スポットライトがあたる場所 見えない世界のワンダーランド(9)

『タイム・マシン』などのSF小説で知られるイギリスの作家H.G.ウェルズの『盲人国』という1911年に書かれた短編小説があります(岩波文庫「タイムマシン他九編」に収録)。
それはこんな話です。

南米エクアドルのアンデス山脈の奥地に、大昔の大規模ながけ崩れによって外界から閉ざされた地域があった。
その温暖で平坦な閉ざされた土地に住む住民は全員が何世代にもわたって盲目となる奇病にかかっていたため、この「盲人国」では「視覚」を持たない人々により独自の生活と文化が築かれていった。
ある時、登山隊に参加していたガイドの青年が滑落事故の末に偶然この土地の中に迷い込んだ。
彼はこの土地の住民すべてが盲目であることに気づくと、目が見えている自分は圧倒的に優位な立場に立ち、この国の王にすらなれるのでは、と夢想する。
ところが彼の予想に反して、彼がいくら自分が視覚でみている世界の素晴らしさや色や光について語っても、そもそも「視覚」という感覚を知らない住民たちは彼の話を信じようとも認めようともしないのだった。彼を「全くわけのわからない話をする未熟な人間」とみなした住民たちは、やがて自分たちのように「正常」な世界を認識できるようにと、彼に目を取り除く手術をすすめるのだった。

人は自分が感じる感覚情報を材料として、自分の見ている世界をそれぞれ個々に作っています。
なので実際には誰もが自分だけのオリジナルな世界を見ているのですが、大多数の人の見ている世界が似通っているために「誰にとっても共通の世界が自分の外側に広がっていて、皆でそれを見ている」と思い込んでいます。

たいていの人は自分で見ている世界を自分で作っているとは思いもせず、自分が本当は世界全体の一部しか見ていない、とも考えません。
生まれつき同じ世界を見ている人にとっては見えている世界がすべてであり、そのせかいに元々「存在しない」もののことを考えたりはしないからです。
このような思い込みは、「盲人国」が書かれた100年以上前も今も変わりません。
それぞれの見ている世界にそれほど違いがないのなら、いちいち細かい違いを気にせずに同じ世界を見ていることにしたほうが社会の中で生活や仕事をするのにずっと効率的だからです。

でも、この思い込みには問題な点があります。
それは、大多数の人が「共通で唯一の世界」と思っている世界に含まれないものは「存在しないもの」と見なされたり、その世界とは違う見え方の世界が存在することが認められないことです。

「盲人国」の住民たちは「視覚」という感覚を信じることも認めることもできませんでしたし、私が現在生きている世界でも、大多数の人が見ている世界とは異なる見え方の世界があるとは考えられません。大多数の人が感じている五感以外の感覚が存在することもほとんど認められていません。

私は、自分たちが見ている世界というのは、無限に広がる世界の中の限られた場所にスポットライトを当てて見ているようなものだと考えています。

大多数の目が見えている人は、自分たちがスポットライトを当てている部分だけが世界のすべてなのだと思っています。
でも本当はその外側にも世界は広がっています。
そして例えば犬や猫や鳥、昆虫などは人とは違う世界が見えています。
それぞれが自分の生存に必要な感覚情報を集めて自分の見ている世界を作り上げているので、スポットライトを当てている場所が人とは少し違っているからです。

世の中でこれだけ「多様性」という言葉が氾濫しているのに、自分たちが見ている世界が唯一のものだというのが常識で、違う世界の見え方のバリエーションはいくらでも存在する、ということについてほとんど誰も語らない、というのはなんだか不思議な気がします。
私は目が見えなくなってから、人や動物が発する愛情のエネルギーや身体が発するいわゆる「気」のエネルギーを光や音と同じように感じるようになりました。
これは現代の大多数の人がスポットライトを当てている部分の外側にあるらしく、これを感じている人は少数です。
特に愛情のエネルギーは、動物たちは今でも敏感に感じていて、特に人と暮らす動物にとっては食べ物と同じくらい大切な「見えないごちそう」のようなものです。

私が感じる「愛情のエネルギー」の質感の美しさについて私が話し手も、ほとんどの人はあまり共感してくれません。
そんな時、私は「盲人国」で視覚で見ることのできる光や色の美しさについて語っても住民の誰にも理解されなかった目が見える青年のような気持ちになるのでした(笑)。

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