人として

もうすぐ冬休みが終る。
いやだなあ。

今日寝て明日起きたら成人式らしい。
20年ほど生きてきたにも関わらず、結局何も分からないままに。

昔は常に死にたい、又は消えたいと思って生きてきました。
では、今はどうだろうか。
今ここで楽に死ねると言われたら、
「今はいいけれど、またいつか死にたくなった時は来てほしい。」
と言いたい。

現在は人と会わず自室で引きこもっている時間を「人間として死ねる時間」
とし、逆に人と接している間は人間として生きています。

ですので、大学に通う又はアルバイト等をする際は、服を着て、歯も磨き、申し訳程度に化粧をして、人に会えば挨拶に努め、機会があればコミュニケーションにも喜んで致します。
こうして、私は他者に人間として認知される程度に生きています。

一方、死んでいる時間は他者には一切会いませんので、他者に私の存在を認知されません。ですので、私は人間を辞めて、社会から消えたものとして生きます。

もうこれでいいじゃないか。
こうすれば皆楽になれるんじゃないか。
しかし、今ではもう死にたいとすら思えなくなった自分の感性が恥ずかしい。

元から私はある程度のことには感情を動かされず、周囲が何かに熱中しているのに私は何をしても心の底から熱中できない。
そして、どこか一線を引いて接してしまう。

しかし、私はこのゴミのような感性が恥ずかしいがために、隠したいがために必死に楽しい振りをする。だって、つまらない人だって思われるじゃないですか。

そんな私から遂に死にたいとう感性すら無くなってし待った今、私は図太く生きれるようになってしまったのかもしれません。

これを生きやすいとでも言うのでしょうか。
何も感じないことが生きやすいというのでしょうか。
それならば何をしても深く感動しない私に生きている価値はあるのだろうか。


そういえば明日は成人式でした。
成人式が終れば学校が再開します。

成人式に行けば、学校に行けば、誰かが人間として生きている私を認知してくれる。

もう今はそれだけを頼りに生きます。







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