているらしい。

「ママ、みてー、うさぎさん。ようちえんにいる うさちゃん。かわいいでしょ、しっぽがもふもふだよ。ねえママみてってば」

「うん、ほんと、かわいいね。 でも もうすこし静かにできる?ほら よっちゃん起きちゃう」

私はみーちゃんがお母さんの腕の中をのぞき込み、人差し指を立ててシーっと言っているのをこっそり盗み見た。みーちゃんはあきらめて、またなにかを描きはじめたようだ。

「ママこれプリキュア、ねえママだれかわかる?このいちごがヒントだよ」

静かな時は続かない。当たり前だ、まだこんなに小さくて、周りは知らない大人でいっぱい。不安を紛らわすために黙ってうつむく子ばかりではないのだ。

「ママ、ねえママったら。みーちゃんのみてよ、よっちゃんばっかりだめだよ。ねえママ、れっつらまぜまぜってしってるでしょ。これだーれだ。ママ、ねえママ」

ふうと息を吐いた音がしっかりと聞こえ、ワントーン低くなったお母さんの声が続いた。

「みーちゃん、今は朝で、電車にはお仕事に行く人がたくさん乗ってるの。おうちの車じゃないし、ここは遊ぶところでもない。静かにしてってママが言ったのは、よっちゃんが起きちゃうからだけじゃないよ。みーちゃんわかるよね。もう幼稚園に行ってるお姉ちゃんなんだもの」

一気に言葉を吐き出すお母さんの横で、黙って下を向くみーちゃん。しばらくすると、小さな肩の震えが左腕に伝わってきた。

お姉ちゃんなんだもの、というのはとても重い言葉だ。この状況では使わずにいてほしかった。でも私も母の立場なら同じことを言ってしまうのかもしれない。

ついにしゃくりあげてしまったみーちゃんに、冷静さを失ったお母さんが何か言おうとしたとき、ちょうど電車は地下に潜った。まずい、大きくなった騒音がみーちゃんをますます不安にさせてしまう。

降車駅まであと3駅。どうする? 間に合うだろうか。

私はふっと短く息を吐いて みーちゃん親子に体を向け、驚かせず、でも騒音に負けないような音量を目指すつもりで話しかけた。

「これ、やってみる?」

みーちゃんは目を見開いて、お母さんの方に体を寄せた。私はお母さんに軽く頭を下げてから、みーちゃんの目の前に赤いあやとりを差し出した。予期せぬ事態に声の出せなくなったみーちゃんに、右腕を肘から90度に曲げて立ててもらうようにお願いをする。自分の腕でお手本を見せながら、はっきりと伝わるような笑顔を作った。

みーちゃんはお母さんが、うん、と首を振ったのを確認するとこちらに体を向けておそるおそる腕を立てた。私は華奢な手首に赤い毛糸をぐるりと一周、時計回りに巻きつけてから、残りの糸を自分の両手の親指と小指にかけた。そして右中指で左の手のひらの糸を、左中指で右の手のひらの糸をすくいあげ、吊り橋の上部のような形を作り、真ん中の空いているところにみーちゃんの腕を通した。


息を呑むみーちゃん。顔を近づけて、もったいぶって、私は言った。

「いくよー、みててよー。さん…にぃ……いちっ!」 

糸の端を勢いよく引っ張る。みーちゃんの腕から一瞬で糸が消えた。みーちゃんの目が輝き、わぁっと声が出る。

もともと桜色だったほっぺが、熟した桃のような濃いピンクに変わっていく。みーちゃんがお母さんの方を向いてすごいすごいと言ったとき、座席が上下に大きく揺れた。

アンコールに応えたあと、私は自分の右手を差し出してみーちゃんに練習してもらった。数回教えただけでみーちゃんはすぐに覚えたようだったけれど、念のためお母さんにも説明しておいた。楽しそうに何度も繰り返すみーちゃんを見守りながら、お母さんは申し訳なさそうに話しはじめた。

「親戚の容体がよくないらしくて、急に逗子まで行くことになってしまって。小さな子を2人連れてラッシュの電車に乗るのは気が引けたんですけど、主人は仕事だから。慌てて下の子の支度だけして、この子の分は用意できなかったんです。自分でおもちゃをつかんでリュックに入れたらしいんですけど」

きっと誰とも話す時間がなく、やりきれない思いを抱えて出てきたのだろう。化粧もそこそこ、無造作に髪を束ねただけなのに綺麗な人だなぁと思いながら、溢れ出す言葉をただ聞いていた。

「毛糸一本で遊べるんですね。すごいな、あやとり、私も覚えてみようかな。声をかけていただいてありがとうございます。お話しできてほっとしました」

目尻にできたシワまで愛らしい。余裕のあるときはもっと美しいお母さんに違いない。

「こちらこそ、遊んでもらえて楽しかったです。みーちゃん、今夜パパにもやってあげるんだよね。マジックやるよーっていったらびっくりするんじゃない?あっ、あと、毛糸は赤ちゃんにはとっても危ないからお片付けも忘れないでね」

「うん、わかってる。よっちゃんがさわらないとこにおく。プリキュアのはこにいれるからだいじょーぶ!」


お母さんに促され、残念そうに赤のあやとりを返してくれたみーちゃんに、1本あげる、といってほかの色も見せてみた。みーちゃんは赤、青、黄、ピンクから迷わずピンクを手に取って、いい?と聞いた。もちろん。みーちゃんによく似合ってるもの。

降車駅に近づいたところで席を立つ。みーちゃんが、バイバーイと大きな声を出してもお母さんはとがめなかった。表情のやわらいだ親子に手を振りかえすと、朝の常連さんたちは、何も見ていないよ、というような素振りでドアまでの道をあけてくれた。


*

小学生になったみーちゃんの記憶にきっと私はいない。でも多分、今ごろはしっかり者のお姉ちゃんになって、よっちゃんにマジックを教えているはずだ。


懐かしくなって、息子にちょっと手を貸してと言ってみたら、意外にも素直に応じてくれた。差し出された手が思いのほか骨太なことに戸惑っていると、あーあれか、と言って青の毛糸を使うように目配せをして腕を立てた。茶化すような態度は彼なりのやさしさだ。いつでも何でも赤を選んでいた息子はもういない。

子供の成長ははやい。日々更新されるし、あのころには戻れない。それが正しい時の流れだとわかっているから余計にさみしくなる日もある。

でも思うのだ。息子は母のさみしさを感じ取れるようになり、接し方を選ぶようになった。おそらく、他人の心の温度を感じるセンサーが機能しはじめたのだろう。ここからは自分だけでなく、他者との深いつながりを覚え、ぐんぐん世界を広げていく。

もし息子の前で幼い女の子が泣き出したらどうするだろうか。多分 彼は何もできず、おろおろするだろう。でも決してその子から離れないはずだ。今はそれで十分だと思う。

目の前の人に何をしてあげるのが正解かなんて、本当は誰にもわからないのかもしれない。だから私はいく通りもの方法を思いつけるような想像力を身につけたい。”何もしない”も含めて自分で考えて選べるように。息子にもそう感じてもらえたらいい。

誰かを笑顔にしたいとか、そんな大それたことではなくて。

知らないことは想像できないからまず知りたい。
つながることで見えるものを大切にしたい。

だから私は人とつながっていくのだと思う。
どんなに世の中が変わったとしても、ずっと。




※姉弟の名前は仮名にしています。



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