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(短編小説)さよならジェノベーゼ


 好きな人に好きと伝えるより、好きだった人にもう好きじゃないと伝える方が難しい。相手がいい人なら特に。まだこちらを好きだと分かっていればなおのことためらう。 
 だから、ないだろうか。傷付けずに別れる方法が。即座に感じ取ってもらえる仕草や目線が。それがあれば簡単なのに。こんなに悩まなくてもいいのに…。
 沙帆はもうずっとそのことばかり考えていた。朝起きて顔を洗ってる時も、賞味期限を過ぎて固くなったメロンパンを口の中に無理矢理詰め込んでる時も、鏡の前で眉を描いてる時も、約束のこのカフェに向かう電車に揺られてる間も、一秒足りとも頭から離れずに思い巡らせていた。
 向かいに座る智也は、会えなかった数日間の出来事をおもしろおかしく話していた。屈託のない笑顔が決意を鈍らせる。
 へえ。そう。ほんとに?微笑みながら相槌をうっていても、話の内容は入って来ない。聞いてるふりをしているだけで、彼の表情を伺いながら、打ち明けるきっかけを推し量っていた。
 ごめんね。他に好きな人ができたの。
 胸の中で何度も反芻していた。もう吐き出さないと苦しくて仕方ない。こんな気持ちのまま一緒にいるのは互いのためにも良くないし、なにより智也に悪い。強くそう思っているのになかなか言い出せないのは、タイミングではなく、勇気がないからだ。
 付き合って四年。結婚するならこの人と思っていた。どちらも二十代後半。双方の親とも会っていて、沙帆の母親は智也を気に入っていた。
 いつも笑ってるような柔和な目。喋り方も優しく、誠実な人柄は周囲からの信頼も厚い。仲のいい温かい家庭で育ち、大手家電メーカーに勤めていて生活面も安定していた。
 とびきりハンサムではないが自慢の彼氏。愛していたし、愛されてると実感していた。けれど沙帆にとって、それも過去の喜びになっていた。
 出会ってしまった人がいた。目が合った瞬間に恋に落ちた。彼の瞳にも同じ光が宿っていた。
 夏の終わり、大型台風が上陸した。帰宅の安全確保のため、一時間早い終業となったが、既に交通機関は混乱をきたしていた。電車はストップし、バス乗り場には長蛇の列。待てども待てどもタクシーは来なかった。
 こんなとこで待ってても埒が明かない。アパートまで10キロちょっと。歩けない距離じゃないと、吹きすさぶ雨風の中、沙帆は傘の柄を短く握りしめて家へと向かった。
 しかし滝のような大雨。至る所で氾濫が道を遮って遠回りを強いられた。
気が付けば辺りはどんどん暗くなり、もう傘など役に立たなくなっていた。
 全身ずぶ濡れの泣きたい気持ちで歩みを進めた。この先を行けばアパートがある坂道を登っていた時、道の向こうから紺色のSUVがやって来て、通りすがる刹那に停車した。そして運転席の窓が開くと「大丈夫?乗ってく?」と見知らぬ男性が声を張り上げて聞いてきた。
「この先、木が倒れてて通れないって。あっち回らないと行けないよ」
 彼は後ろを指差した。沙帆は足を止めて、彼の示す方向に目をやった。
同時に長い前髪から覗く鳶色の瞳に魅入られた。二人の間を何台かの車が折り返して行った。
 いつもの沙帆なら断る。そんな危険な真似しない。昔から親に言いつけられていた基本の注意を守る。けれども応じてしまった。歩き疲れていたのも否めないが、重なったまなざしが発する歓喜を無視できなかった。彼は沙帆がびしょ濡れでも構わず後部座席に座らせ「大変だったねえ」と家まで送ってくれた。
 お礼がしたいからと別れ際に連絡先を交換し、それから何度か逢瀬をしたが、まだ手すら握っていない。まるで友人のように振る舞うが、さよならの時になると心が残ろうとする。彼の腕が抱きしめたがっているのが分かる。
沙帆も胸に飛び込みたくなるが、やはり智也を裏切れなかった。
 切り出せないまま二ヶ月が過ぎてしまい、今日こそはと奮い起たせて朝を迎え、近所の稲荷神社に立ち寄ってからカフェに来た。神頼みするようなことではないが、少しだけ強くなれる力を貸してもらいたかった。
 気もそぞろのまま、いたずらに時間だけが流れてゆく。どうしよう。いつ言おう…。じっと考えていると「お待たせしました」と、ウェイターが料理を運んできた。けれど沙帆の前に置かれたのは、注文したはずのトマトパスタではなく、バジルの掛かったジェノベーゼだった。
 明らかに違う品。指摘すると「あれ、そうでしたっけ?」とウェイターは慌てて注文表を確認した。ジェノベーゼでも別に食べられる。お店にも悪いし、手間を考えたらこのままでもいい気がした。でも違う。これは欲しいものではなかった。
「すみません。作り直してください」
 沙帆は皿をずらした。いやな客と思われてもいい。いい人を演じて、もう自分に嘘を付きたくなかった。
 十五分ほどしてトマトパスタが届いた。ふわりと浮き立つ湯気。フォークを手に取り、角切りのトマトの乗ったパスタを巻き付けて口に運んだ。さわやかな酸味が心地よく広がる。食べたかった味だった。
 できたじゃん。
 そっと呟くと涙が零れた。私、今、勇気のない自分とさよならできたよ。あり得ないオーダーミスが背中を押してくれた。
 ずるいままでいるよりマシ。沙帆はフォークを紙ナプキンに置いた。ぐっと息を吸い込み、顔を上げ「あのね…」と智也を真っ直ぐ見つめた。

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