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【論文紹介】「現代アートとニューメディア:デジタルの分水嶺か、それともハイブリッドな言説か?」(エドワード・A・シャンケン(2016))―①

こんにちは。
美学芸術学専修での卒業論文は、日本のIT企業であるチームラボ(teamLab)の制作する「デジタルアート」が喚起した「論争」について、社会学的に分析した結果をまとめました。
その分析に至る前提として、「そもそも伝統的なアート(絵画・彫刻など)と、デジタル技術を用いたアートとの間に、いくつかの点で「断絶」(gap, divergence)がある」ということを指摘していた海外の論考が大変勉強になったので、その要旨をかいつまんで残しておければと思います。

著者について
今回の記事はタイトルにもあるとおり、エドワード・A・シャンケン(Edward A. Shanken, 1964-)の2016年の論考” Contemporary Art and New Media: Digital Divide or Hybrid Discourse?” の内容についてです。同氏は美術史が研究の専門で、彼の主著”Art and Electronic Media”(Phaidon, 2009)では、現代の美術史の中にメディア・アートを位置づけることができると考え、歴史的考察を詳細に行っています(*1) 。

(*1) なお、彼の同書の書評には、『日本メディアアート史』の著者でもある馬定延(Ma Jung-Yeon, マ・ジョンヨン, 1980-)さんによるものがあります(→リンク)。

論考の概要


この論考は、クリスティアンヌ・ポール編の論集“A Companion to Digital Art”の第21章(463-481ページ)に収められています。論集は全体で4部に分かれ(デジタル・アートの歴史(第1部)、デジタル・アートの美学(第2部)、デジタル・アートの政治学(第3部)、デジタル・アートと制度(第4部))、シャンケンの評論は第4部に含まれています。

1990年代半ば以降、ニューメディア・アート(NMA)の制度的な発展と主流の現代芸術(MCA)の劇的な成長がみられているが、主流のアートワールドとニューメディア・アートワールドはほとんど一致せず、言説が徐々に分岐している(p.463)。現代芸術の置かれている状況を彼はそう指摘していますが、この論考で彼が目指そうとするのは、MCAとNMAとの間の不一致の中心的なポイントは何かを明らかにし、両者の間をより混合させるような基礎を置きつつそれぞれを微妙な差で識別できる「ハイブリッドな言説」を構築することです。そして、ニューメディアの出現による生産・普及の新しい手段が、芸術家やキュレーター、ミュージアムをどのように変えているのかを描き、MCA、NMAの隔たりを解消させることによって、芸術史の規範、現れつつある芸術・文化形式をとらえ直すことを試みています(p.464)。
この論考は、序文を除いて5つの節に分かれています。
序文においてシャンケンが提起した問題については前段で触れたので、以下、第1節からの内容を概観していきます。

第1節 「アートワールド」


まず第1節では制度面にフォーカスし、MCAがNMAの言説や作品を不当に排除している状況を指摘します。多元主義の傾向は複数のアートワールドを生んだが、“the artworld”を指す主流のアートワールドに影響を与える市場で取引されるものは、収集可能なものに限定されていました(p.464, 465)。

彼は、収集できないものが市場に組み込まれないこの状況の原因を、主流のアートワールドの権威低下と、それでもなお自らの理論の更新を怠っていることに帰されるといいます(p. 465)。さらに言うと、クレア・ビショップ(MCAでの有力なキュレーター、批評家)などは、理論を更新するための示唆に富む問いを提示しているにもかかわらず、NMAのアートワールドの存在自体に触れていない。そのことを問題視しています。これはMCAとNMA両者の隔たりを具体化することになるからだと言っています(p.466)。

NMA、MCA両者を隔てている要素として浮かび上がるのが「収集可能/不可能性」ですが、NMAはなぜ収集できないと考えられているのか。それは彼によれば、収集可能・市場において交換可能であることは慣習的な受容のあり方を前提としていて、それに合致しないためです(p.466)。芸術市場の慣習については第5節で焦点化され、その慣習というものが「中立的な質や正規の特徴ではない」、「巧妙に仕込まれたイデオロギー的公約を具体化している」ものだと指摘しています(p.478)。

制度の運営の論理上、構造の現状維持を指向するMCAのアートワールドの構成員にとって、MCAの基礎の多くに挑戦するNMAはある種脅威であり、ゆえにNMAは概念の次元、関心の点で多く類似点があることを認識されず退けられています。しかし現状NMAは自らの制度的自律を進めており、流通市場に代わる経済的サポートを見出していて(p.469)、MCAがNMAを除外することの不当さを繰り返し指摘しています。

第2節 「断絶に橋渡しをする:暗示的 対 明示的影響と媒体の不公平」


次に第2節では、技術が芸術にどのように用いられるかという論点が中心的な対立点となります。この節の題材となっている、2010年6月のアートバーゼルにおけるプログラム内容は録画され、現在はYouTubeに公開されています 。MCAの有力なキュレーターの一人であるニコラ・ブーリオの主張を引き、写真術が芸術に組み込まれてゆく過程とコンピュータ技術が芸術に与える影響とを芸術史的に比較したうえで「芸術的媒体として技術を直接的に用いることを拒絶しながら、技術の間接的影響に価値を与える」(p. 470)とする彼の立場を批判しています。どのような批判かというと、第一に、彼が技術的メディアの観点を欠いた伝統的な芸術史を前提としており、写真術とコンピュータ技術とではその技術の消費の規模からして単純に比較することができない、ということ(p.469)。第二に、ブーリオの「暗示的/明示的」の二分法は「後者―ありふれた、実用的な道具―を犠牲にして、そのペアの前者―高尚な理論的理想(像)―の地位を高める」もので、シャンケンが想定する「意味のネットワーク」としてのアートワールドの理解のためには、このような二項対立に基づいた存在論は疑われなければならない、ということです(p.470)。

*****今回はここまで*****

「MCA/NMA」はシャンケンが便宜的に用いている区別で、あまりメジャーなラベルではないように思います。また、「アートワールド」やブーリオの「暗示的/明示的」の議論など、バックグラウンドが必要な概念や内容が多々ありますので、ご質問・ご指摘いただけますと大変励みになります。後半も、随時共有できればと思います。


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