夜の遊び

「noteで久しぶりに遊ぼー」と思ってキーボードのペンを執るといつも『ご自由にお書きください。』って言われるの、とても良いわね。どうもどうも羆です。何かを残そうという想いが迸ったわけではなく、もう少しだけ、お酒のお供の夜遊びをしたいと思って走り始めたわけですが、呟きたいも叫びたいも忘れたくないナニカもない気分で文章を書き記すという新しい遊びをしたい、そんな熊なのだぜ。(4分ぶり2度目の自己紹介です)


音楽を好き。 なんの話かとお思いでしょうね。
私もそう思います。

私の父親は農道を喧しいバイクで走り回りギターを愛する不良少年だったのですが、まーまーわりかしお嬢さま育ちの母親を、そのエンジン音とギターサウンドで堕としたのかどうかは知らんのだけれど仕事から帰って来るとポロリとだったりジャンジャカだったりギターを爪弾き掻き鳴らして、まだ幼少期の私には人生や恋愛の悲哀の歌詞を『覚えろ!そして俺のギターで歌唱しろ!!』というファンキーな男だったので、それはそれは豊かで歪で楽しい素地をいただいたと思っています。父親がどのぐらいギターを愛する少年から老年になったかのエピソードをひとつ披露すると、いま彼の傍にあるギターは、名作と呼ばれる壊れて鳴らなくなった希少モデルをオークションでお安く落札して、自分で削りを施して良い音を奏でるプロダクトに蘇生しています。(しかもそれが2本ある)

私には絶対に出来ない愛の形だなって思う。

いや、、ウソだ。布なら私にも出来るしやっているわね。。私が彼の遺伝子で出来ていることは常々見出していたけれど、遊びへの愛に於いても言えることが分かって嬉しい。時間なんてものはどうでも良くて、言語化はしてみるものだわ。愛なんていう大袈裟で捕まえどころがないことを勢いで綴ってしまったけれど、愛じゃなくても物事が遊びかそうじゃないかって、とても難しい。難しくない??


私は、私の把握しているわたしの性質上「遊び」であること、怒られるかもしれないけれど全部の前提がそれであることを信条としているところがどこかしらにあって、目の前の対話者がそうでない場合にはそうでない言葉で通信するけれどきっと人によってはバレているのだろうなって思う。切実な情報交換だったり相談だったりするシチュエーションの場面場面では真剣なのよ??テキトーが適当でない会話は、私なりに真摯にラリーをしている。(つもり)ただ根本では、決して私なんかが作用するわけがないと感じている。それを遊びと宣ってしまうと不誠実が如実になってしまうことは知りつつ敢えて確かめる。お母さんになる前の対話を生業としていた長い長い時代にそれなりに結果を出していた自負はあったけれど、管理者やリーダーからはいつも「嘘っぽい」「心がない」って言われていたのはコレなんだと思う。まーもー仕方がないから、局所局所でバレなければそれで良いと思うしかないし、こうなったらこのまま終わりまで進むつもり。

なので私の存在は、音楽みたいだったら良いなと思っている。本当にもしも私が音楽だとしたら鳴っている音には意思や心があったりなかったりするし、ただの遊びのこともあるけれど、その不安定で脆弱な核はきっと聞こえ方で希釈されたりアンプを咬まして大音量だったり、そのまま届いたりするのだろうから、結局は耳に委ねてしかいない。邪魔なことも求められるようなことも、その瞬間はそこに強く濃くあったけれど最後には忘れられるみたいなこともあって、それが本望。ただ、なるだけ。


なんだか『私は音楽になりたい』みたいな日記になったわね。なりたいわけではないのだけれど、なりたいとどっちでも大丈夫なぐらいにテキトーな人間です、私は。※ちなみに今夜のBGMはgirl in redです。もしも彼女の声がきこえていなかったら、多分こんな遊びにはならなかったクマー🐻




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