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手放すなら思いを込めて

手放す直前にもう一度輝くような感覚。
すごく昔にもあったな、なんて思いながら 悩むこと数日間。
いくら悩んだってやることは決まっている。

感染症の影響で延び延びになっていた縮毛矯正をかけること。
準備するのは5時間半の施術時間と3万円。

グズグズ悩んで、周りに励ましてもらって、やると決めたはずなのに。予約日前日、思いのほか満足のいくスタイリングができて気持ちが振り出しに戻ってしまう。なんて単純な思考回路。

私は何のために誰のために縮毛矯正をするんだっけ?


今が昭和 真っ只中で、ソバージュヘア全盛期なら間違いなく羨ましがられる私の天然ウェーブは、今までどこで相談をしても「せっかくのクセなんだからもったいない」と言われ続けてきた。確かにヘアオイルをつければ広がりはおさまってクセもゆるくなったかのように感じる。ようはそれっぽく見えてしまうのだ。

でも実際にはツヤがなくてパサパサの髪だから雨や汗で表面がちりちりになる。それが耐えられなくて、ネットにあふれる情報の中からやっと探し出した美容院だったはず。これほど辛抱強く悩みを聞いてもらえたのは初めてで、それなら一度 縮毛矯正をやってみようかと思えるまでになった。スタイリストさんは数ヶ月も前から私のために長時間の作業枠を空けてくれている。もうあとには引けない。

それなのにどうして。
こんな時に限っていい感じにまとまってしまったのだろう。

鏡の自分と目が合った瞬間、ふいによみがえった景色があった。
海沿いの道、美しい夕日と潮の香り。

そうだ、この気持ちを知っている。

やさしくて、胸がチクンとするようなこの思い。


*


初めて手に入れた車は白のブルーバードだった。

免許を取ったのは19歳、まだ高速実習もオートマ教習もないくらい昔のこと。教習車はトヨタのクレスタで、ちょっと怖そうなおじさまたちが運転を教えていた。入校式で居眠りをして叱られた私は、教習所に通うのが恐ろしくなってそのまま数ヶ月を無駄にした。指定の講義を受けてからでないと実車の予約が取れないシステムだったから、結局 卒業できたのは半年の期限ギリギリ。実車で一度も落ちていないのにこんなに時間をかける人はなかなかいないと驚く職員たちの中、やさしい笑顔で見送ってくれたのは、入校式で私に厳しい言葉をかけた強面の教官だった。

免許を取ってすぐ、車を譲ってくれるという話が親戚から回ってきた。当分 乗れないとあきらめていた私には願ってもないチャンス。でも、大はしゃぎで訪ねた先に用意されていたのはドアが錆びて穴が空いた雨ざらしのブルーバードで、気持ちは一気にぺしゃんこになった。どんな車でもありがたいとは言ったけれど私だって一応 女子大生、多少の見た目にはこだわりたい。同行してくれた彼が見かねてパテ埋めを手伝うと言ってくれた。

まずは洗車をしてみた。きれいにするほどに浮かび上がるドアの痛々しい傷。買ってきたパテで穴を塞いでみる。そのあと、デコボコになってしまった表面を削ってスプレーで塗装した。

あとから知ったことだけれど、彼はこういう作業があまり得意ではなかった。おまけに初めてのチャレンジだったらしい。そんな私たちが仕上げた外装は、まあそうなるよねといった出来栄えで、信号待ちのたびに隣の車からの視線を集めることとなった。

高速に乗ったり街中を走ったり田舎道に迷い込んだり。ブルーバードと私はいろいろな場所に行った。スタートでクラッチがうまく繋げると気分が上がり、ポンピングブレーキができたら自分を褒めた。インロックしてしまった時はスタンドに走って器具を借り、サイドガラスの隙間に刺し込んでドアロックを解除。全くの勘違いだけれど、アナログ時代の誇らしい記憶の一つだったりする。

