将来のはなし

知り合いの女の子で、画家を目指して芸大に通っている人がいる。現代は便利なもので、SNSを通して夢に向かって頑張る彼女の日常や言葉は簡単に私の目に入るようになっている。
私も小さい頃は絵を描くのが好きだった。小学校低学年くらいまでは市の絵画コンクールの入賞者常連だったし、「その道に進めば画家さんになれるねえ」みたいな大人の甘やかしを享受していた。同い年の子の中で、絵をちゃんと練習している人/そうでない人の差が外部からの作品の評価に直結するようになったのは、いつからだろうか。でもその頃には私はスケッチブックをあまり持ち歩かなくなっていたと思う。

好きなものは山ほどある。
絵を描くのも、歌うのも、舞台の上で演技するのも、本を読むのも、文章を書くのも、語学も、大学の専門の勉強も、裁縫も、料理も、コーヒーを淹れるのも、ギターを弾くのも好きで、ちょっとはやったことがある。
やればできるタイプだとは思うし、少なくとも上にあげたものくらいは、完全な初心者がせーので挑戦した場合、平均よりは出来が良いと思いたい。
でも、何か一つのことを選んで、それに向かって努力する時間を過ごしてきた人と比べれば、私の「できる」なんて無意味に感じてしまう。
特に、21歳という微妙な年齢は、努力してきた人たちの夢が叶いそうになる瀬戸際が目の端に映るタイミングかもしれない。7歳の時に一緒に市のコンクールの特別賞に入選したあの子は、もうすぐ個展を開くらしい。

好きなものを使って何者かになることができないことを受け入れるのは難しい。

と言ってもまあ、こんな悩みなんてモラトリアムを送る大学生の中でもある一定数は抱えるありふれたものなのだろう。そういえば私のような悩みを抱える人を「器用貧乏」と呼ぶらしい。確かに。でも自分に器用貧乏のラベルを貼ってしまったら、その言葉を限界を決める時の言い訳にしそうで怖くて、私はまだ器用貧乏を自称するに至れていない。

本当に余裕がない。
敬愛する藤井風氏が新曲を出した。"Workin' Hard"という曲は、頑張る人を"You've been workin' hard"と労わる内容だ。その中の一節にこんな歌詞がある。
『みんなほんまよーやるわ めっちゃがんばっとるわ わしかて負けんよーにな ひそかに何かと務めるわ』
この「みんなほんまよーやるわ」の余裕が、今の私には無い(ことがまた悔しい)。頑張ってそうな人、自分より成功に近そうな人を見ると普通に焦る。表向きでは称賛したり労わったりする社交性くらいは流石に身に着けているけれど、内心穏やかでないのは確か。「皆頑張ってるよねお疲れ様会!」みたいな名目の飲みの帰りの電車でひとり就活アプリを開くときの心寒さ。大人の社会が確かにもうすぐそこに来ているのを皆が肌身で感じている。

とはいえ、私が羨んだ人もきっと私みたいに不明瞭な未来に怯える夜はあるだろう。ああそれに、私のことを素敵な将来が待っているに違いない優秀な人、と羨んでくれている人もいるかもしれない。張りきった虚勢はそのあと空気を抜いて仕舞い込むところまでが大変なのだ。
謙遜する余裕もなく、自分は本当に善い人ではないなと考える日もある。自分の意見を曲げるならその前にいったん口論を挟んでから、みたいな性質は、色々あった十代をサバイブするために必要な毒だった。辛いことがあるたびに、好きな小説や映画のニヒルで意地悪なキャラクター(例:ドラコ・マルフォイ)を心の中に召還して、思いっきり皮肉を浴びせてもらっていた。特に意地悪な女の子には特有の魅力がある、というのが持論だけれど、語りすぎると筋が逸れそうなのでまたの機会に。とにかく、私が生き延びるために傷つけてきた人というのが一定数存在する。そういう記憶は決まって私が弱った夜にわざわざやってきて、眠れないでいる私のベッドを取り囲むくせに別に私を責めたりはしないので、一層罪悪感に苛まれることになる。こんな私に、自分の未来を悠長に憂う贅沢が許されていいんだろうか、等々。

「将来の夢」と呼んできたものを本当にライフプランに組み込むか、回り道になることを予期して「あれは夢だった」と折り合いをつけるか、そんな判断を迫られている気がする。「夢」って挑戦するチケットくらいは誰でも持っていると思ってた。でも就活というでけえ波に乗らずに自ら小舟を漕いでゆく勇気も気力もないかもしれない。てか将来の夢ってなんだったっけ。「れじのおねえさん」も「れすとらんやさん」も全部アルバイトで叶ってしまったけれど。私の中に渦巻く、何かを表現したい、形にしたい、形にしたものが誰かから愛されて、あわよくばお金にもなって、それで食べていきたい、みたいな欲求はそもそもはっきりした形にもなっていなくて、計画なんて立てようがないけれど決断の時は迫り、形にしている時間はないかもしれない。(退職した後アーティストとしての道に目覚め、古民家でカフェとかやりながらエッセイ書いて画廊に絵飾ってます!みたいな夢の叶え方もあるけれど、そんな先のことを当てにできる人なんているのか)

ああ、もっと自由な人生でありたい。大学生になれば夢に向かって無限の可能性を追求しているような気がする~と思って受験勉強を頑張っていた高校生の私に謝りたい。実際の大学三回生の私は、他人からの返信を待つだけで一日を溶かすような、しょうもないことに雁字搦めになっている情けない人間かもしれない。今の私にとって一番大切なものってなんだったっけ。

こういうことを考えるときになんとなく支えにしている言葉がある。
中学、高校の部活の同期のうちの一人と、半年に一回近況報告会をしている。お互い人生の意義とかについて考えたり、宇多田ヒカルの曲を聴いたりするのが好きなタイプで、私たちの人生観は半年ごとにめくるめく変化していくのでその答え合わせをするのが毎度楽しみなのだ。日本で一番か二番に有名な大学でしっかり秀才としてやっている(しかも美人な)彼女は、恋人と付き合って一年半になる。恋人さんは穏やかなタイプらしく、二人で意識を高めあうこともなく、ただ一日中ゴロゴロするのが至福(そんな自分を客観視して意識の低さに萎える時もあるが要はそこも含めまあ幸せ)だという。そんな彼女がこの前言っていたのだが、「人間死ぬ瞬間にはキャリアも貯蓄も何も残らないんやから、自分のもとに残る、『誰を好きでい続けたか』『誰と過ごしたか』みたいな記憶に価値を置くのは別に悪いことじゃないと思う」らしい。なるほど、高校の時には「起業して社長になる!」と息巻いていた奴が言うと説得力があるような、恋愛に呆けているとも取れそうな。でも、将来のため~とか、自己分析~みたいな「成功のためにやっておくべきこと」的言説に辟易したときに、そんなことより好きな人の腕の中を一番の安息地帯として確保することにエネルギーを注ぐという日々の送り方を否定する必要はないのかと少し息が出来るようになる気がする。

まあ特にオチも解決もしてないのですが、最近考えていることを駄々っと言語化して記録しておくことにしました。半年後の彼女との報告会でうまく昇華できたらいいな。それでは。

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