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シロクマ文芸部/冬空


 十二月の夜に聳え立つ東京タワーは一年の中で一番綺麗に見える。
濃紺に染められた天幕に映える電飾のオレンジはあたたかそうに光り
澄んだ空気がライトアップの灯りをいっそう明るく発色させている。
 季節はより冬へと進んでるはずなのに、なぜだか11月よりも12月の方が
空気がまろやかに感じる。それは多分楽しいイベントを控えているせいだ。クリスマスや冬休み。あとひと月で迎える新しい年への期待や年末に向けての忙しさ。誰もが無意識のうちに浮き足立つ時期。華やぎの予感が寒さも越えるから、十二月の夜は神聖さと賑やかさが入り交じっている。
 
 その浮かれた空気にほんの三日前までおれも便乗していた。というかずっと十二月を待っていた。サプライズなんて普段はあんまりやらないけど、今回だけはと柄にもなく気合いを入れて、夏から準備に取り掛かっていた。
 クリスマスイブにプロポーズ。東京タワーが見えるホテルに宿泊し、オレンジの光をバックに指輪を渡して「おれと結婚して下さい」とアメリカ式に膝をついて申し込む。それを決行するために二ヶ月前にホテルも予約した。
 さすがに一泊26万のロイヤルスイートは無理だけど、それでもおれにしたら大奮発のいい部屋を取った。エンゲージリングも有名ブランドで購入。ローン36回払いがちと情けないけど、誕生石のサファイアのカットとデザインが彼女好みだと思ったからだ。一世一代のイベントを成功させるために、その二つをひそかに用意して十二月を待った。
 
 優月から「話がある」と電話が来たのは三日前。こういうのは不思議なもので、着信の音だけでいい知らせじゃないと察しがつく。なぜなら優月は言いたいことがある時はこっちの都合なんかお構いなしに「ねえ聞いて!」と一方的に喋りまくっては勝手に満足するタイプで、いつもそうだったからだ。そのゴーイングマイウェイはやや迷惑だが、可愛いくて好きだった。

 なのに今回彼女は先におれに予定を尋ねた。
「いつなら時間ある?」
 予感なんてとうに越えた予知だった。けど敢えて用件は尋ねず「分かった」と返したのは少しでも時間稼ぎしたかったからだろう。まだ分からん…と打ち消そうとする楽観的希望にすがるようにして。
 
 待ち合わせしたのは互いの勤め先の真ん中にある虎ノ門。おれはまだ聞き分けない駄々っ子みたいにわざと約束の時間を遅らせた。夜遅いから居酒屋かおれの部屋にする?と一応聞いたが優月は「いい」とにべもなく断った。声に温度がなかった。
 彼女がそっけなくなったのはいつからだろう。多分秋の前ぐらい。でもおれはスルーしてきた。進めてきた計画を完了させたいがために、気のせいみたいにねじ伏せてきたのだ。優月の出すサインをわざと見逃し続けていた。

 駅前で優月と合流した。彼女は妙に愛想がよかった。いや、正確に言えば
よそよそしかった。距離がある者に対する気遣いの笑顔だった。まるで労るような微笑みを直視できなかった。なんかムカついて。なんか悔しくて。

「忙しいのにごめんね」

 歩きだしてから優月が言った。

「ああ、まあ別にいいよ」

 つまらないマウントを取る。申し訳なさを押し付けてこのあとの展開を
有利にしようとするけど、彼女はおれが夜勤明けでもきっと来ただろう。だって言いたいことがあれば我慢しない性格だから。3年4ヶ月付き合ってきたから分かる。三日間待っただけでもたいしたものだ。

「腹減ったから、ちょっと寄っていっていい?」
 
 通り掛かったコンビニを指差した。うん、と優月は頷き、おれの後ろを着いてきた。おれは商品を迷うふりして店内をうろついていた。ちょっとでも長く一緒にいたい。けど優月はおれと離れて反対側の売り場を見ていた。
 一番仲良かった頃のことを思い出していた。深夜のコンビニは散歩コース。じゃれあいながら通路を歩き、新商品のお菓子を見つけては子供みたいに燥ぎ、半分に割った肉まんを頬張りながら帰る。そしてどちらかともなく手を絡めあう。いつも冷たい優月の指をおれが温めてやった。
 
