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モンゴル ウランバートルマラソン ~初海外レースの備忘録~

5月24日土曜日、ウランバートルマラソンのハーフマラソンに出場しました。今回のnoteは誰かに伝えたいというよりも、自分自身の経験として今後に活かすために、タイトルの通り個人的な備忘録として書いております。

ウランバートルの街並み

ウランバートルに着いて、まず感じたのはモンゴルの街並みが想像よりはるかに発展していることでした。空港は想像通り地平線まで続く草原景色でしたが、車で1時間弱移動したウランバートルは高層ビルが立ち並ぶ、東京で言えば渋谷のような街並みでした。
話によると、ここ10年間で見違えるほど変わったということで古い建物と新しい建物、それから建築中の建物が入り乱れておりました。
また色彩や形も様々でした。ロシアの文化とヨーロッパの文化とアジアの文化が混ざっているそうです。
外を歩いていても渋谷以上にいろんな国の人をみかけました。

空港からウランバートル市街へ向かう車内からの景色
異国文化の混じり合う首都ウランバートル

そして面を食らったのは交通状態です。そこかしこから常にクラクションが聞こえ、センターラインもただの目安とばかりに強引な車が多かったです。笑
さらには路肩にはびっしりと駐車車両が並び、ぱっと見では信号待ちの車と駐停車中の車と見分けがつかないほどでした。

そしてレースでは路面の硬さにも苦しみました。コンクリートが日本より硬いのか、足への衝撃がきつく感じられました。加えて、ところどころに割れた路面や窪みやあって足運びに苦労しました。

それから標高も1300m以上あり当然ながらに呼吸への影響はありました。日本でも菅平など有名な合宿地では1300mはさほど珍しくないですが、都心部でこの標高は不思議な感じでした。

また緯度が高いため日照時間が長く、朝5時くらいから夜9時くらいまでは明るかったです。気づいたらもう夜になっているなんてことも多々ありました。

クラクションの鳴り止まない道路

食文化の違い

食事については肉製品が多く、牛肉やラム肉、ソーセージ、チーズなどの乳製品など基本的にどれも美味しかったです。スーパーではコシヒカリも売っており、特に日本人に合わないということはなく、食べるものに困ることもなかったです。
一方でとにかく量が多く、肉製品が多いこともあって単純に消化不良でした。
また注文から食事が出てくるまで1時間以上かかることがざらにあり、タイムスケジュールを組むのに苦労しました。営業時間内であっても今日はもう終わりだと言われることも多く、食事に奔走させられました。

それからお酒の種類も豊富でスーパーやコンビニでもたくさんのアルコール類が置いてありました。レース後にチンギスハンというウォッカを飲ませていただきました。度数は強いですがスッキリとした飲み口でした。
やはりチンギスハンは英雄なんですね。通訳の方がモンゴルのみんなの父だと話してました。

レース後の控え室(ちゃんとご飯の写真撮るの忘れました…)

言語の壁

これは当然ではありますが、言語の壁はしっかりと感じました。今回は通訳の方に終始同行していただいたのですが、完璧な日本語というわけでもなく、特に大会前日のカンファレンスでは少し苦労しました。
海外招待選手はケニア人・ロシア人・フランス人・イギリス人・ドイツ人と日本人でしたが、他の国の方々はみな英語は問題ないようです。

モンゴルでは若者は最低でも3か国語は喋れないとバカにされるんだそう。
海外レースを経て英語を勉強し始める話はよく耳にしますが、実際に体験してみて深刻に感じました。

特に困ったのはスタートの時です。スタートの15分前から招待選手の紹介をされながらコースに並んでいきます。とりあえず自分の順番になったのは分かったので手を上げて列に入りました。10分前には全員が並び終わり、モンゴル語と英語で何やら放送していました。よくわからず時計を見ていたら、いきなり号砲が聞こえスタートしてしまいました。まだ8分もあったのでまさかスタートするとは思わず、勢いにのみ込まれてしまいました。
食事の時にも思いましたが、時間に対する感覚が違いすぎます。笑