冬に弱いブルーバードのため、バッテリーが上がっても他の車に助けてもらえるよう、ブースターケーブルを常備した。迷った時は道路マップをくるくる回せば道を探せるようにもなった。ハードのことはわからないし、運転だって上手くない、それでもガソリンさえ入っていれば1人でどこにでも行けると信じて疑わなかった。

季節が巡って、車検を通すより乗り替えを、と勧められた時の寂しさを言葉にするのは難しい。ブルーバードはもう誰にも乗ってもらえないだろう。いろいろな葛藤があって、納得などできないまま、それでも離れる決心をした。

引き渡しの前日、一緒に海まで走った。免許を取ってすぐ、練習のために何度も往復した海岸線。橋の上の一番いいポジションに車を停めてぼーっと海をながめると、窓の隙間から潮の香りが入ってきた。テープに入れていたお気に入りの曲もかけずにただ車内で座っていただけの静かな時間。フロントガラス越しの暗い海がキラキラ光りだして、やがてメーターの走行距離が読めなくなった。

ごめんね、ありがとう、さよなら。

ごちゃ混ぜになった心を乗せて走った帰り道、ブルーバードはギアの入りも、クラッチのつながりも、アクセルを踏み込んだ時の加速も、すべてがスムーズだった。なぜお別れしなくてはいけないのかわからなくなってしまうほどに。

それでもきっと、ものごとにはちょうどいいタイミングというものがある。あのまま乗っていたらブルーバードは部品さえも使ってもらえないほどすり減ってしまったに違いない。きっと、あの時しかなかったのだ。


時は流れ、橋には海を眺めるスポットができた。休日は家族連れやカップルでいっぱいになり、あの日の静けさはどこにも残っていない。

でも私はこの先もずっと忘れないと思う。
ドアに残ったでこぼこを。静かでやさしいあの夜を。


*


縮毛矯正はうまくいった。

美容室に着いた私は相当しょげていたのだろう。スタイリストさんはゆっくり話を聞いてくれた。

普通、縮毛矯正は髪をサラサラのストレートにするのが目的だ。でも私はウェーブを全部なくしてしまうのは嫌だった。そんなわがままを言う客はそういない。どうしてもウェーブを出したければツヤをあきらめて、ストカールという施術をするか、髪への負担を覚悟して、縮毛矯正をかけた後にデジタルパーマを試すかの二択だと前回すでに聞いていた。

もう一度同じ説明をしてくれる姿に、これ以上困らせてはいけないと理性が戻る。私は予定通り、縮毛矯正だけをかけてもらいたいとお願いした。


薬を作りに別室に消えたスタイリストさんは、戻るなり「ちょっと真剣に塗っちゃいますね」と言って黙々と作業をはじめた。いつもは笑顔で話しかけてくれるのに、今日は一言も発することなく薬を髪に塗り込んでいる。

彼はいくつかの容器を代わる代わる手に取った。配合を変えた薬をクセの強さに合わせて使いわけていたというのは終わったあとに知ったこと。トップ周辺は矯正力を強く、毛先に向かって効果を弱められるように。考えつくされた施術だった。

仕上げのブローが終わり、鏡に写ったのはゆるやかなウェーブが残る髪。感激で言葉をなくす私に、うまくいってよかったと彼は微笑んでくれた。慌ててお礼を伝えると「長い美容師生活で初めての挑戦にワクワクした、こちらこそありがとう」の言葉が返ってきた。マスク越しでもわかるくらいの素敵な笑顔だった。



ずっと思っていた。
あきらめが悪いところも、思い入れが強いところも面倒な性格だと。どうして素早く気持ちの切り替えができないのだろう。

でも「手放すことに思いを込めるタイプ」と言い換えてみたら、そんな自分も悪くないと思えた。

人はきっと急には変われない。それでも考え方を変えることはできる。
ありふれた日常の小さな出来事でも、驚くような気持ちの変化が起きることを実感した私は、よく効くお守りを手に入れたように心を強く持てた。


変えたくないものまで無理に変えなくてもいい。

私は今、一目惚れした中古車と一緒に、時々あの海まで出かけている。


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