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いいかげんで偽りのない僕のすべて ③


 8月の太陽は容赦ない。悪意すらあるように灼熱の光を照り付けている。
もう汗だくだった。額ではなく頭から滴が流れ落ち、ポロシャツの背中にぐっしょり張り付いていた。暑くてたまらなく、いっそ倒れたいほど休みたいのに、なぜか体が疲れてくれない。もっと走れ、もっと走れとどこからか声が聞こえてて、暴走機関車のようにひたすら走り続けた。
 あっ!と思った一秒後、サンダルのベルトが千切れ、でこぼこのアスファルトに思い切りすっ転んだ。勢いが止まらず漫画みたいにごろごろと回転し、蓋のない側溝に体が半分嵌まった。この暑さで溝も乾いており、土埃が粉みたいに舞ったが、泥が付くことはなかった。
 ゆっくり体を起こした。ようやくブレーキが掛かったが、肩がめちゃくちゃ痛かった。いてえ…と呟きながら溝から這い出ると、足先と肘から血が出ていた。切れたサンダルが裏向きに転がっている。足を引きずりながら取りに行った。アスファルトが焼けるように素足に熱かった。
 近くにある小川まで歩いた。小川といっても膝下ぐらいの深さもあり、流れも速いため、渓流と呼ぶ方が正しい。ゴツゴツとした岩場で滑らぬよう、平坦な所を選びながら川床まで下りて行き、足を浸して、肘を洗った。山からの湧水は冷たくて透き通っていて少し固い。怪我した指先を入れるとぴりりと痺れる感覚がした。竜のようにくねりながら流れてゆく川水のほとりでほてった熱を逃がした。
 携帯を開いたりして何をするでもなくぼんやりしていると、ガサガサと草を分け入る音がし、クーラーボックスを肩に掛け、ライフジャケットを着た
見知らぬおじさんが現れた。僕と目が合うと「どうしたの?」と眉間をしかめて、こめかみを指差した。
「ここ、血が出てるよ」
 え?と自分で確かめると、傷に触れて初めて痛みを感じた。顔まで怪我してるとは思わなかったので「ちょっと、転んで…」と指で拭いた。
「これ使いなよ。まだ綺麗だから」
 おじさんは腰に下げていた白いタオルをポンと投げた。すいません、と
タオルを借りて、小川で傷を軽く灌いでから顔を拭いた。タオルはちょっと生臭く、見るとうっすらと血が付いてしまっていた。
「すいません。汚れちゃって…」
「いいよ。どうせ魚触った手拭くのに使うだけだから。それより大丈夫?
靴ないの?」
 おじさんは僕に話しかけながら釣りの準備を始めた。オリックス・バッファローズのキャップを被っていて、肌は真っ黒に日焼けしていた。
 こんな小さい町に住んでてもまだ知らない人に会うことがあるのかと思った。今年で五十歳になる僕の父親と同い年ぐらい。平日の昼に釣りに来るのは何をしてる人なんだろう。土地持ちで家賃収入があるのか、早朝だけ畑をやってる農家の人か、実はもっと年齢がいっていて、定年を迎えたが奥さんに邪魔がられて時間を潰しているだけなのか。いずれにせよここの住人にはあくせく働いてるイメージがない。ムーミン谷みたいに、よく言えばゆったりしながらなんとなく暮らしが成り立っている。そうなれば彼は年老いたスナフキンで、日中釣りをしてても不思議ではない。実際彼はパイプを咥えながらいつも釣糸を垂らしている。僕はムーミンになったつもりで「なにが釣れるんですか?」と聞いた。
「イワナとかヤマメとか、小さいやつばっかね」
 そう言って岩場や川底で餌となる虫を数匹採取すると、針の先に付け、
「やる?」と僕にもう一本の竿を貸してくれた。釣りがしたいわけではなかったが、やり方を教えてもらい、しばらく一緒に釣りをした。頭の中がごちゃごちゃしてたので、なんにも考えず、見る、聞く、動かすだけに集中する時間はちょうどよかった。突如現れた迷路に閉じ込められてパニックを起こしたが、水辺の浄化作用も手伝ってか、すこーしだけ、澱んでいたものがほどけていくようだった。
 一時間ほどやっていたが、コツを掴むのが難しく、僕は一匹も釣れなかった。おじさんは結構大きなイワナを二匹も釣った。竿を返し、お礼を言って渓流を後にした。釣り道具の中にあったビニールテープを借りてサンダルを応急補強したが、底があるだけいいというだけで、歩きにくさはあまり変わりなかった。別れ際におじさんがミントのガムをくれたので、それを噛みながら日陰を選んで峠道を歩いた。
 
