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寂しがりやのだし茶漬け

土曜日、午前1時半、新大塚。
大通りでタクシーを停めてもらう。

本当はアパートの前まで乗せてもらった方がラクだけど、こんな時間だし、自分の家じゃないし。そう思ったら気が引けてしまった。人がいないだけで十分怖いのに、辺りが暗いと景色まで違って見える。目印の電柱には上の方にミラーが付いていて、写った自分に驚いて思わず走り出してしまった。大丈夫、あの角を曲がったらもうすぐだから。

いつもの自販機が見えた。コンビニまで行くのが面倒な時にスウェットで買いに行けるドリンクの販売機。今日はコーラが売り切れてないや。横目で見ながら大急ぎでポーチを駆け上がる。イチ、ニ、サン。心で数えてしまう癖がなかなか抜けない。

3段目で息を整えてそのまま狭い廊下を進んだ。ヒールの音を響かせないようにゆっくり歩く。向こうから2番目のドアの前、表札ちゃんと書きなよって言ったのにまだ書いてないや。朝になったらまた言わなきゃな。そんなことを考えながらそっと鍵を差し込んだ。彼を起こさないように慎重に回す。



大学のサークルで知り合った彼は一つ年下だった。といっても、早生まれの私とどちらが上に見えるかと聞けば、ほとんどの人が彼と答えただろう。富士山の麓で育った彼は、東京に出てすぐ、いろいろな街を歩き回ったと言っていた。馬鹿にされるのが怖かったから、そんな風に話す彼は、まず自分で見て感じたいと思う人だった。雑誌に載るような飲食店でバイトをし、幅広い年代との会話術を習得、料理も覚えて自炊をこなす、そればかりか、掃除、洗濯などの家事も苦とせず、自宅暮らしの私よりよっぽど手際がよかった。包丁の刃でサッと潰したニンニクを入れて絶品のペペロンチーノを作る人、靴をきちんと磨く人、いつも自信に満ち溢れている人、転職に迷っていた私の背中を押してくれた人。私は彼の強さにどんどん惹かれていった。


そんな私たちも二人の時間が積み重なっていくにつれ、些細なことでのケンカが増えていった。スピーディな彼とはもともとペースが違っていたのだから彼がイライラするのは目に見えていたはず。でも長い間、問題になることもなく、むしろお互いが自分にないものを持っている相手に憧れて過ごすことができていたのだから恋心とは本当にすごい。結局、ケンカの根本的な原因は憧れがなくなったことだと思う。皮肉なようだけれど、二人の心の距離がうんと近づいたからこそ言い合いが増えてしまった。

彼のストレートすぎる言葉に悲しくなって私が泣き出す。ケンカの最後はいつも同じ。ひどい時には、仕事が大変だという彼に頑張ってねと言っただけでイライラすると電話を切られた。でもある夜、頑張ってと言われないと寂しくなるんだと彼が言ったのを聞いて、あぁこの人は決して強くないのだと気づいてしまった。そういえばケンカの翌日、会社まで迎えに来てくれた彼は、困ったように小さく笑っていた。そんな彼に私はもう一度恋をした。


先にデザイン事務所に入った私を見て彼も同業に就いた。といっても私は作る方で、彼は作らせる方。入社してすぐ仕事のできる先輩に付いた彼は毎日楽しそうだった。一方の私は華やかとは言い難い作業ばかり。時間に追われる日々は逃げ出したくなることも多かったけれど、なにも言わなくても彼に仕事の辛さをわかってもらえている安心感が私を支えた。一週間分の辛抱が全部チャラになる週末。暗闇を走る怖さなんて、どうってことなかった。


ーーー


「お疲れさま」

「ごめん、起こしちゃった」


彼は電気をつけると、パイプベッドの下に入れた透明コンテナから、きれいに畳んだヘインズのTシャツを取り出して渡してくれた。

「平気、寝てなかったから」


一緒に季節を何回りかしていた私たちは、顔を見た途端に肌を寄せ合うような関係からはもう卒業していた。私はシャワーを借りてひと息つき、洗い立ての大きなTシャツに身を包んだ。

「夕飯、どうせ食べてないんだろ」

返事を待たずに彼は雪平鍋をコンロにかけ、冷凍庫から自家製の焼きおにぎりを一つ出すとレンジに入れた。湯の沸いた鍋に顆粒だしを振り入れて、棚から大きめのお椀を一つ出す。ピーピーという温め完了の音と同時にもう一度冷凍庫を開けて、何やら小さなラップの包みを取り出した。緑の何か?

それらをリズミカルにお椀に入れていく。
おにぎり、だし、緑の何か。

イチ、ニ、サン。

七味をサッとふりかけて目の前に出されたお椀を覗くと、おにぎりの上に乗った緑の何かは三ツ葉だった。落っこちた数枚が汁椀の中を泳いでいる。


今でこそメジャーな「だし茶漬け」だけれど、当時の私にとっては見るのも初めてだった。お茶漬けといえば白いご飯に袋入りの素をかけて湯を注ぐものしか知らなかったし、正直それも好んで食べなかった私。茶色の焼きおにぎりが入っただし茶漬けは、初心者には少し難しかった。これって崩して食べるんだよね?

私のとまどいを見逃さず、彼はスプーンを渡してくれた。味が薄かったら醤油を回してね。そう言って醤油さしを隣に置いた。

いい匂い。まずはスープからひと口。
そしておにぎりを崩して口に運ぶ。


「おいしい」


それを聞くと、彼は立ち上がって鍋を片付けはじめた。


「おふくろが昔よく食わせてくれたんだよね。
 まぁあっちは、ちゃんと鰹節からだしを取ってたけど」


思いがけず、彼の思い出に触れた真夜中の出来事。
シンクに立って壁側を向いていた彼の表情は見えなかったけれど、
きっと微笑んでいたと思う。



イチ、ニ、サンで仕上げちゃうなんてスピーディな彼らしい。

初めてのだし茶漬けは、醤油味のはずなのにほんのり甘かった。
焼きおにぎりに塗る醤油にみりんを混ぜているからだと言ってたけれど、多分違うよね。

だってレシピ通りに何度作っても同じ味には出会えないから。


あの夜のだし茶漬けは、これからもずっと私の記憶の中で優しく湯気を立て続けてくれるだろう。






***

こちらの企画に参加させていただきます。

はじめましてだというのに、締め切りギリギリのタイミングですみません。遠い遠い記憶、書かせていただきました。
どうか、青春…と呼ばせてください(笑)





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