真鍮の皿の上 2
いつも煙草を吸う時はベランダに出る。さっき開けたばかりの煙草は残り10本。ラグビーはとっくに終わった。鍵と通勤用バッグとビルケンシュトックのトングサンダルが無くなっている。彼女はいつ出て行ったのだろう。メッセージを入れるが既読にならない。次の煙草に火を付けようとして吐き気がした。子供の頃から怖い話や不思議な話が好きだった。一度でいいから幽霊を見てみたいと思っていた。でも思うのと体験するのは話が違うんだよ。
灰皿代わりにしているハート型の缶に伸ばした指はもう震えていない。ベランダからリビングに入る。鼻から吸って口から吐いて、鼻から吸って口から吐いて。システマの呼吸はリラックスをもたらす。大丈夫。鼻から吸ったところでリビングの扉まで来た。口から吐いて扉を開ける。鼻から吸った所で浴室からポチャンと音がした。口から出たのは溜息だ。怒りと戸惑いと恐怖が混じった溜息。ここは私の家だ。僕と彼女のマンションだ。
幽霊より生きてる人間の方が強いんだと武術の達人がYouTubeで言ってた。100年未満の霊体ならば恫喝すれば消えるとも達人は言っていた。洗面所に靄ってた湯気は水滴に変わって鏡に跡を残している。半透明の折戸越しに何かが浴槽に浸かってるのが見える。
「…ぷぁぁ」
あぁ、僕が長引く緊張に耐えれる筈がない。すぃ、と折戸に指をかけちゃった。いた。
女が湯船に浸かってる。髪が裸の肩を覆い、そこから先は入浴剤で乳白色に濁ったお湯で見えない。見えるのは肩から上と湯面を弾く数本の指先。指先が弾くとぱしゃん、と湯面が揺れる。ぱしゃん。幽霊って質量あるんだっけ?あぁ、YouTubeで見た横澤プロダクションの白い手には光に照らされ影があったような…。女の顔を見たっけ?と思った時には女と目が合っていた。目がある、鼻もある、口もある、眉毛だってあるじゃないか。女という言葉は間違っていたかもしれない。少女、学生、子供、そんな言葉が浮かんだ。マジか。夢や妄想なら僕の中に種子があるはずだ。でも誓ってロリータコンプレックスなんて意識した事ないぞ。僕の性的対象が少女なんて絶対にあり得ない。一瞬で頭が沸騰した。沸騰すると僕の口調は冷静になる。
「あの、貴女は誰なのか教えて頂けますか。僕は貴女と会った事ありましたかね」間抜けさに悲しくなったが、少女の顔を見据えたまま話しかけて気付いた。この顔は見た事ある。いや正確には顔の特徴だ。同じマンションに住んでる子供、あの男の子の顔つきと似てるのだ。もしかしたらあの男の子にはお姉ちゃんがいて、お姉ちゃんが家を間違えてしまったんじゃないか?そうだよ幽霊でもなければ僕がおかしくなったんでもない、お姉ちゃんが家を間違えちゃったんだ。強張ってた身体から力が抜けた。見つめ合っていた少女の顔も少し緩んだ気がする。あぁ、君も怖かったよね。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。怖かったよね、ごめん。ごめんね」あれ、お姉ちゃんの表情が強張った。「怖くないよ、僕は怖い人じゃないよ、大丈夫、安心して」お姉ちゃんは耳を塞いでいやいやをするように微かに首を振る。話しかけちゃいけないのかな。子供のセンサーを舐めてはいけない。子供は全てを見抜けると思ってる。だから子供が苦手なんだ。まずは僕自身をリラックスさせよう。出来るだけゆっくりと腰を屈め、そっと片手を床につけ胡座をかいた。鼻からすぅ〜っと深く吸う、口からふぅ〜っと細く長く息を吐く。鼻から吸った空気が全身に行き渡るイメージに集中し、口から空気を吐き出す度に僕はクリーンになっていく。鼻から吸って口から吐いて。いつの間にか目を閉じていた。悪い癖だ。そぅっと目を開け少女を視界に入れると耳を塞いでた指はお湯に浸かった髪を撫でていた。湯面を見つめてる目が僕を捉えてるかは分からない。忙しなく髪を撫でる様子から居心地の悪さが伝わってくる。ごめんね君の方が混乱してるよね。何をすべきか優先順序を決めなくては。可哀想にあの男の子の家族も心配してるだろう。警察には届けたかな…いや、まてまて。この状況で警察はマズイだろう!何歳か知らんが裸の少女と成人男性が一緒に居るんだぞ。まずは風呂から上がってもらって服を着させなきゃ。狭い洗面所に服は見当たらない。洗濯機の蓋が開いてる。もしかして。「ぁぷぁ」出来るだけゆっくり立ち上がって首を伸ばせば洗濯機の中が見えるかも。ちゃぷ。お姉ちゃん待ってて…無い。洗濯機には何も入ってない。リビングには無かったはずだ。彼女は整然とした部屋が好きだからリビングが散らかってるのを見た事がない。でもホコリはOKらしい。とにかくリビングに見慣れない服は無かったはずだ。そもそも僕はずっとリビングに居た。洗面台の三面鏡になってる裏には彼女の化粧品(彼女は武器と言う)があるけど他に何も入らない訳じゃない。洗面台下はどうだろう。先ずは洗面台下の扉を少しだけ開けてみた。彼女が毎月使う物とハンガーとトイレットペーパーペーパーがテトリスのように入っていた。三面鏡に目を向けると、鏡に映る浴槽に湯面しか見えない事に気付いた。うちの浴槽は少し浅めで長い浴槽だ。僕が膝を伸ばしても余裕がある。「お姉ちゃん!」薄手のロンTを腕まくりする暇もなく湯船に両手を突っ込んだ。浴槽の底を弄りながら少女の身体を探した。飛び跳ねるお湯で腹までぐっしょりだ。いない。指に触れるのはお湯と浴槽の底だけだ。いない。浴槽には何も沈んでいない。お湯に腕を突っ込んだまま首を回して浴室に目を走らせる。僕以外誰もいない。息の上がった呼吸音と波が治っていくお湯の音と聞き覚えのある振動音だけが聞こえている。携帯が震える音だ。どこだ、何処から聞こえて…洗面所の床でのたくる携帯が見えた。「ははいっ!もしもし!いま」「私」彼女の声だ。「いまお姉ちゃんが、いや知らない子なんだけど知らない子がお風呂でイヤお風呂から」「……」「もしもしっ!聞こえる?繋がってる?もしもしっ!」「大丈夫、聞こえてる」「大丈夫って何が、君は大丈夫なの⁈どこにいるの⁈いまお風呂で」「大丈夫、今友達の所にいる」「友達⁈誰、僕の知ってる人⁈なんで、いや、そんな事より今さお風呂場で」「あの子はもういないんでしょう」…え?「もしもし、聞こえてる?もしもし?」「…うん、聞こえてるけどあの子って、いや、あの子がね、あの子って知ってる子?えっとあの子がいなくてね、お風呂からいなくなってね、知ってる子なの?大変な事になったかもしれなくてね」
「あの子は私達の子」「……え?何言ってんの?僕達に子供なんて、どういう事だよ!誰との子供だって⁈」「私とあなたの子。とにかくまた電話するね。奈緒美の家にいるから心配しないで。じゃぁ」彼女の声が消えた。僕の耳には何も聞こえない。画面の時刻は0時を過ぎてた。
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