 暑くて足も痛かったが、まだ家に戻る気になれなかった。帰ったら同じ問題と突き合わすことになるからだ。行く宛もなく歩いている途中、携帯が振動した。初音ちゃんかなと少し緊張しながらポケットから出したが、光ってるのは別の名前だった。
『星野朱里』
 バイブする画面を見つめた。出ようか逡巡した。けれどやはり無視できずに耳に当てて「はい」と返事した。
「健太郎君?私、星野です」
 清らかな声がすうっと耳を吹き抜けた。
「ああ、はい。こんちわ」
 僕はなるたけ明るく対応した。彼女の前では疲れを見せたくなかった。ほんとは汗だらだらでしんどかったが、悟られぬよう木陰にしゃがんだ。
「なにしてたの?」
 彼女の声は滔々としてる。この暑さを忘れるように涼やかに澄んでいて、普通に話していてもエコーして響く。美しい音色に僕はいつも聞き惚れる。
「いや、なにも」僕は擦りむけた足先を見ながら答えた。
「これから家に来ない?おとといライルが退院してきたの。元気になったから会いに来てよ」
「ああ、はい。行きたいんですけど、今外なんですよ。お金もなくて、家に戻るのも、ちょっと遠くて…」
「どこにいるの?」
「東沢の、印刷工場の跡地です」
「じゃあもう少し先の道の駅まで行ける?迎え出すからそこで待ってて」
 彼女は場所を指定して電話を切った。こんな気分の時に行きたくなかったが、僕はどうしても断れない。例え本当に別の用事があったとしても、そちらを蹴って彼女を優先するだろう。こんなボロボロのなりでいいのかな。思いつつも道の駅を目指していた。

 二年前にできた道の駅は、周囲に田んぼしかない国道沿いにぽつんとあるわりに案外繁盛していた。地元で採れた野菜や米や果物がわんさと並んでいて、直営販売なので値段も安い。生鮮売り場の奥には近隣の人気店の名産品も扱っている。お酒。牛肉の佃煮。われせんべい。ラーメンセット。諸々。僕は滅多に来ないので、何が売ってるかちゃんと見るのは初めてだった。
 するとそこに初音ちゃんが行きたがっていた「ハニー・ハニー」のはちみつパンが売っていた。本店ならそろそろ売り切れる時間なのに、ここは穴場らしく、まだ八個も残っていた。
 あーっ!と思ったがお金を持っていなかった。ポケットの中を探ってみたが、一円も入っていない。失敗した。こんなチャンスないのに。僕はパンの棚の前に立ちながら手ぶらで出てきたことを悔やんだ。
 うわあと思いながらともまだそこから離れられないでいると、入り口の窓の向こうに白いベンツが入って来るのが見えた。角ばったボンネットに象徴的な銀色のエンブレムを翳して駐車場の右端に停車した。彼女の出したお迎えで、今からあれに乗るのかと気恥ずかしくなった。ほどなく運転席から顔馴染みの大柄な男が降りてきた。ああ、またあの人かと認識しながら出口に向かうと、相手も僕に気づいて会釈した。
「こんにちは。すみません」
 店の外に出た途端、秒速で汗ばむ。「こんにちは、どうぞ」と彼はベンツの後部座席のドアを恭しく開けて手を添えた。丁重な扱いに気後れする。人の目が気になって、すみませんと、そそくさと潜り込んだ。
 冷たくもなければごわつきもない質感のいいベージュのシート。エアコンが涼しすぎるぐらいだったが、深く体が沈む座席の心地よさに、つい安寧の息を溢していた。
「では出します」
 男は低い声で告げた。はいお願いしますと答えるが、この返事が正しいの分からない。僕は彼女と知り合いなだけで、特別な来客ではないからだ。こんな待遇は正直不相応だった。
 運転をする男性は辻井といい、家族ではないが星野家の住人だった。住み込みで日本舞踊の師範である彼女の母親の付き人をやっており、そのためこうした雑用も度々任されるのだ。とはいえこんなことは仕事ではないはずで、だから余計に申し訳なくなる。
 氷の上を走るかのようになめらかに疾走する車内に聞こえるのはエンジンのかすかな振動だけ。辻井はおそろしく無口な男性で、もう何度も会っているのに、未だに個人的な会話をしたことがない。僕もさしあたって聞きたいこともないので、ベンツは今日も沈黙を乗せて走り続けていた。