 たいして選ぶ気のない優月はホットココアだけ持っていた。おれはビールのロング缶を一本取ってから、レジ横で湯気をくゆらすおでんを頼んだ。
「大根と、がんもと、玉子と、ごぼう巻きと…」
 ゆっくり吟味するおれに「おいしそうだね」と優月は子供をたしなめるように薄く笑った。おれの抵抗を察したんだろう。もう勘づいているなら早く済ませようよ。そんなせっつきが言葉尻から伝わっていたが、おれはそれには一切譲歩せず、ぐつぐつ煮込まれるおでんの具を8個容器に詰めてもらった。優月のココアも一緒に会計し、ビニール袋に入ったおでんをぶら下げて、何度か来たことのある東京タワーを真下から望める公園に向かった。
 
 さすがにもう人の姿はなかった。十二月の夜10時半に公園に来る奴なんて
そうはいない。誰かに会話を聞かれたくなかったからちょうどよかった。
「綺麗ね。東京タワー。クリスマスツリーみたい」
 胸までの髪を耳に掛けて優月は天を仰いだ。ああそうだね、と答えながらも、おれは目の端に捉えただけだった。まだ可能性を捨て切れない。東京タワーはあのホテルから見るんだ。こんなとこで堪能しないと、半ば意地になって眼前にあるはずの鉄塔を視界から逸らした。
 
「あーうまそう。まだ温ったかいや」
 
 ベンチに腰掛けると、おれはすぐにビールを開けて、ビニールからおでんを取り出し、割りばしを口で割った。左側に座った優月は白い息を吐きながらポケットに入れたホットココアで手を温めていた。

「寒いしさ、早目に話すね」
 
 尻から伝わる冷たさでじっとしてるのもしんどい。早く立ち去りたい優月にとっては都合いいんだろうなと考えながら、おれはおでんを食べていた。
 
 ーあのね。ずっと言おうと思ってたんだけど…。

 語りだした優月の話は要約するとこうだった。大手電機メーカーでエンジニアをしてる優月の部署に去年出向してきたオーストラリア人の男がいて、そいつが単独で航海する過酷なヨットレースのヴァンデグローブ二年に一度挑戦しており、今年も出場するという。仲良くなったそいつの話を聞いているうちに応援したくなり、先月フランスの港から出航するレースの見送りに行ってきたのだという。

「それでね。私もそれに出たくなっちゃたんだ。だから今年いっぱいで会社辞めることにしたの。オーストラリアに行ってヨットの操舵や気象について勉強して、小さいレースに参加しながら経験重ねて、少なくとも五年後にはヴァンデグローブに出場できるようになるつもり。もうシドニーでの仕事も紹介してもらってるの。言ってなかったけど夏に船舶免許も取得したんだ」 

 怒りがあれば声を荒げたかもしれないが、あまりにスケールのでかい相手に何も言えなくなった。ビールを飲みながらふうふう息を吹き掛けて、ただおでんをつまんでいた。
 やっぱりおでんにして正解だったなと思っていた。だってずっと俯いていられるから。10センチ隣にいるのに、知らないうちにこんなことを夢見ていた優月がすごく遠かった。おれからのプロポーズなんて、優月にとっては幸せになるためのカタログに入ってやしなかったんだ。東京タワーが見えるホテルでサファイアの指輪を欲しがったりしない。
 そのオーストラリア人ともとっくにデキてるんだろう。そうでなければ今年29歳になる女がここまで決意しない。そいつの生き方に惚れて、だから着いて行きたくなったんだ。日焼けもするし腕だって太くなるけど、そんなの構いやしないぐらいの憧れをもたらした男に何を言えってんだ?七つの海を渡る奴がライバルじゃ勝てやしないだろ。

