私論メモ「神名流し」に思う事。

 今日は私が信仰している天理教の話なので、未信仰の方や天理教をご存知ない方は全くもって意味不明の文章だと思います。自分に対するメモの気持ちで記したいと思います。なので、荒削り。

 今日は「神名流し」について、私が最近思った事を書きます。


 いまの時代にあって、「神名流し」は見た目も、手法も、かなりオールド・スタイルの極みです。人によっては「何、これ?」と、訝しげな目や冷たい視線を送る通行人も少なくありません。そして、同じ信仰者の中でも「あんなんして何の意味があるのだろうか? 布教スタイルとしては、非効率的だ」と思う人も少なくありません。

 実は私も、上記の意見に関しては、ほぼ「同感」なんです。

 それに、私のような勇気や勢いが無いインドア派・草食系男子からすれば、神名流しはできればしたくない(笑)。時たま「こかん様、なぜ神名流しなんてしちゃったの? そりゃぁ教祖から言われたら、使命感に燃えたでしょうけど。後世の私たち、いや、少なくとも『俺』が困るやん」なんて思っちゃう時もあります(笑)。こんな信仰者で、すみません。

 でも、私は「神名流し」するんです。勇気を奮い立たせて(笑)

 というわけで、この記事では「神名流し」に対して、実働する「意義」や「大切さ」を考えていきたいと思います。以下、信仰という「前提、視座」に立って話を進めます。

 お話のポイントは3つ。

①「神名流し」は、なぜ「大切」なのでしょうか(もし「大切」ならば)?
②「神名流し」の目的を明確化しましょう。
③ でも、あえて上記②に反論するならば・・・。

 

 では、一つ一つお話していきたいと思います。

①「神名流し」は、なぜ「大切」なのか?(もし「大切」ならば)


 ある日、こんな出来事がありました。
 私が2階の部屋で、締切間近のパソコン業務に追われていた時です。というか、もう締切が過ぎていて、ピリピリかつ焦りながらキーボードを叩いていました。
 そんな時、2歳の娘が階段の下から「とーたん!とーたん!あーそーぼー!」と呼ぶんです。でも、私はあえてガン無視してパコソンに向かっていました。
 しかし、娘はなんとその後10分近く、ずーーーっと「とーたん!」と連呼し続けるんです。かわいい娘です。私は無視しきれずに、「はーい、今行くよぉ♥」と、愛娘のもとへ駆け寄りました。

 その時、ハッとしました。
 こう思ったんです。

「親は子供から何回も懸命に名前を呼ばれ続けたら、駆け寄らざるを得ない。これは、私たち人間の親である親神様、そしてご存命の教祖も同じだ」


 現在、神名流しは、教えの要点がまとめられた「よろづよ八首」を唱えながら練り歩き、最後に「天理王命」と神名を唱えます。教祖の末女こかん様が神名を流された時は「なむてんりおうのみこと」と繰り返し唱えたスタイルでした(今でもこのスタイルで神名流しをされる方もおられるようです)。

 つまり、「神名流し」は、言い換えれば「親の名前流し」です。

 私の娘が「とーたん、とーたん」と何回も繰り返し呼んだように、親神様のお名前を何回も呼ばせてもらう。しかも、次の②で詳しく述べますが、その土地にご守護くださるようにとの思いを込めて、親の名前を懸命に呼ぶ行為なんです。親神様や教祖は「はーい♥」と駆け寄らざるを得なくなるんじゃないでしょうか。だって、真実の親だから。

 ちなみに、朝夕のおつとめやお願いづとめでも、何回も「天理王命」と唱えます。しかも、第1節の「あしきを~」の「天理王命」の手振りは、両手で親を「来て、来て」と「まねくお手」(『おてふり概要』では「さしまねく型」と説明)になっています。だから、日頃からちゃんとおつとめを勤めている人には、何かあれば神様は「はーい♥ どうしたん?何事?」って、救けの手を差し伸べてくださるんです。

 つまり、自分と神様との間に「道」をつける行為。もっと言えば、自分と救済の根源である「おぢば」との間に、ご存命の教祖が駆け付けられるための「道」を作る行為なんです。そして、神名流しは、その「道」を、自分のみならず、その土地へつけてもらえる行為ではないでしょうか。

 教祖のお言葉に「子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』75「これが天理や」)とあります。愛娘が懸命に何回も私を呼んだ時、親である私は何を置いてでも駆け寄ってやりたくなりました。

 これが「天理」であり、「親心」です。そういう意味で、神名流しは大切です。


②「神名流し」の目的を明確化しましょう。


 では、2つ目は「神名流し」ってどんな思いでやるべきなのか、という点です。
 
 冒頭でも述べましたが、よく「神名流しなんて意味がない。あんな手法では、にをいなんか掛からない。布教スタイルとしては、非効率的」などと言う人が少なくありません。
 私はこれに対しては、「うん、賛同の極み!」と答えます。

それは、神名流しの目的を「布教」(または「にをいがけ」)の手法と捉えるからだと思います。

 しかし、神名流しの目的を、「神名を流した土地の立毛が繁栄するように」「この土地の人たちの病気や悩みが治まり、幸せになるように」などと祈る「おたすけ」と捉えるならば、私は神名流しは大変意味がある、いや、信仰者としてできることならば実践できたらいいと考えます。

 言うならば、神名流しをする本人や周囲の人の心に「少しでも天理教が頑張ってる姿を地域の人へ見せたい」「信仰する人が増えるご守護が頂けるように、神様にお働き頂くため」という「布教」の思いがあったり、または「布教」と捉えたりするから、「非効率」「意味がない」という考え方が出てくるわけです。

