真鍮の皿の上 2 真理T 2023年10月12日 09:07 真鍮の皿の上に鍵が1つ。病気をしたせいか加齢によるものなのか注意力が散漫になった。出掛ける時、鍵を閉めようとして鍵が無い事に気付く。目に付く所に鍵を置くように言われフリマで真鍮の皿と小振りの引き出しを買い、皿の上には鍵を、引き出しの中にはマスクとマフラー等を入れている。それで鍵問題は解決したか?そうでも無い。視野の範囲は注意力と比例しているらしい。ラグビーW杯予選グループ最終戦。前半は日本もアルゼンチンもいい戦いだった。予想してた程アルゼンチンのペナルティも無く、日本のスクラムは強かった。小学生の頃ラグビーに魅了された。社会人では新日鐵釜石の全盛期、大学ラグビーは同志社が強かった。正月明けて少しすると社会人トップと大学トップの試合がある。大学リーグではダントツだった同志社が、新日鐵釜石に翻弄され尽くすのが不思議で仕方なかった。その頃の社会人は老けて見えて、年若く体格の良い学生の方に分があると思っていた。でも新日鐵釜石は凄かった。中学で学校の寮生活に入るまで冬休みの楽しみはラグビー中継と宝塚の放送だった。ベルサイユの薔薇は全巻持っていたし、漫画とは違う宝塚の魅力にも惹きつけられた。「もう直ぐ後半戦が始まるよー」声をかけてからあれと思う。「絶対に前半残り15分から観たいから早目にお風呂入るわ」ラグビー中継は19時45分からだったので19時前には浴室へ行ってたはず。「聞こえたー?もう後半始まるよ。あ、選手達がグランドに出てきた」かちゃ。すとん。「長かったね。あぁ、始まった。間に合ったね。何か飲む?」振り向くとリビングのドアは閉まっていて洗面所の明かりが廊下に広がっている。あれ?ドアが開いた音がしたと思ったけど、と思いつつ目はTVから離れない。「ねえ、ちゃんと声掛けたからねー。後で怒んないでよ。…大丈夫?」ここにきてほんの少し不安になった。お互い歳はそれ程離れてない。風呂場での事故が頭に浮かんだ。リモコンの音量を少し上げて風呂場へ向かう。浴室は電気が点いてて折り畳み戸は閉まっている。扉を通してうっすらとだが浴槽に浸かってるのが見えた。「ねえ、大丈夫?」返事がない。心臓がキュッと縮まる。「ねえ…」折り畳み戸を開けると、こちら向きに女がお湯に浸かってる。髪が湯面を覆っている。長い髪。湯気がたちのぼる浴室の中で顔はこっちを向いている。「だ…」声を出す前に息が止まった。幽霊だ。浴室も洗面所も電気は点いてる。まだ21時にもなってない。身体が動かない。目をつぶると同時に腰が抜けた。電気点いてて夜中でもなくて温かそうなお湯に浸かってて髪が長くて電気点いてるのにラグビーやってるのに後半始まったのに「…ぁぱ」幽霊が喋った幽霊って喋るんだ風呂にも入るんだ夜中じゃないのに夜中じゃないじゃないか!尻餅をついたまま後退りするとトイレの扉に背中がぶつかった。膝から下はまだ洗面所だ。浴室から湯気が漏れて洗面所が少しモヤっている。足だ。足を洗面所から出さないと。動かない。背中をトイレの扉につけたまま足に手を伸ばそうとして腰とハムストリングが攣りそうになった。右手がスウェットパンツを掴んだ。ラッキー。右足を洗面所から引きずりだすと洗面所と廊下を区切る引き戸を閉めた。「ゔっ」左足に思いっきり引き戸が当たった。痛い。痛い?夢じゃない?だって電気は点いてるし夜中でもないしさっきまでラグビー見てたじゃないか。落ち着け日常だ現実だ痛いじゃないか。「…ぁ…」何言ってんだ幽霊。足が痛いんだよ。まだ左足が洗面所に残ってる。足を触られたら気が狂う。たんっ。左足を引きずり出して引き戸を閉めた。バランスを崩して廊下で仰向けに倒れる。息を吸え、息を吐け。システマの動画で見たじゃないか。鼻から吸って口から吐く…マントラのように唱えながら呼吸をしていると少し身体が緩んできた。まだ足は立たない。身体を捻ってトイレの扉を開ける。暗いトイレの中には誰も居ない。四つん這いのまま寝室を見る。扉は開いている。暗いままだ。チクショー中が見えない。這いずって寝室まで行く。クローゼットは開いていて狭い寝室に人が隠れる場所はない。どこにいるの?無事でいて。「リビングにいるのぉ!?」テレビからの歓声が聞こえるだけ。おかしいおかしい。ふと玄関扉を見ると鍵が開いている。数年前、空き巣に入られたせいで家に居ても鍵とロックは掛ける習慣が身に付いてる。どうして目を向けたんだろう。真鍮の皿の上には鍵が一つ。2つじゃない。いまこの家には私しか居ないんだ。 ダウンロード copy #小説 #ラグビー #幽霊 2 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? サポート