見出し画像

デジタルテクノロジーで機械化する人間の私。それとアート。

いよいよ卒業まであと半年を切りまして、ネタは溜まっているのに書く余裕がない状態が続いています。。。が、心や趣味に費やす時間の余裕がなくなればなくなるほど、やりたいことが湧き出てくるのが私の性質なので、忙しい日々を恨みながらも感謝しています。笑

今学期は卒業論文やら副専攻やらで、授業は全くないのですが、課題三昧なので自分でスケジュール管理を徹底していかねば!という状況でして、
そんな中で感じた、「私は(デジタル)テクノロジーを使っているのか、それとも(デジタル)テクノロジーのデバイスと同化しているのか?デバイスを通じてみている私とは誰なんや?」という不思議な感覚についてのお話しです。

「アート関係ないやん!」という感じのタイトルですが、後半でアートに繋がりますので、ご安心あれ😏(というか、アートなしでは何も話せないくらいなんでもアートに関連させたがる性分なので。。)

デジタルテクノロジーと自分について考え始めたのはつい3ヶ月ほど前のことで、きっかけは2022年の抱負として、生活習慣の改善(栄養と睡眠時間)と無駄な時間を削減するという目標を掲げたことです。

もともと自分を予定や時間で縛るのが好きで、課題等も早く考え始めて締切の2週間前にはほぼ完成しているのが好きなので、紙のスケジュール帳で予定を管理していました。ですが、この目標を立てたのをきっかけにデジタルにシフトして、1日の予定に加えて、1日の出来事を15分単位で全てスケジュールアプリに打ち込むようになりました。そうすると、次はSNSの使用時間の制限をかけたり、食べ物の栄養バランスと出費の記録もはじめ、夜の11時になるとケータイがお休みモードに入るように設定し、今まで4時間程度だった睡眠を8時間に伸ばすことにしました。副専攻で学んでいる心理学のちょっとしたトリックを交えて行ったこともあり、すぐに習慣としてこれらが馴染み始めました。

そのうち、記録を取っていただけなのに無料アプリが私に色々提案をし始めました。寝ろとか食べろとか、さらには生理の周期など今まで特に気に留めたこともなかったですが、予測して教えてくるようになり、周期的な体の変化らしきものを感じ始めました。

と、ここでふと思いました。
『あれ、私はこのアプリのもつ理想の人間像に近づくために自分をアップデートしているのではないか。。。?』

バグ(例えば炭水化物の取りすぎなど)があればそれをアプリが知らせてきて、その通りに食生活を変えている自分。
「私はなんなんや? でも、このアプリ使ってる人いっぱいいるよな、、、ってことはみんなと同じになるように自分を作り替えてるってことか、、」

すごく気持ち悪くなってきました。

さらに、生理に関しては、生理の1週間前になるとアプリが体調の変化に関するチェック項目を出してくるので、1週間前だけ体の変化に敏感になることに気がつきました。
もちろん、生理における体調変化には個人差があるので1週間前になるとアプリなど関係なく変化を感じる人はいると思います。
ですが、私はこうした体調の変化に超絶鈍感なのです。
普段は感じないこともチェック項目が出ることによって、記載されている症状に自分を調節している気がします。
思い込みも激しい人間なので、もしかしたら、本当は経験していない症状までチェックしているのではないかなどとも思います。
ただこういうのは慣れてしまうと、なくなると不安になったりするので今も続けているのですが、こうやって我々の生き方や考え方、身体のあり方、感情までもが気付かぬうちに(デジタル)テクノロジーや身の回りのものにshapeされるのか、、、とゾワゾワしました。

こんなことを考えながらデジタルアートとニューロサイエンスに関しての論文を読みんでいると、私の大学でそれらの分野を研究している教授とお話をする機会をもらいました。そこから学んだサイエンス、テクノロジーに対するアートの可能性みたいなのを書いてみます。

とその前に、誤解のないように。。。私はテクノロジー常用者でアンチではないです。ただアートがどうやって何かしらのツールになれるかをよく考えるのでちょっとテクノロジー批判っぽく聞こえるかもしれないです。
(何かしらのツールにならなくていいというのがアートの強みであり美しさでもあるとは思いますが、これに関しては単なる癖です。)

テクノロジーはあまりにも日常に浸透していて、疑うこともあまりないですが、医療現場で使われるニューロサイエンスの技術、CTスキャンやfitbitなどのアクティビティ記録デバイスに至るまで、我々は本来見えなかった部分の自分の側面が見えるようになりました。その点で私たちはテクノロジーを通じて「自己の拡張」を行っていると言えますよね。

医療現場で使われるfMRIやMRI, 脳波測定器などは我々の見えない一部を拡張しすることで、精神病や機能障害の診断を可能にしますよね。しかし、多くの場合、医者以外の人が画像を見ても何が問題なのかなんてわかりません。つまり、特定の知識を持った人にしかわからない言語とも言えますよね。
ここはミシェル・フーコーの生の権力や狂気の歴史、ディシプリンに関連しますが、脱線ですね、、、。

アートには日常で疑いすら持たないほど浸透したこれらのテクノロジーを別の設定、文脈で使用したり表現したりすることができるのです。
これは同時に、サイエンスやテクノロジーによって私たちが目にするデータは常に抽象化や表現によって仲介されていて、表現するものは「選択」されているということを我々に体感させてくれます。

例えばEEGを使って測られた脳波はギザギザ波で表されますが、あれは増幅されていて、意図的に選択された「波」という表現の形を持っています。
このようなサイエンスやテクノロジーを中心とした文化やそれらの見方に関する研究はSTS (Science and Technology studies)の分野で行われていると教授が教えてくれました。


私の中には野生的な人間らしさみたいなもののイメージをぼんやりとありまして、それが欲深さや、感情的・情熱的な行動や思考、創造や想像だとなんとなく感じていて、そういうのが好きなので、誰かの手によって作られたものに自分を調節している自分に違和感や矛盾を感じてしまうんですねぇ。

スケジュール管理マニアの私がこんなことを言うのも変なのですが、もっとぼんやりと世界を捉えて、ジャッジすることなく今あるものをあるがままに認識する。みたいな生き方に憧れています。

手が届かないからこそ憧れを持つのであれば、ごく自然でもあるのか。。

なんともまとまらない、こういう文を書いて数日後にもう一度読んだりすると自分の浅はかな思考とチープな表現に気分が悪くなるので、もう一生見ないことにして投稿してみます。笑

自分を正当化するとすれば、
まとまった文は大学の課題用。めちゃくちゃなのは日記やNote。ということで、ここにあるブレインストーミングみたいな文はNoteのbeautyです!

では。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?