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【論文紹介】「現代アートとニューメディア:デジタルの分水嶺か、それともハイブリッドな言説か?」(エドワード・A・シャンケン(2016))―②

前回の続きを掲載します。

前回の内容はこちら

第3節「ポストメディウムの状況とそれの不満」

第3節では芸術とそれを支持する媒体(支持体)との関係をめぐる対立の議論が述べられています。美術批評家ロザリンド・クラウスが名づける「ポストメディウム」の状況においては、媒体固有性の限定されない作品を探究する者たちは「詐称者」と呼ばれます。彼女はクレメント・グリーンバーグの形式主義をある種引き継ぐ形で、「技術的支持体(technical support)」の概念を導入し、その概念を通して作品を評価しようとしています。

シャンケンは、このような評価では「発想、メディア、1つにまとまる技術的支持体の複雑な成層を不明瞭にして、非常に複雑な作品と実践の解釈を単一の側面に限定してしまう」(p. 470)と批判します。ニューメディアはその性質上媒体固有的でありながら普遍的・汎機能的であるので(p. 472)、ニューメディア・アーティストはもとより媒体固有性を追求することなく「MCAのアートワールドのオブジェクト指向的強迫観念と、市場に影響される収集可能な大量生産品の需要のダイナミクスとに対して、しばしば問題を投げかけながら、芸術それ自体の本質を疑うために型にはまらない素材や技術を用いてきた」(p. 472)。その意味でクラウスが警告すべき状況としているポストメディウムへとMCAが発展していくこととNMAと統合していくことは、「芸術的・技術的・社会的文脈におけるメディアの本質を戦略的に問う」契機となり、両者の隔たりを解消する基礎になると想定しています(p. 473)。

第4節「さらなる挑発」

第5節については前回触れたので、この第4節が最後になります。ここでは、本論の主題である「ハイブリッドな言説」の構築に向けて、MCA、NMA双方への批判を展開しながら、技術的メディアの理解を通じた「美的基準」の拡張を主張します。先の第2節では徹底的に批判されたニコラ・ブーリオですが、本節では彼の著作“Relational Aesthetics”から示唆に富む論をいくつか引用しています。

本節冒頭で引用されているブーリオの主張は、技術の暗示的/明示的使用とも読み取れそうですが、シャンケンはここで重要なのは「出現する技術の基本的な論理を理解し、それらの技術を元々の文脈から取り出し、多かれ少なかれ伝統的な芸術的メディアにそれらを埋め込むことによって、それらの影響はもっと安心できるものになるだろう、ということ」だと述べています(p. 473)。シャンケンが第2節で批判したのは、ブーリオが技術の使用をめぐる二項対立的な芸術の存在論を規定している点にあったということが改めて理解できます。シャンケンが拡張すべきと論じる「美的基準」とは、作品の基礎となっている観念ほど実際は重要ではないオブジェクトを、「作品の概念的支柱とは正反対と解釈されうるような実践によって」「賢く市場に出す」市場主義的なMCAの基準ではありません(p. 475, 476)。そうではなくブーリオの定義するような「「形式的な一貫性」、「象徴的価値」、「人間の関係性」、そして社会的価値のモデル化」を作品「世界」とその反映である人間の「世界」との間に実現させることです(p.477)。そしてそのような実践の探究は、究極的には大衆文化と切り離して考えられると付け加えています(p.477)。

以下、読解とメモ

さて、本論考の主題の一つでもあった「ハイブリッドな言説」とは、何を指すのでしょうか。端的にはクレア・ビショップの「デジタルなものを通して考えて、見て、感情を扱うとは何を意味するか」、「このことを主題化し、あるいは我々の存在がデジタル化されることを我々がいかに経験し、またそのことによってどのように変容させられているか」(p. 466)という問いと、ブーリオの「美的基準」(p. 477)がそれにあたるでしょう。これらに加えてさらに彼の論を展開する可能性を示すものとして、クラウスの「技術的支持体」の概念をここで挙げたいと考えています。

シャンケンはこの概念をモダニズムからの延長的概念と見なしているようですが、久保田ら(2018)はクラウスが1979年の論文において提示したダイアグラムを参考に「支持体」の問題に当てはめてみることで、ポストインターネット時代の芸術の図式化・分類を可能にしています(*1)。いささか単純化しすぎている感は否めないですが、シャンケンの言う「両者の間をより混合させるような基礎を置きつつそれぞれを微妙な差で識別できる」ための識別の枠組みを提示しているものと見なすことができ、「技術的支持体」の概念で指し示すものをこのダイアグラムの中に領域的に表すことができそうです。その意味で、彼が単に批判の対象にとどめた「技術的支持体」の概念にも、「ハイブリッドな言説」を構築するための再考の余地があるように思われます。また個人的には、具体的なデータの裏付けが欲しいと感じる部分がありました。また、シャンケン自身がギャラリー運営者へ行ったインタビューやメールのやりとりなど、裏付けの難しい素材を通して語られている部分は、いくつか別な論考等によって再検証を要するかもしれません。

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(*1)久保田ら(2018)によるダイアグラム。(久保田・畠中 2018: 90)

まとめ

以上のように、検討を要する部分もあるとはいえ、彼の議論は重要な問題を扱っていて、19世紀後半のエドワード・マイブリッジやジュール・マレーなどの写真術から現代のジョナス・ランドの作品に至るまで、美術史家としての幅広い知見をもとに技術と芸術の関係に言及しながら、MCAとNMAの隔たりを理論的にとらえ、「ハイブリッドな言説」によって両者の対話可能性を模索しているところが評価できると思います。2000年代の彼の一連の著作に見えるように、一貫した問題意識であろう「伝統的な芸術と新しいテクノロジーを用いた芸術との間の距離」を彼が測り続けているがゆえの記述として読むことのできる論考といえるでしょう。

参考文献
久保田晃弘・畠中実, 2018 『メディア・アート原論―あなたは、いったい何を探し求めているのか?』フィルムアート社。

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