「そういうわけだから。もう決めたから。勝手だって分かってるけど、
 できれば応援してほしいな。気が向いたらでいいけど」

 優月は今日初めていつもの彼女らしい笑顔を見せた。下口唇に当たる二本の前歯がいい。やんなるよな。こんな話を聞いたあとで余計に愛おしさが増すなんて。もう優月の気持ちは変わらないんだから、もっと明るく驚いて「すげえじゃん」と応援してやればいい。それが3年4ヶ月付き合った彼氏の最後の役目だろう。全部分かってるけど、そうしたいけど、自分がちっぽけ過ぎて無邪気も優しさも装えなかった。おでんの容器には最後に玉子だけが残っていた。

「玉子、食う?」

 容器を差し出してみたが「大丈夫」と優月は首を振った。好きだったからわざと箸を付けなかったけど、おれ同様に、玉子ももういらないらしい。
部屋で鍋をつついてた時はよく玉子の取り合いしてたのに、この寒空のおでんの如く心もあっという間に冷めるんだな。もう熱はどこにもないようだ。

 じゃあ行くね。

 立ち上がった優月は肩のバックをかけ直して言った。うん、とおれは小さく返事をした。天を差す東京タワーが彼女の背の向こうに聳え立っていた。暗闇を跳ね返す灯り。まるでこの先の輝かしい未来を示してるようだった。

「くれぐれも無事でな。無茶するなよ」

 去る間際に声を掛けると、優月は一瞬顔をくしゃっとさせた。喉を引きつらせながら「…うん」と頷き「元気でね」と目を潤ませたが、おれの方に戻ってくることはなく、眩い光が照らす道へと歩いて行った。

 モカ色のコートがやがて見えなくなった。しんしん冷える静かな夜。
歩道から飲み会帰りらしい賑やかな話し声がドップラー効果みたいに響く。
誰もが家路に急ぐ夜半なのに、まだ帰る気になれなかった。
 最初のうちは耐え難い痛みも慢性化すれば馴れてくる。 いつしか感覚の一部になって、やがてうまく付き合えるようになる。何度もやってきただろ?
 
 残っていた玉子を丸ごと口の中に押し込めて、ビールで流し込んだ。玉子は冷たく、ビールは炭酸が抜け、本来のおいしさは失われていたが、今はそれが逆に染みてくる。噛み締める度にバカな自分も砕いてやった。

 0時になると東京タワーの灯りは消える。ならそれまでここにいよう。そしてライトの消灯と同時に優月への思いも消してやる。渡せなかった指輪みたいな月だけはまだそこにあるけど、また9月生まれの彼女を見つけりゃあいい。明日ならまだホテルもキャンセル料は発生しないだろう。  

 それにしてもこんな真冬になんて美しさだ。忌々しい東京タワーめ。いつか必ず見せびらかしてやるからな。カーテン全開にして、夜通し裸でいちゃついてやるぜ。待ってろよ。
 けど込み上げるのは涙より気勢より優月への偽りないエールだった。もう頑張れしか言えないけど、どうせなら幸せになってほしい。誰よりも。どんなことがあっても。絶対に。
 
 やがてカウントダウンが始まった。人の通りもなくなり、そろそろライトが消える。
 
 5、4、3、2、1…。
 
 一秒後にパッと灯りが消えた。そしてそこにあるのはもうただの巨大な鉄の塊だった。複雑に組合わさったいくつもの三角形が見えるだけ。恋も消えればただの灰色。終わったんだな、と口に出してみた。
 すっかり凍えた尻と足。急げばギリギリ終電に間に合いそうだけど、走れそうにない。もうどこもガチガチに固まってるからな。
 飲み干したビールの缶を持って、まだ容器に少しだけ残っていたおでんの汁をベンチの根元に捨てた。紺碧の冬空を見上げてると「しょっぱいな」と呟く舌打ちが足元から聞こえた気がした。

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こちらの企画に参加させて頂きました。
十二月の東京タワーはなんとなく気合い入ってる気がするさね。

#十二月
#シロクマ文芸部



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渡鳥
お気持ちだけで充分です。チップはいりません。