 田園の道を真っ直ぐに進むと、遠目にも目立つ瓦屋根のついた観音開きの板門と、広大な敷地を囲う漆喰の白い屏が見えてきた。まるで金田一耕助がやって来そうな佇まいの門構えである。
 車は門の前を通り過ぎ、車両専用の入り口から庭先のガレージに停まった。数十メートル先には二軒の家。昔ながらの黒い数寄屋造りの屋敷と、正反対に瀟洒な洋館が並んで建っている。
 車の音を聞き付けたのか、洋館の扉から家政婦がポーチに出てきて、強い日差しに目を細めて手を庇代わりにしていた。そんなに待たないでくれよと気が重くなる。エンジンを切った辻井はすぐにこちらに回ってドアを開いた。よく見ると男前なのに無表情なので余計に怖い。
 僕はサンダルを手に車を出た。ありがとうございましたと一礼したが、
辻井は黙って頷くだけだった。とりあえず洋館まで急いだ。次第に僕の姿を認めたのだろう。六十代頃の白い割烹着をまとった家政婦は裸足で怪我だらけの僕に怪訝そうな視線を走らせた。だが客をもてなすプロである彼女は、どうしたのかと尋ねもせず「いらっしゃいませ。お待ちしてました」とぼろぼろの僕を丁寧に中に招き入れた。
 まるでギリシャ神話の神殿のような総大理石の真っ白な玄関。吹き抜けの天井には、大きさの違う球体が連なる有名ガラスメーカーのシャンデリア。正面の壁に飾られた草原を駆ける白馬の絵画と水浴びする乙女像。大魔王が出てきそうなでかい青磁の壺。丸い花瓶に生けてある深紅の薔薇が、アンティークの猫足テーブルの上で咲き乱れていて、デパートの化粧品売場みたいな匂いが扉を開いただけでムンと匂った。
「健太郎君」
 左側にあるリビングの廊下から現れた彼女は僕に手を振った。
「やだあ、どうしたのその顔。それに裸足じゃないの。言ってくれたら靴を貸したのに」
 彼女は胸元までの髪を揺らしながらおかしそうに両手で口許を覆った。そして家政婦に言ってタオルを用意させた。受け取った僕は玄関に座って汚れた足を拭いた。
「すごい汗」
 彼女は腰を屈めて僕の首の後ろと濡れた髪をなぞった。さらりとした指は乾いて冷たかった。足を綺麗にしてからスリッパで家に上がった。広い廊下を歩きながら、前にいる彼女の後頭部を見ていた。僕の目線よりうんと下にあるさらさらの髪。半袖の白いブラウスから出ている腕は横にあるタイヤを回していた。彼女は車椅子に乗っていた。
 昨年事故に遭い、左足の膝から下を切断する重症を負ったからだ。なので彼女はいつも踝まで隠れる長いスカートを履いている。少しだけ見える足首はシリコン製の作り物で、一見すれば本物と見間違うぐらいの質感に仕上がっている。けれど装飾の足に運動機能はない。歩行ではなく、見栄えのために無くなった左足に装着しているからだ。
 偽物の足を見る度に僕はやるせない気持ちになる。うまく言えないが、それを着けてる彼女に本当は会いたくなかった。可哀想とか、そういう感情とは違う。なんでだよ、が多分一番近いが、根底にあるのは悔しさだった。
 
 通された応接間に行くと、窓辺にある萌葱色のソファーベッドで寝ていたゴールデンレトリーバーのライルがすとんと降りてきて、尻尾を振りながら車椅子の周りをくるくる歩いた。彼女は声を出して笑った。
「ほら、元気になったでしょう。お腹に水が溜まってたんだけど、抜いてもらったらこの通りよ。ほらライル、健太郎君よ。会えて嬉しいでしょう」
 僕は何度もここに来ているので、ライルも懐いていた。そもそもライルはおとなしい性格で、僕も動物が好きなので、すぐ仲良くなれた。
「よかったねライル。元気になって」
 ライルと同じ高さにしゃがんで、彼の顔や体を撫でた。手入れが行き届いた小麦色のライルの毛はふさふさで、この世の悲しみを全部引き受けてくれるような優しい目をして、じっと僕にその身を委ねていた。
 彼女に怪我の手当てをしてもらってから、家政婦が運んできたアイスティーやピザ、高級店のフルーツタルトを食べながら話をした。なぜ裸足だったのか聞かれたので「釣りをしていて流された」と嘘をついた。ふふふと可愛らしい声で笑う彼女は、僕のアイスティーがなくなった頃に「部屋においでよ」と誘った。
「お父さんのシャツ貸してあげるから着替えたら。そのままじゃ汗が染み込んでて気持ち悪いでしょ。肩の後ろも汚れてるわよ」
 自分で引っ張って確めると本当に土がこびりついていた。
「じゃあ、そうしようかな」
 僕は立ち上がり、車椅子を引いて応接室を出た。喋りながら廊下を歩いていると、彼女は取っ手を握る僕の左手に自分の右手を重ねた。そして「待ってた」と訴えるようにぎゅっと握った。




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