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私と日記、それからポエム

中学生頃から自分の気持ちを文章で表現することが好きだった。毎日きっちり日記を書いているわけではないけど、学生の頃からなんとなく日記を書くという趣味、習慣は続いている。

日記を書き始めたきっかけは、中学のスクールカウンセラーの先生との会話だったと思う。当時の私は時間や感情が過ぎ去っていく早さ、いつかすべてを忘れてしまうんじゃないかという悲しみとも恐怖ともとれる感情を抱いていた。そのことをカウンセラーの先生に相談した。
「日記を書くと良いよ」
先生は軽やかに答えた。
それがきっと私が文章を愛するきっかけだった。

高校生の頃よく教室のすみっこや家に一人でいる時にポエムを書いていた。本当は絵で自分を表現できる人になりたかったけど、同じクラスに絵がとても上手い人がたくさんいて当時劣等感の塊だった私はポエムに逃げた。
するとポエムが私の居場所になった。

国語の授業で俳句や自由な詩を書き、それを匿名で読み合うというような授業があった。匿名で自由な詩が書ける、ポエムが書ける!と私は興奮してしまい長文ポエムを提出した。
プリントに記載されたみんなの俳句やポエムの中で、私のポエムは明らかに浮いていた。あまりにも他にくらべて長過ぎる…。
「なんだこのポエム、ながすぎ笑」
みたいな声がちらちら聞こえてくる。地獄のような時間だった。でもまあいっか匿名だし、と自分の心を鎮めていると、
「これ書いた人、気になるな、名乗り出て」
国語の先生が言う。
静まる教室。心のなかでブチ切れる私。
仕方なく手を上げた。
すると授業を一緒に受けていた男の子が
「よくわかんないけどすごくかっこいい!」
と私のポエムを褒めてくれたのだ。
あの時の男の子ありがとう。今ではポエム、短歌、文章、ぜんぶ大好き人間になってます。

でも一方で言葉の残酷性みたいなものをすごく感じていて、それは暴力的な言葉という意味ではなく、感情を言葉に変換する際に削り取られる感情が少なからずある、という感覚だ。なんだか説明するのが難しいけど、私にとっては感情は形がないもので、言葉は形があるもの。形のない感情を表現するには言葉だけでは足りないとよく思う。だから形のない「音楽」の要素を持つ短歌というものを私は今なにより愛しているのだろうな。

これからもしかしたらnoteやツイッター(X)で自由ポエムを投稿することもあるかもしれません。またよろしくです。

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