「神名を唱える」信仰活動の前には、実は「非効率的」「合理的でない」「意味がない」という言葉自体は、無意味化すると思うんです。

 

 さらに言えば、「かしもの・かりもの」の教えの観点から考えても、「神名流し」は「おたすけ」になるのではないでしょうか。

 私たちの身体は神様からの「かしもの」であり、この世界はすべて親神様のもの(というか、親神様そのもの)で、万物一切を借りて、私たちは生かされています(よく「神の懐住まい」と言います)。
 そして、神名流しは、それこそ神様の名前を唱えて、自らのかりものの身体や心に天の理を流す作業です。だから、私たちは神名流しをすると、なぜか心が澄んで勇んできます。それは天の理が、心に勇みや喜びを発し、それが体に流れるからではないでしょうか。
 さらに、周囲のもの全てが神様からのかしものです。神名流しをする場所が、都会であろうが、山の中であろうが、親神様の身体の中であることには違いありません。その中で、私たちは大きな声で何回も親の名前を唱えて、「天の理」を流すわけです。その土地自体(空気、草木、、、とにかく全て!)が、親神様そのものであり、親神様の身体です。前述したように、親は喜び、勇むんです。つまり、その土地、その土地に住む人々がたすからないわけがないわけです。

 あくまで「信仰」があっての前提ですが、こういう意味で神名流しって意味がある信仰活動だと思います。 


③ でも、あえて上記②に反論するならば・・・。

 

 上記では「布教」よりも「おたすけ」の心で神名流しを!と話しました。
 だって、実際に「布教」の手法としては、確実に「非効率的」だし「合理性」に欠けるからです。

 けれど、自分でそう言っておきながら、あえて②の理由に反論したいと思います。神名流しは「極上のにをいがけ」だ、と(笑)。あえて「布教」とは言いません。

 どっちやねん!!と、どうぞツッコんでください。

 実は、私が所属する教区の青年会では、現代の難渋に合わせてSNSを通じた「にをいがけ・おたすけ」や社会貢献活動などに懸命にチャレンジしている一方で、この1、2カ月間で「教区内全教会参拝&神名流し!」にチャレンジしています。
 いま、3分の2が終わりました。ほんとね、途方もない(汗)。目的は、①や②で述べた「その土地の彌栄はもとより、その地の人々が幸せになるように」との思いからです。

 そんな中、活動に参加した青年会員さんがLINEのグループ内でこう話してくれたんですね。そのまま引用します。

 今回の神名流しで思ったのが、ちょっと極論かもしれませんが、神名流しこそ「純粋なにをいがけ」なんじゃないか?ということです。
 理由は、個別訪問や路傍講演、ビラ配り、あるいはSNSによるにをいがけ。どれもそれぞれの良さがありますが、全部「神様の思いを受けた人間の言葉」です。しかし神名流しは間違えない限り「純粋な100%神様の言葉&神名そのもの」を伝えています。
 もちろん他のやり方が劣っているとかではありませんが、神名流しの一番のストロングポイントに気付いた時に、今回の活動はものすごいことだなと思えて勇めました。

 私は、この文章を読んで「なるほどなぁ」と感銘しました。

 この文章を読んで、私は神名流しは上記で述べた「おたすけ」であり、そして、やはり「にをいがけ」なのだと改めて思いました。上記の文章のままなので、ごちゃごちゃと説明はいたしません。

 そして、彼が「布教」ではなく「にをいがけ」という言葉を使っているところにも着目しました。あくまでも、ただ「勇み喜んだにおい」をふりまく「にをいがけ」なんです。教えを伝えよう、信者を増やそうという「布教」ではないんです。「純粋な神名流し」には、別席者がほしい云々といった心は微塵もないんです。

 ちなみに、こかん様の浪速の町への「神名流し」の史実について、『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」には、「布教」ではなく、「にをいがけ」と記されています。そして、こう記されています。

「なむ天理王命、なむ天理王命。」
と、唱えるこかんの若々しい声、冴えた拍子木の音に、聞く人々の心は晴れやかに且つ和やかに勇んで来るのであった。
                 (『教祖伝』第三章「みちすがら」)


簡単に「どーでもいい」まとめ

 簡単に①②③をまとめます。

 私論ですが、「神名流し」とは、親の名前を唱えて親に喜んでもらう「親孝行」の行為。しかも、親は子供から呼ばれ続けたら、駆け寄らざるを得ない。なので、親である神様は駆け付けてくれ、神名を流した土地やそこに住まう人々の「おたすけ」になる。ひいては、神名を流す人の溌剌とした態度や勇んだ声という「にをい」を振りまく「純粋なにをいがけ」である。

 私は、個人的には神名流しを「にをいがけ」と考えることも大切ですが、一方で上記の①②の理由から「おたすけ」なんだと念頭に置いて実践することで、全く違った気持ちでできるのではないかなぁと思いました。

 まさに、「おたすけ→にをいがけ」の順序です。


 最後に、どーでもいい話です。

 私が近所を神名流ししていたら、後輩の車が通りかかりました。すると彼はわざわざ車を止めて、私に声をかけてくれました。彼は未信仰ですが、よく私のフェイスブックなどで「神名流し」という表現を見聞きしています。

 彼は車の窓を開けて言いました。

「先輩、シンナナガシ、お疲れさまです!」

 シンナナガシ、、、しんなながし、、、、シンナナガシ、、、、シンナ流しーー。

 あ!!! 「神名(かみな)流(なが)し」のことか!

 私は彼に「これはね、『かみなながし』って言うんだよ」と言ったら、「そうなんですかぁ」と顔を赤らめていました。

 自分の当たり前は、当たり前ではない。

 教語の読み方一つの話ですが、信仰者として新たな発見をしました。

 ちゃんちゃん(終)



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