一方で現地の人に助けられる場面もたくさんありました。意外にも日本語の分かる現地人はたくさんいました。大会アテンドの方も何人か日本語で話しかけてくれて、英語・日本語交じりで会話することができました。
レース中にも途中で前を走っていたモンゴルの方に、「change?」と言われて「ok!」と前に出てると「arigato!」とお礼を言ってくれました。しばらく前を走っていたら給水ポイントでスペシャルドリンクを渡してもらえました。自分のスペシャルドリンクは置いておらず、ジェネラルウォーターのみだったのでありがたかったし、何よりレース中に日本語でお礼を言われたのが嬉しかったです。

わけもわからず飲み込まれたスタート

自立の必要性

今回何よりも感じたのはレースのことよりも、現地の人の自立性です。ずっと同行してくれていた通訳の方は23歳だそうですが、千葉の大学で日本語を学び通訳の仕事を始めたそうです。マラソン大会のアテンドは初めてとのこと。日本語に関してはつたない部分もありますが、日本人のアテンドを一任されてこなしていました。
日本の23歳と言えば社会人2年目とかで、経済的には自立していたとしても自分の仕事というものをこんなにも明確に意識しているでしょうか?ほとんどが上司や先輩の仕事の補佐的な役割ではないでしょうか?

他の国の招待選手も僕より若い人が多かったですが、海外では日本のように実業団というものはなくプロか市民ランナーのどちらか。自分自身で結果を作って売り込まないといけないそうです。
僕は今回は故障からの立ち上げ段階だったこともあり、「経験を積む」ことを目的としており、レース自体は練習の一環でした。この選択は間違いではないとハッキリ思ってますし、「経験を積む」ことはできたと思います。しかし、そもそもこの海外レースの舞台に合わせることができなかったことに不甲斐なさを痛烈に感じました。

モンゴルの方や海外の選手を見て、精神的な自立性という面では僕自身含め日本人には稚拙な部分があるなと思いました。

大会の盛り上がりについて

本大会はモンゴルで一番大きなマラソン大会だそうで2万人規模の国際レースですが、盛り上がり方にも独特な雰囲気がありました。
まず前述の交通の非常に多い大通りを封鎖して市街地を駆け巡るのですが、ランナー以外の市民もここぞとばかりに道路に繰り出します。朝から道路は封鎖されているので、スタートよりも早い時間帯は歩行者天国のように人が入り乱れ、スケートボードなどで遊ぶ姿も多く見られました。
スタート時には一度は歩道に引きますが、4時間を過ぎたあたりからはまだまだ走っているランナーもいますが、住民もまた道路に出てきてお祭りのような賑わいでした。
さらにスタート付近の広場では特設ステージで音楽グループが歌っており、屋台からは焼き肉の煙が立ち上がりフェスのような盛り上がりでした。

スタート前のコースに溢れる住民たち


公道を封鎖して開催する以上は、日本でもこのようなランナー以外の人を呼び込む取り組みがあっても良いと思います。

来年への誓い

語学の面でも、仕事観についても、また自分の力を発揮できず戦えなかったことに関しても、未熟な自分に恥ずかしさを感じました。
ただこれは日本がそれだけ恵まれているということでもあると思ってます。会社に支えながらじっくりと成長していくだけの経済的余裕もあれば、日本語だけで何不自由なく暮らしていけるほど確立された国内市場の裏付けでもあるからです。
それでも時には、世界の厳しさと日本の豊かさ(を守るための生ぬるさ)は意識しておくべきだと思います。
そして来年はもう一度この場で戦える自分になっていたいなと強く思います。


最後にこんな機会を与えてくれた池本さんと、現地で安心して走れるよう助けてくれたTemulnnさんに最大限の感謝を捧げます。

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